『とある飛空士の夜想曲』 犬村小六著  アメリカとの戦争で、もし、日本が戦術的に奇跡があって勝つことができたら?というお話

とある飛空士への夜想曲 上 (ガガガ文庫)とある飛空士への夜想曲 下 (ガガガ文庫)

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★4つ)


非常に面白かった。基本的にほどの理由がない限りは、その本の面白いところを肯定的に書こうというスタンスで書いているので、最近感想どまりで、単に、うん、おもしろかったです。だけしかいわないペトロニウスです。キャッチコピー的にいえば、普段戦記ものを読まない人には、とびっきり★5つ級に面白いと思う。逆に戦記ものに慣れている人、アメリカとの戦争の歴史的経緯を知っている人には、ああーなぞりかーと思ってしまうだろう。


ちなみに↓これ、おもしろかった。

http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4032961.html


が、しかし、この作品は、全シリーズのように、物語として面白かったです、だけではない部分があったので、そこを書いてみようと思う。多分僕のプラスの評価もマイナスの評価も、この部分の表裏一体になると思います。

ではまず、とびっきり面白かった点。

そこをちょっと説明しますが、前置きが長いので覚悟してください(苦笑)。まずは、このブログを読んでくれている人は、僕が、失われた日本近現代史というカテゴリーで、継続してものを考えているのをご存知でしょう。自分の様な団塊のジュニア以降の世代には、日本の近現代史の歴史評価が定まっていないこと、またそれがゆえに教育がされていないこと、このことから「空白」に感じられる。自分の中で、定まった骨となる部分がないため、物事を考えたり、見る時に曖昧になってしまう。そのためには、事実を追う事ももちろん、イメージをつかむことさえ難しい。


なので、この時期は、非常にイデオロギーによって左右されるので、まずは日本の中で極右側から極左側の極端な意見を網羅して、その後、それを別の国から見たらどう見れるか?などという多視点で、自分の中で失われているものを取り戻して行こう、という試みをしています。


そして、なんといっても、第二次世界大戦、対米国との戦争をどうとらえるか?というのが、日本の失われた歴史物語の重要な評価ポイントです。僕は中国との戦争がまだよくわかっていないので、そこはなんとも言えないんだけれども、超傑作である「風雲児たち」の林子平らからの物語を読んでいるうちに、ハーバード大学で講演した元伊藤忠会長の瀬島隆三(元大本営参謀)さんの、日米戦争は防衛戦争であり安全保障上からやむえないものであった、という発言が、最近ストレートにつながってきました。

風雲児たち (1) (SPコミックス)

これは戦前の基本的な言説で、いまではどちらかといえば右翼的なシナリオなんですが、ただし、当時の日本がエリートから大衆まで、言い換えれば知的に考え抜かれた次元から大衆の熱狂的な蒙昧さも含めて、日本という地域が、外国によって攻め滅ぼされて奴隷化されて消滅する、という強烈な恐怖が存在した、ということが、この時代の発想の根本に存在する、ということはほぼ間違いなくわかってきました。事実、ポツダム宣言の受け入れの条件には、国民奴隷化をしない、という項目がありました。ちなみに、僕はこの恐怖は非常に根拠ある思想だし、実感だったと思います。なぜならば、ヨーロッパ諸国によって、アジアアフリカが数百年にわたって奴隷化され収奪されていたという事実に基づく思想であり、かつ、ペリー艦隊による強引な鎖国からの開国も含めて、その恐怖は実感であったことは間違いないからです。だから、当時の徳川政権末期、続く新政府、大日本帝国という政体は、基本的な目的意識として、過剰なる怯えと安全保障の徹底追求が、その背景にあったと僕は思います。

話が長くなった、まぁこの辺りは、またどこかで細かく書きますが、だから他の国を侵略していいのか?とか、勝てないことがよくわかっていた対米戦争に、しかも諸島防衛の装備や軍隊もなく突入する様なアホなことが許されるのか?とか、まだまだロジック的には、いろいろ調べたいことはあるんですが、にしても、徳川末期から1945年までの期間は、その戦略思想の根幹に、、、いや背後に隠れてといった方がいいのかもしれないが、殺らなきゃ、殺られる、という超怯えの意識があったことは、僕は、最近、納得できてきました。

いやほんと、林子平くらいまで遡って、尊王攘夷などの攘夷思想をちゃんと追っていかないと、またイギリスやスペインなどの欧米列強の世界侵略の歴史を同時に追っていないと、この「納得」ってなかなか訪れないんだよね。

