シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「いにしえの00年代のインターネットへの憧れ」はわかる気がする

 
 


 
highlandさんの上掲投稿を見かけて、その少し前に読んだ00年代のブロガーの文章を連想せずにはいられなかった。
 
amamako.hateblo.jp
gothedistance.hatenadiary.jp
 
未経験な世代の憧れを牽引し、その時代を経験した世代も懐古的に当時を語る、その00年代のインターネットとはどういうものだったのか? 私も思い出したくなったので少しだけ書く。
 
 

「当時のインターネットは良いことづくめじゃなかった」という一面

 
この問題について、同じくhighlandさんは絶対に無視できない一面にも触れている。
 


 
00年代のインターネットの良い側面だけを取り出せば、それは華やかかりし時代、今日のインターネットに繋がるさまざまなアイデアが生まれてくる時代、コンテンツやサービスがいよいよ具現化し、羽化しようとしている時代とみえるかもしれない。でも、それは一番華やかで現在に連なる好ましい側面でしかない。上掲でも挙げられているように、編集されていない2ちゃんねるのスレッドには良い面もあれば悪い面もあった。10年代以降に磨かれていったネットサービスの需給体系を専ら経験してきた世代からみて、編集されていない2ちゃんねるのスレッドは冗長で、しばしば差別的で、無法で、安全ではなく、便利とも言えない何かにみえるんじゃないだろうか。
 
でもって、00年代のインターネットには他にもいろいろなものがまかり通っていて……今日ではオンラインでもオフラインでも通用しないものがのさばっていて……泣き寝入りするしかない諸々の出来事があった。ネオ麦茶事件のような有名事件があれば司法が介入してくるとしても、それでも司法の明かりは00年代のインターネットには大して届いてはいなかった。だから00年代のインターネット(やそれ以前のインターネット)を理想化するのはいいとしても、その際に忘却されがちな陰がついてまわっていたことは憶えておかなければならない。少なくとも、今日のインターネットに慣れきった人が顔をしかめるような一面があったのは事実だろう。
 
 

だけど、あの自由さと新しさはもう二度と戻ってこないのではないか

 
それでも00年代のインターネットを特別視したくなる気持ちは私にもある。だってあの頃のインターネットは既にある程度広大でありつつ、そのくせフロンティアでもあり、ある程度自由だったからだ。
 
さきほど、司法の明かりが当時のインターネットにあまり届いていなかったと書いたけれども、それは、あらゆるものを換金作物化・ビジネス化・道徳化していく勢力もまだあまり入り込んでいなかったということでもある。当時のインターネットを単なる無法地帯とみなすのも、それはそれで単純化しすぎた見方だ。あらゆるものが無料で手に入り、無料で提供しても構わない、そんな時代でもあった。たとえば当時のゲームwikiなどはその精髄と言える。ブログ・ウェブサイト・wikiなどに無料でたくさんの知識やアーカイブがアップロードされ、そのことを当たり前と思う人がまだまだ多かった。
 
あらゆる知識やアーカイブに無料でアクセスできると同時にあらゆる知識やアーカイブを無料でアップロードしていくという、資本主義の論理とは異なった論理に基づいて多くの人が考え、行動していた。その当時の景色は、インターネットの森羅万象が資本主義化した今日のインターネットとはだいぶ違っていたと思う。こうした文化風土は、Youtubeやニコニコ動画やtwitterやFacebookがだんだん整備されていく00年代後半になっても残存していた。
 
でもって、その動画サイトやSNSが出始めた頃のワクワク感。これも、10年代以降の、すでに大きくなったネットサービスたちが幅を利かせている状況に慣れている人には、未体験なワクワク感ではなかったかと思う。2023年になってtwitterがXなどと呼ばれるようになり、スレッドやブルースカイといった小さなネットサービスを生み出すに至ったけれども、スレッドやブルースカイはいわばwitterの代替物のように登場したのであって、twitterが開闢した時のインパクトを伴っているわけではない。そしてそれらのサービスのユーザーにしても、その大半はすでにSNSなるものに慣れきっている、すれっからしの人たちでしかない。
 
新しく大規模なネットメディアがブレイクしてたちまち大量のアーリーアダプターひいてはアーリーマジョリティを巻き込んでいくその雰囲気は、tiktokでもちゃんと再現されていたんだろうか? メタバースがこれからそうなると想像すればいいんだろうか? どうあれ幾つものネットサービスがドッカンドッカンと開闢してどっと人が流れ込んでいく構図が続けざまにみられたのは、ブログの時代が始まってからインスタグラムがリリースされるぐらいまでの、比較的短期間に集中していたように思い出される。
 
そうした00年代のネットの雰囲気を思い出すキーワードのひとつとして、「web2.0」という言葉を挙げたい。
 

 
かつてweb2.0という言葉が持てはやされたことがあった。その言葉と梅田望夫『ウェブ進化論』を、古参ネットユーザーなら憶えているだろう。今日では、この『ウェブ進化論』とそこに記されているweb2.0という言葉は雲散霧消してしまった。だが、00年代においてこの言葉は確からしく見えたのだ。そのweb2.0の理想像は、資本主義や法治主義の論理とは異なった論理がまかり通っていた00年代のインターネットの風景や、当時のネットユーザーたちの行動原理とあるていど重なる。逆に言うと、資本主義や法治主義の論理が浸透してきた先において、web2.0という理想像を成立させていた当時のインターネットの与件は成立しなくなっていく。
 
その、資本主義や法治主義的なものがweb2.0的なものにとって代わっていくプロセスは00年代からすでに始まっていたけれども、なんといってもそれが加速していったのは10年代以降だった。2011年に起こった東日本大震災あたりから、SNSをはじめとするインターネットはフォーマル寄りな言説空間にもなっていき、世間的にも、政治的にもなっていった。テレビにSNSの投稿がバシバシ流れるようになったのもその頃だっただろうか。
 
そういえば00年代にはスマートフォンがまだ来ていなかった。ガラケーの時代であり、mixiの時代であり、LINEやSNSに個人が紐付けられていなかった時代でもある。アニメやゲームやボカロといったものがユースカルチャーのメインストリームに成り代わっていく進行過程を私たちは主にPCをとおしてブラウズしていた。ここで挙げていいのかわからないが、たとえば『シュタインズ・ゲート』も、当時の雰囲気を切り取ったタイムカプセルのようにうつる。
  
そういう時代・そういうインターネットの雰囲気は遠ざかった。である以上、当時を今とは違った一時代として思い起こすのはなんだかわかる気がする。とりわけ、今日のユースカルチャーをこよなく愛している若い世代が、そのルーツをたどっていった時に00年代なるものに辿りつき、そこで起こっていた事々に関心を寄せるのは自然なことでも健全なことでもあるだろう。だから……
 
 

語り継いでいきたいですね、00年代

 
だから語り継いでいきたいですね、00年代。
 
00年代は「個人がインターネットに書き残した言葉や文章が永遠に残っている」と期待できた時代でもあった。今はそうではない。今日のインターネットでは、個人が00年代についてどんなに言葉を書きこんだとしても、それらはトラフィックの濁流にのみ込まれてたちまち消えていく。それでも、語り継がれた言葉はどこかの誰かの記憶に残るかもしれないし参考になるかもしれない。
 
きっとその筋のオーソリティーによってこれから「00年代正史」が書かれるだろう。が、それはそれとして00年代のインターネットをリアルタイムで呼吸していた私たちも、今とは異なるあの時代について、これからもおしゃべりしていきたい。00年代とそのインターネットは本当にあったからだ。