『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ編

下記のポニョ編の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080822/p5



評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★星4つ)



■CGの俯瞰的な空中戦闘シーンは、秀逸〜宮崎駿とはまた別次元の空の美しさを見せてくれる

スカイクロラ見てきました。まず結論からいってしまいましょう。この作品の見どころは、CGの素晴らしい空中戦闘シーンです。それだけといっていいが、それがすごいって作品です。かつて宮崎駿の十八番といわれたこの部分を、見事に映像化しています。個人的に、宮崎駿が「できない」硬質でリアル俯瞰感覚は、押井さん一本!という気持ち。飛行機を愛する人間として、あの俯瞰した映像は、感動的だった。とりわけ、基地の空港へ帰るときの、すべての地上的な安定感から切り離されたあの何とも頼りない映像は、たまらなかった!。


実は、これだけで★5(=傑作)行きそうな素晴らしさなのですが、惜しいっ、脚本があまりにも「押井守的なもの」から成長がないので、どうしても★4つ(=惜しいっ!)になってしまいます。いや、さすがに日本の映画を見る者として、宮崎駿や押井守の最新作は、リアルタイムで見ておかないともったいないですよ。イベントとして。好き嫌いは別。それに、空中戦闘シーンが素晴らしいこの作品は、劇場版で見ておかないと損をすると思います。


■「生きるということはどういうことか?」についての両巨匠のスタンスとと答え

ただし、僕は、『崖の上のポニョ』よりもはるかにおもしろかったし、今の時代に合っている表現だとは思いました。詩的な作品で、映像や演出からすべてが、現実の境界線があいまいなキルドレである函南優一の主観視点から描かれることにより、世界の非現実感を醸し出させている。一貫して最後まで、村上春樹の小説を読んでいるときに似た詩的なトリップを味わうことになる。これは見事な演出。

羊をめぐる冒険

この永遠の日常を生きる現代のわれわれの「息苦しさ」をどう扱うかについて、同じテーマに宮崎駿さんも押井守さんも直面していると思います。だから


『崖の上のポニョ』のコピーは、「生まれてきてよかった。」


で、


『スカイ・クロラ』の「もう一度、生まれてきたいと思う?」


になっています。つまりは、「生きるということはどういうことか?」について語っていますと宣言しているようなものですね。

ちなみに僕の感覚は、ポニョを見た後に、「生まれてきてよかった。」という言葉を考えると、ほんとか?と疑問が浮かびます。だって、あまりに詩的な映像空間は死の匂いに満ちていて(僕はこれ大好きですが)、少なくとも熱く命を燃やすことに対する肯定は語られていると僕は感じなかったもの。『もののけ姫』の、あの熱い「生きろ。」という見事なコピーと比較すると、よくわかる。宮崎駿監督、あなた、ぜったい生まれてきてよかったと今の子供たちに言えないと思っているでしょう?って、突っ込みたかった(苦笑)。

に比較して、押井守監督は、はっきりと生きる肯定を打ち出している。さすがに演出が非常に統合・設計的な押井守さんのほうがはっきりと結論を出しており、それは心地よかった。


自らの生に現実感を持たない主人公が、世界をいかに感じるかというアプローチによって、生命の中に見出す希望というテーマを描き出したのは秀逸だ。


ノラネコの呑んで観るシネマさんより
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-247.html


それは、最後のほうで、主人公である函南優一は、現実感を全然持たない演出は変わらないまま、絶対に勝てないといわれるティーチャーへ明らかに無謀な戦闘を試みるんですが・・・・ここに、僕は、誤魔化しではない現実感の希薄な現代社会で命を燃やす方法を語っているようで、とても強い意志を感じました。そして最後の草薙にもう一度出会うシーンは、それほど命を燃やしてさえ永遠の日常に回収されてしまう僕らの現実の絶望的なマクロ環境を語っているようで、なかなかにグッときました。この辺の、フィリップ・K・ディックに連なる「世界のウソ(=虚構と現実の境のあいまいさ)に対する告発者」としての押井守らしいっと思いました。何も、あそこでああやって視聴後が苦しくなるようなシーンを入れて、映画の完成度を高めメイナーて気にしないでもいいではないか、と思うのですが、そこは作家主義的で正しいこだわりですね。