いまの歴史や人権感覚からすると、侵略自体が悪だということや、そもそも東アジアの歴史共有問題など、隣国との関係性、外交のなかで、なかなかニュートラルにものが考えられないし言えないので、瀬島龍三さんなどの、当時のエリートの対米戦争は自衛戦争だ、というのは、言い訳や逃げだと僕は、ずっと感じていたんですが、実は、少なくとも当時にすれば、それは、決して正統性のない物言いではなかったのだ、と最近思います。もちろん、日本にとって都合のいい、日本主軸主観なので、国際的にはそう単純ではないですが、たぶん、あと100年くらいたって韓国や中国が十分豊かになったら、東アジアのヨーロッパ列強からの防衛戦争の史観は、それなりに受け入れられるんじゃないかな、と僕は思いますよ。ドイツが第二次世界大戦を引き起こしたのも、元はといえば、戦勝国がいじめ抜きすぎたからだから、なんていうのは歴史を勉強すれば、一発でわかることだからね。なかなか、やられた側が戦勝国になったので、認めがたいとは思うけれどもね。


まぁ、それは置いて置いて、では!やっと小説の話になるんですが、この物語における帝政天ツ上と神聖レヴァーム皇国の関係は、そのまま大日本帝国とアメリカ合衆国なんだよね。そしてこの撃墜王の物語は、そのまんま、米国との戦争における零戦のパイロットの物語なんですよね。話の基本骨格、エピソードは、全部借り物といっていい。いや、ぼくは非難している意味ではいっていません。十分に物語として自立しているので、こういうのはありだと僕は思います。


というか、逆に、このようなライトノベル風味の読みやすい物語に、あの悲劇の戦争を、よくぞつくりかえられたなーと感心します。


この物語は、千々石武夫という炭鉱・・・・(明らかに九州の軍艦島のことですよね、これ)でただ道具として死んで行くだけの少年が、戦争のため、海軍飛空予科練習一期生という、もの凄い倍率の試験をくぐり抜け、そして世界のパイロットの頂点へと到達していくビルドゥングスロマンです。

けど、このようなドラマチックな人生は、戦争があり、この無謀で意味のないとも言えるやむにやまれれぬ、、、といっても、そんな殺し合いに本当に意味があるのか?自分たちが全滅するかもしれない、しかも勝てる見込みのないことをするのがマクロ的に意味があるのか?と問いかけながらも、、、、それでも、自分の生を輝き尽くし、誇りを貫いていく姿に、僕は感動を覚えました。


これはまさに「永遠のゼロ」などで登場した第一艦隊など最初期の零戦のパイロットの人生そのまんまですよね。文字もまともに読めるかどうかのレベルから、どん底で死にゆく人生の底辺からなんとか抜け出そうと、物凄い倍率で、勝ち抜いてきた予科練生たち、、、しかもその一期。炭鉱で死ぬだけだったボロクズが、世界の頂点のレベルまで、、、、開戦当初の零戦のパイロットの技量、そしてその飛行機の機体性能は、正真正銘の世界の頂点でした。ましてや、全世界有史上、はじめての機動空母艦隊による航空戦という戦略、戦術の大革命のフロントランナー。こんな心震えることは、なかったと思います。ゼロ戦のエースパイロット坂井三郎さんが、青春における誇りある最高の思い出だ、見たいな文章を残していますが、さおうだろう、そうだろう、とうなずきます。この小説読んだら、だれもが、試験に合格したときの武夫の叫びに感動すると思いますよ。僕は、号泣しましたもん。

永遠の0 (講談社文庫)

大空のサムライ(上) 死闘の果てに悔いなし (講談社プラスアルファ文庫)


ああ、、、凄い量を書いたのに消えてしまった、、、、泣きそう。


ええと、僕は、「坂の上の雲」のかっこいい明治の日本人の司馬史観がとても大好きなのですが、これの正体がなにか?といえば、それは、文明化による異民族支配の正統性という、第一次世界大戦前後のの大英帝国が支えきれなくなった帝国形成の正統性のロジックなんだろうと思います。この概念は、文明化してやる、ということによってその地域の非文明人、土人を、文明の世界つに引き上げることによってその正統性を保つというロジックです。

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

大英帝国衰亡史 PHP文庫

後藤新平―外交とヴィジョン (中公新書)

これは、その科学力と武力が圧倒的な差をもっていた数百年ぐらいは、とても有効に機能した帝国支配の正統性を支えるロジックでした。このロジックの亜流として、近代文明、科学と武力に支えられたヨーロッパの近代国家システムを学ぶこと吸収することは、すなわち人類のフロントランナーとして全人類を先導するという憧憬、思想、動機、、、なんでもいいのですが、そういう強い魅力を放つものであったわけです。だからそれを学ぶものたちの心に強い使命感をもたらしました。まだ概念を捕まえただけなので、表面しかわかっていなくて、考え抜かれていませんが、、、これってなんなんでしょうねぇ?。このへんの少し亜流が、いまのアメリカ合衆国の世界の警察という感覚なんだろうと思います。あっ、これってサンダーバード的なアングロサクソニズムですね、、、いま繋がった。これが、いかに、かっこいいことかは、この本を読めばわかります(苦笑)。あと、これらの物語がいかに日本人に愛されているかを考えればよくわかると思います。けど、これって大英帝国にとっては、第一次世界大戦の終わりでほぼ息の根を止められたものの考え方なんですよね。


僕は、日本・アジア地域にとっての第二次世界大戦は、ヨーロッパの歴史にとっての第一次世界大戦と同じ時系列的、歴史的位置づけに当たる機能をもっていると、と最近仮説を立てています。第一次世界大戦で、文明による多民族支配の正統性という帝国形成のロジックは、遅れて来た後発の近代国家によって、まぁその急先鋒は、ドイツであり日本ですが、その正統性を失います。ようは同じ様式を取れば、同じ対等な近代国家になれるわけなので、支配する正統性が失われたんですよ。これを骨の髄まで味わったのは第一次世界大戦ですが、その後、第二次世界大戦とスエズやフォークランドなどによってイギリスは、完璧にその思想を打ち壊されます。そういう意味では、日本はまだ、ヨーロッパでいうニ回目の世界大戦を経て否がゆえに、まだ前の思想の残滓が残ってしまっているんですよ。また、アジアの白人支配からの解放や文明化を基礎とする植民地経営の優等生的実施によって、それを肯定する声や事実もないわけではないので、なかなか思いきれないのでしょう。けど、イギリスをみれば、ようは単純なことで、これは、文明化による異民族支配の正統性という大英帝国形成のロジックに対して、新しく台頭してきた民族自決の概念が打ち勝ったのが現代社会なんですよね。ちなみに民族自決の最も優等生、、、白人やヨーロッパ文明以外でも、近代国家を形成して文明化を独力でできるということを、まさに証明したのは、大日本帝国でしたもんね。皮肉なものです。けど、明治の日本建国の父たちの、グレートエンパイヤという名前に込めた意味は、東洋のイギリスたろうということですもんね。なかなか皮肉なことですねー。ちなみに、帝国形成のロジック、文明化とフロンティアの文明化についての考察は、以下でしてきたやつです。日本でいえば、皇民化のことですね。

小説 琉球処分(上) (講談社文庫)

『琉球処分』にみる近代国家を作ることの面白さ〜フロンティアを前にした時の商人の高揚感
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110114/p3

『後藤新平/外交とヴィジョン』北岡伸一著/植民地経営・近代文明化のスペシャリスト�
http://ameblo.jp/petronius/entry-10003885748.html

『後藤新平/外交とヴィジョン』北岡伸一著/植民地経営・近代文明化のスペシャリスト�
http://ameblo.jp/petronius/entry-10004001497.html

『後藤新平/外交とヴィジョン』北岡伸一著/植民地経営・近代文明化のスペシャリスト�
http://ameblo.jp/petronius/entry-10004002821.html


最近の僕の仮説は、なるほど、日本における東アジアの歴史認識の違いは、大きくはこの日本が、メインは韓国と中国ですが、これ等の国に比べてワンステップ近代化のスタート時期が早かったので、大英帝国的な文明化による支配の正統性という思想が残っていることと、東アジアには、そもそも白人支配の歴史は、ギリギリ、インドや東南アジアに比べて少なかったので、このロジックに対する親和性が皆無であったということなんだろうと思います。こう考えると、けっこうこの辺の話の食い違いの理由が綺麗に整理できると僕は思うんですよね。日本は大英帝国の植民地支配の正統性で有る、現地の文明化、という方法論を忠実に守ったので、というか凄い異様な優等生だったので、あそこまでやって!という当時の人々の悔しさとかも残っているんだと思うんですよ。台湾やマレーシアの親日な態度とかは、これらの事実が、まぁやはりあるからだと思います。イギリスみたいに、第二次世界大戦で二回目の大打撃を食らえば、もうそんなあまちょっろい夢みたいなことは言えなくなるんでしょうが、いかんせん、国民が何百万人も死にまくって、大都市が爆撃で灰になる(イギリスもドイツの空襲で都市壊滅してますよね!)経験が、まだ一回しかないので、なかなかこの思想が消えきれないのでしょう。