とはいえ、永遠の日常に回収されるマクロ構造はもうわかりきっていて、そういった絶望的な世界にいる「われわれ自身」はもう実は言及するまでもない事実なんですよ、、、では、死ぬか?って草薙は函南に問いかけます。けど、女性である草薙に函南は、「生きて見届けろ」と言いつつ、自分はティーチャーに特攻して死ぬところは、男性と女性の生命力の差はこれくらいあると主張しているようで、男性としては、うーむ、まぁ正しいと思うけど、露骨な「ファムファタール(femme fatale)」(=運命の女)だなぁ、と思ってしまいました。宮崎駿さんもなんだけど、母性的なものへの回帰は、このあたりの世代の特徴的な傾向ですよね。まぁ確かに普遍的なドラマツゥルギーではあると思いますが。小説版の方が、キルドレから人間に戻る方法という意味で、この話はさらに露骨ですよね。栗本薫の『レダ』もそうだってけれども、生命としては女性の方が強いというのは、SFの伝統的解釈ですよね。



■押井守監督の言いたいことはなにか?〜最初期から、全く一本のズレもなく同じことを語っていると僕は思います

ちなみに脚本としては、『うる星やつら2〜ビューティフルドリーマー』いや『天使の卵』以降、何一つ押井守監督の「言いたいこと」は変わっていないし本質の構造は、全く同じだと僕は思います。わざわざネタばれする必要もないので、何が同じかは、劇場で観てください(笑)。


キャラクターとしては一度もその姿を見せないにもかかわらず、影のように物語を支配する撃墜王ティーチャーは、キルドレではなく大人の男。
つまり、創造物であるキルドレが決して越えられない現実の壁だ。
水素とのつかの間の出会で愛を知り、生きる事の意味を見出した優一は、永遠の日常を外れて、あえて壁に挑む事で、世界を包み込む巨大なループに希望という名の小さな楔を打ち込んだのかもしれない。


ノラネコの呑んで観るシネマさんより
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-247.html


この文章を読んだだけで、大傑作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と同じ構造だとわかりますよね。押井守さんは、最初期から、村上春樹や村上龍と同じ、モノを見ていると思います。…年代的にも近いよね?。資本主義社会のフロントランナーとしての安全なブランケットでくるまれ、現実とのアクセスを失った都市文明の「現実の退屈さ」が、極まった先進国・日本に生きるもすべてに共通する、まるで夢を見ているような、生きている現実感の手ごたえのなさと、現実の境界があいまいなまま、すべてが進んでいく世界のありかたについての違和感を、告発することです。フィリップ・K・ディツクに連なるというのはそういう意味です。

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー

TOKUMA Anime Collection『天使のたまご』
TOKUMA Anime Collection『天使のたまご』

ただ、そう、、、、もう年齢的に50台を超える彼らには、そろそろ「告発するのにはもう飽きた」。では、この世界でどう生きるべきなのか?についてモデルを提供してくれ、という大きなテーマが降りかかるようになりました。


押井守さんや宮崎駿さんの制作のスタンスがどうあれ、どういう意志で映画製作にかかわるのであれ、この疑問を答える、、、なんというか、言い方が難しいのですが権利と義務があると思うのですよ。現代日本人の表現者としては。


そもそも、戦後の60年代以降の日本社会で表現の世界に身を置けば、究極の到達点は「そこ」ですから。フィリップ・K・ディツクは、絶望して自殺したのかもしれないですが、それでは、何の解決策にもならない。


なぜならば、われわれ人生は続いていくことはもうはっきりとしたから。


60年代や70年代にあった革命への志向、ニューエイジ的な渇望は、現実が超克していくような進化は起きないという80年代以降の「現実」によって、否定されました。もうわれわれには、革命やニューエイジの幻想に逃げることも許されないのです。宗教すらそうです。オウム真理教の存在によって、我々は、すべての逃げ道を封鎖されてしまいました。

アンダーグラウンド (講談社文庫)

もう、幻想を見ることも、われわれには許されない。その果てである2000年代に、僕らはいったい「どこへ行こうというのか?」「どこへ行くべきだというのか?」それに答えずして、表現する資格はないと僕は思うのです。


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そういう意味では、さすがに、そつなく押井守監督は、時代の問題点をそつなくまとめている。これまでの全作品の中で圧倒的に、わかりやすい作品だ、と僕は思います。これ、宮崎駿へのある種の挑戦というかアンチテーゼですよね。


難解なものをエンターテイメント化しないで、快感原則に逃げることもせず、難解なまま非常に理解されることが少ないであろう層に向けて、それでも、それなりに売らせてしまう。しかも、たぶん、意味はわからなくとも、「感覚として」「感性として」こういう世界に生きることの難しさや違和感は、バシッと誰にでも伝わると思う。、、このテーマなんて、見る人お金を出す人なんて、人口の数%もいないんじゃないかと思う。マーケットサイズからいったら、数千から1万はいないかもしれないと思う。ある種の「文学」の傾向をもったものですから。にもかかわらず、これだけ大規模に売る。そして、アニメーションの職人としては、天才宮崎駿に勝てなかったはずなのに、最も宮崎駿の魅力の核心である空中を飛ぶ感覚で、真っ向ガチバトル!。そして、たぶん勝負としては、押井守さんの勝利ですよ、これ。


そういう意味では、天才にして巨人宮崎駿への挑戦がはっきりと感じてしまうなぁ。意識しているかどうかはともかく。少なくとも一観客の僕には、そう見えてします。


上記の、この作品の脚本としては、「そつなくまとめた」というのが僕の結論であって、押井守さんが、自分のテーマを大きく回答、発展したというわけではないので、やはり停滞と感じてしまう。だから、★5つの傑作としては認定できない。けれども、明らかに、挑戦が見て取れるこの作品に対しては、僕は、ポニョよりもはるかに高い志を感じるし、同時にその志がわかりやすい。宮崎駿のポニョは、挑戦なんだか、後退なんだか、もう混乱して意味不明だもの。まぁそこが宮崎駿らしい「凄み」でもあるのですがね。



というのが結論。






ちなみに、せっかくなので、映画の理解の補助線。


■人間社会のバランスを取る装置として戦争が必要ということの意味?

僕は、とりあえず小説も3冊分読んでみたが、この作品世界のSFとしての整合性には、かなり疑問がある。なんというか、森さんの小説にしても、押井守の映画にしても、「世界が壊れていること」の演出のために、無理やりこの世界の論理を作った、という後付けを感じる。彼らが書きたいのは、「壊れた世界の中にいる人間の主観がどういうものか?」であって、「壊れた世界の整合性」自体ではない。だからこれを、ハードSFとは呼べないし、下手をしたらSFともいえないかもしれない。むしろ、ライトノベルとでも言えるのかもしれない。

スカイ・クロラ (中公文庫)
ナ・バ・テア (中公文庫)

とはいえ、そう言ってしまっては、さびしいので、この戦争を合理的に組み込んで世界を家畜小屋のように管理してしまおうという善意なる設計主義者たちの全体主義的な欲望を、理解の補助線のために考えてみたいと思います。




<<p430あとがきから抜粋>>

人間が戦争ばかりやっているのは、べつにおかしいわけではなく、もともと外なるものを峻別し追跡し攻撃し殺戮し略奪する天性があるからでしょう。私たち動物が口を具えてこの方この方、ずっとそうやってきて、それじゃちょっと情けなくはないかと大脳が言い出したがわずかここ百年あまり。それまで5億5千万年ほど生きるために殺していた。そう簡単にやめられるもんじゃありません。


 知的生物を自認する以上は、本能の命令であるところの殺戮意欲を何とかして抑え込むのが向上というものだと思います。より巧みなのは、智恵を凝らしてこの猛獣に代わりの餌を与えてあげることでしょう。同時に、それなくしても生きていける方策を肉体にも提供する。菜食主義は工夫の一つですが、それでもまだ足りません。あれだって、命を殺していますし。

 SF的には、完全栄養薬品を作り出し、味覚と空腹感を欺く手段を完成することが、知的向上だと思います。

グロテスクだと思いますか?

一方でまったく逆のアプローチも考えられます。殺戮行動と生存手段が等しくなる社会を築いてしまうこと。すなわち猛獣に活躍の場を与えることです。


やってみました。この話で。


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小川 一水

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下記の記事の引用は、小川一水さんの上記の作品に対する僕の感想ですが、これが、よくよくこのSF的発想を説明していると思うので、そのまま全文掲載しています。ちなみに、世界がほろびたあとという舞台は、設計主義の欲望を、ものの見事にわかりやすく現出させるので、この系統のテーマの王道なのです。