いやいや、また話が壮大にそれている。。。


何をいっているかというと、日本の近代史の基本的な概念として、


1:文明化による異民族支配の正統性と帝国形成

2:その目的としてのヨーロッパ列強からの防衛戦争

という二つの意識が、背後にあるんだってことです。難しいですよね。これって、思想的にいえば、逆のことをいっているんですよ。文明化による帝国形成を打ち破ったのは、後発近代国による防衛戦争の概念(民族自決)ですからね。


そんでね、対米戦争というのは、ようは、世界支配を目指す帝国、、、おお、ここは単純にアングロサクソニズムといえる!への辺境の土民のせつない防衛戦争の色彩を帯びるんです。ここ、凄い皮肉なのは、この民族自決の防衛戦争を行うために、遅れてきた近代国家としても、アジアのフロントランナーである日本は、その防衛戦争遂行に、帝国を形成して植民地を形成しなければ、その戦争遂行のリソースが手に入れられなかった、というアンビバレンツです。とはいえ、そのアンビバレンツは、ここで入ったん棚上げしましょう。こと、林子平の物語から、ペリーによる強引な開国、鎖国の終わり、そして坂の上の雲を目指す帝国形成への道、そしてその最終局面であるもう一つの帝国たるアメリカとの最終戦争、、、、これは物語として一つのストーリーを紡ぐんですよ。僕は、非常に連続性とつながりを感じます。感じませんか?。正しいか正しくないかとかいう後世の価値評価ではなくて、当時の人々の心象風景には、こうした歴史感覚、時代認識があったんだろうなーと僕は思います。この物語は、十分に、「坂の上の雲」の物語と接続をします。ちなみに、僕は、対中国との戦争の評価や勉強がまだ甘いので、この裏側の側面は、いまは仮説としては捨象しています。たぶんこの物語の裏に、防衛戦争の為に、異民族支配をしなけれならないというねじれた物語があるはずなので、そこは、またゆっくり調べて行こうと思っています。たぶん、浅田次郎さんの清朝末期から毛沢東までの中国近代化の本質が理解できれば、このへんは、よりわかってくるのではないか、と最近思っています。そこは、アジアの中心にして大国、中国の王座復帰への物語となるはずです。このへんも、ぞくぞくしますねー。ここは、皇帝専制主義の超克(できていないけどなー?)と新しい、民衆が中間階層をつくる(=一票と消費と国民会への兵士の役割を受け持つ)という資本主義の現代社会への適応の物語。


はーーーまぁこのへんの話は、自分の中でどう整理が尽きつつあるかを、どこかで書きたかったので、粗くではあるし、どこまでこのイメージが伝わっているかわからないのですが、マァかけたので満足です。


それでね、やっとこのと『ある飛空士への夜想曲』の話に、、戻るかな?、戻るんですが、この物語は、このせつないほど追い詰められた弱小国家が、それでも、奴隷化されずに、自らの足で立つ!と決めた、悲しい戦争の物語、という「物語」をよく描けていると思うんですよね。特に、この物語は、ほとんどの各個の戦争や戦略的配置を日米戦争を下敷きにしているんですが、一つだけ大きく違う点があって、それは、戦術的なレベルの部分で、ほぼ全ての戦闘で、なんとか、、奇跡とまでは言わないが、うまくいった、ということにしている点です。これは興味深い。全部、歴史のイフなんですよね。それにしても、戦術的に奇跡が続いて、最終的に日本が勝った!という設定の物語であるにもかかわらず、物語は悲劇と全滅の連続で、圧倒的にアメリカが戦後有意である状況をみると、、、、つくづく、大国アメリカとの戦争という物が無理があったんだなーと、心底思います。


さてとはいえ、日本海軍と米海軍のそれぞれの局地的戦争では、実は、僕は、「永遠のゼロ」を読んで、その後いろいろ調べて見たところ、意外や意外、勝つ方法が皆無ではなかった、という風に思いました。もちろん、負けたのは、総合的に国力や社会システムのレベルの差があったわけで、その構造的問題点を、運が悪かったなどというレベルに低い話にしたいわけではなく、そこは認めながらも、いやいや、案外、奇跡レベルとはいえ、やってやれないことはない、というのが、戦術レベルではあった、というのがわかってきました。