<<世界が滅びたあとという設定>>


「世界が滅びた後」という設定には、

1)設計主義的な世界を一から設計仕様とする欲望


2)それに付随する、なぜ滅びたかという謎解きの部分


3)滅びさった後の世界での、濃い人間関係による共同性と絆の復活


<<世界を無から創造する手法>>

このようなサイエンティフィック・フィクションの系譜は、ヨーロッパの社会思想・哲学の発想を脈々と受け継いでいると感じます。というのは、この世界を無から設計しようとする欲望に出会うとき、一番思い出すのが、ホッブスのリヴァイアサンです。「万人の万人による闘争」という概念を聞いたことがありますでしょうか?。これは、国家主権の正当・正統性を主張した書物です。中身はともかくとして、ロールズの正義論やアダムスミスの国富論は、すべて非常に大きな仮説のもとに世界を再構成し直すという思考の手順を踏んでいる。

えっと、どういうことかというと、


現実を現実のままで理解するのは、あまりの情報量の多さで挫折してしまう。たとえば、ある森や海でもいいけど綺麗な風景があったとして、それを文章で100%再現しろといわれたら、不可能なのがわかると思う。

だから、たぶん世界はこういう原理で動いているよね?

という大きな仮説(=ウソ)をまず構築するのです。その仮説(=ウソ)に基づいて世界を記述してみて、論理的整合性を保てるかどうかを確認するという手法なんで、「膨大な情報量の世界」という対象を、「計量可能で理解しやすい構造に捨象」します。これはサイエンス(=科学)の手法とも同じですね。変数を固定するために、ある一定の条件が成立する限定状況(=実験室)を作成し、そこでの再現性を検証する。だから、ヨーロッパ社会思想・哲学には、「最初の大嘘をかま」します。しかしそれは単なるウソではなくて「大きな仮構の世界を構築する」という目的で成立しているのです。まずこの仕組みを理解しないと、ヨーロッパの社会思想史はまったく読めません。どうもヨーロッパの思想や哲学は、この手の「無から創造する」思考伝統があるようで、その最もポピュラーな伝統の継承者が、SF(サイエンティフィツクフィクション)なんだと僕は思うでのです。

さて、「世界を無から創造する」という言葉を聞くと、たぶん、ヨーロピアンファンタジーのトールーキン『指輪物語』や通なSF好きな人ならばル・グゥインの『闇の左手』とかを思い出すでしょう。SFには、「無から世界を創造する」という欲望の典型的な展開があります。ちなみに、こういった「無から世界を創造するという欲望」のファンタジーのエンターテイメント性をほんとよくわかっています。さすが、小川一水さん。


えっと、社会を合理的に運営できるように設計して改良していこうと志向する「考え方」を突き詰めていくと、人間の殺戮本能を、どうやってうまく馴致しようか?って考え始めるんですね。これには、さまざまなSFが、気合いを入れて可能性を突き詰めています。一番よくあるのが、遺伝子改造や、テストチューブによる洗脳によって、そもそも殺戮意識のない去勢された「人間」を作ってしまえばいいじゃないか。100年もすれば、全部入れ替わるぜ!みたいなやつです。


ちなみに、これは僕の愛する栗本薫さんのSF小説『レダ』とか竹宮恵子さんの少女マンガ『地球へ』とかが物凄くわかりやすくこの系譜の作品になっているんで、見ると面白いですよ。映画では『ペイチェック』『アイランド』『マイノリティーレポート』とか、ってこれはフィリップ・K・ディツク原作ですね。テリーギリアムの『12モンキーズ』『未来世紀ブラジル』それに、マイケル・ウィンターボトム監督の『CODE64』とか、、、あっと最高の傑作は、鬼才アンドリュー・ニコル監督の『ガタカ』ですね。


ガタカ
マイノリティ・リポート 特別編
12モンキーズ


ただし、こういったマクロの世界自体を合理的に描写しようとするのは、1930〜50年代までのSFが多く、それ以降は、そういったマクロの世界の構造は所与のものとして(=つまりはみんな肌でその感覚がわかるようになってきているので説明が不要)、ミクロの個人の主観はどうなっているのか?って事を書き始めるんですね。





■なんとなく参考記事

『ハイウイング・ストロール』小川一水著
http://ameblo.jp/petronius/entry-10004175583.html

『西の善き魔女Ⅵ 闇の左手』萩原規子著/世界を疑う感覚①
http://ameblo.jp/petronius/entry-10006712520.html

『西の善き魔女Ⅵ 闇の左手』萩原規子著/世界を疑う感覚②
http://ameblo.jp/petronius/entry-10006718232.html