聯合艦隊司令長官 山本五十六

山本五十六 (上巻) (新潮文庫)


国力の差があり、米国と戦争しても確実に負けるのは、その生産力の差であり、そういった戦略的生産力の差をいったんおいておけば、1-2年は勝てるだけの要素が十分にありました。山本五十六がいったのはこのことなんでしょう。つまりは、生産力では確実に負けるので、練度で勝とうというのが当時の日本の基本的な考え方でした。貧乏国の考え方ですね、、悲しいながら。とはいえ、リソースに限りがある貧乏国としては、ギリギリいっぱいだったのでしょう。だから基本的に、戦争継続能力が全然ない。相手に産業力があった場合には、確実に負けるのです。だから、日米戦争の最もダメな点は、外交力、外交打開力のなさ、だったんでしょう。


『硫黄島からの手紙』 アメリカの神話の解体
http://ameblo.jp/petronius/entry-10021292764.html

『硫黄島からの手紙』 日本映画における戦争という題材
http://ameblo.jp/petronius/entry-10021294517.html

『父親たちの星条旗/Flags of Our Fathers』 
http://ameblo.jp/petronius/theme-10000381975.html

散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)
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硫黄島からの手紙 期間限定版 [DVD]


さて、繰り返しますが、この「とある飛空士の夜想曲」を読んでいて、本当に切なく悲しくなりました。というのは、この「練度で勝つ」という基本戦術が、ことごとくうまくいっているにもかかわらず、そして最後の最後まで、この思想を貫いて勝ち続けるにもかかわらず、帝政天ツ上は、戦略的に、どんどん追い込まれて負けて行くのです。産業力が上回る相手をした時の悲惨さ、戦略的にすでに負けてしまっている相手と戦う悲惨さが、うまくいっている分だけ、まざまざとと感じられました。


そういう意味で、とてもいい物語だな、と思いました。日米戦争における戦略と戦術の違いが、見事に理解できている構成だからです。


また、とはいえ、この当時の間違いなく勝てないというマクロ環境の中で、それでも、戦争という契機があったればこそ、炭鉱で奴隷のように意味なく死ぬしかなかった子供が、世界最高峰の教育を受けて、世界最先端の飛行機パイロットとして、世界で最も強大な敵と、大空を疾駆して戦い抜けた、ということの感動が、この作品には溢れています。悲惨なマクロ環境があったればこそ、大空のサムライとして、自分の所属する民族の命運をかけて命をかけて、戦い抜けたというアンビバレンツと、生きては帰れない軍人でしかも、練度で勝つ(ほとんどは生きて帰ることが望めない)ことが、悲劇的な陰りをもたらしながらも、そうとしか生きられぬ人生を、精一杯生きた感動が溢れています。僕は、坂井三郎さんの「大空のサムライ」や「永遠のゼロ」を読んだ時と同じ感覚を得ました。


これは、特攻隊で死んだ人々の物語では無くて、予科練一期をモチーフにしているところからも、第一艦隊や台南航空隊などの、戦争初期の帝国軍の圧倒的な軍事力を支えた世界最高度の練度を持つパイロットたちの物語なんでしょう。これって、特攻隊とか戦争末期の話と全然違うのは、どんな苦境になっても、彼らはボランティアー(志願兵)であり、戦争の為に教育を受けて人生を切り開いた職業軍人だったという点ですね。アメリカなど戦争に勝った国は、大義名分があるので、こういう誇りとかっこよさに満ちた軍人の物語が書きやすく、戦争で負けたドイツや日本では、描けないですよね。描くと、異民族支配やナチスの肯定になってしまいやすいので、難しいですよね。そういう意味では、前にも書きましたが、屈折したパイトリオッティズム(愛国心)が、ファンタジーの世界に現れるという現象が日本には多い為、こういう物語が見れるのは、僕は非常にうれしいです。


ただし、この裏面で、マイナス店をいえば、逆に、戦史を知っている人には、この話は、あの話だな、とすぐ想像がついてしまう点です。もちろん僕としては、ある水準を超えて物語世界が構築されているので、これをパクリとかマイナスには感じませんでした、が、あまりに忠実がゆえに、たぶん、戦史に詳しい人には、なんかどこかで見た話の寄せ集めだよな、と感じるかもしれません。僕には、この辺お知識は、弱かったので、そうは感じませんでしたが。

とある飛空士への追憶 (ガガガ文庫 い)