シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

体力や健康も才能のうち

 


 
年の瀬は仕事が忙しい。診療、執筆、打ち合わせなどが立て込んでくると、体力がぎりぎりだと感じることも多い。もう少し身体が弱かったら、これだけの業務はできなかったか、健康を害して退場していたと思う。
 
若かった頃、才能といえば「早くて正確な読解力」「一を聞いて十を知る力」「アイデアのひらめき」とか、そういったものを連想していた。「コミュニケーションの機敏」も大切だ。でもって、それらが社会適応にとって重要で、創作活動にも仕事にも重要だという認識は中年期を迎えた今も変わらない。
 
しかし、この年齢になって特別に高く評価するようになったものがある:それは、体力と、その体力の土台となる健康だ。
 
人間は体力が続く限り努力できるが、体力が尽きれば努力できなくなる。健康も同様だ。ロールプレイングゲームでいえば体力や健康とはヒットポイントにあたり、これが尽きてしまえば戦闘不能になる。知識レベルでは「体力や健康が尽きれば戦闘不能になる」とは前々から知っていたが、実感がぜんぜん足りていなかった。健康を害して生きることで精いっぱいだった時期でさえそうだったし、化け物みたいな体力で超人的な働きをしている人を間近に眺めてさえそうだった。
 
ところが半世紀近く生きてみて、体力や健康に対する見方が大きく変わった。なぜなら、若かりし頃に素晴らしい才能を発揮していた人々が体力や健康がボトルネックになって力尽きていく姿を、しばしば見かけるようになったからだ。あんなにアイデアの火花が美しかったのに、あんなに精力的に活動していたのに、あんなに人の心を掴むのがうまかったのに、体力や健康に問題が生じて去っていった人の多いこと! そうした人たちのなかには、体力や健康が尽きる前に作品を残せた人もいる。でも、そうして名前と作品を残せた人は幸運な部類で*1、そのまわりには体力や健康が足りないために原石のような才能を研磨できなかった人や、研磨の過程で力尽きてしまった人がたくさんいることを私は知ってしまった。
 
対照的に、若い頃から一貫して活躍し続ける人々は皆、体力があり、健康をも維持している。彼らは技芸に優れているだけでなく、体力オバケ・健康オバケであることが多い。
 
スポーツ選手などはその最たるものだと思う。
長く活躍するスポーツ選手は故障が少ない。故障が少ないぶん、たくさん練習でき、たくさん試合に出ることができる。生まれ持っての強靭さも大切だろうし、ライフスタイルやトレーニングの工夫、健康管理のプログラムなども大切だろう。どこまでが先天的でどこからが後天的かはわからないが、とにかく、故障しないこと自体が長い活躍やさらなる熟練を可能にするから、体力や健康は才能の基盤というほかない。
 
芸能人や政治家や研究者も同様だ。タイトなスケジュール、泊まり込みの仕事、野戦病院のような環境、等々でも体力がもつ人・健康を害さずやっていける人は、ライバルたちよりもチャンスを得られる。芸能人なら仕事をこなせるだろうし、政治家なら有権者のもとを回れるだろうし、研究者なら論文を読んだり研究したりできるだろう。それって有利ですよね? 逆に、体力が乏しく健康を害しやすければ、こなせる仕事量も、握手できる有権者の数も、読める論文の数や挑める研究の数も、少なくならざるを得ない。
 
人脈づくりも、体力や健康に大きく左右される。体力や健康に秀でている人は、そうでない人がドン引きするほどパーティーや飲み会に出て回れる。それらはお酒の飲みすぎや御馳走の食べ過ぎといった健康リスクを伴うけれども、本当に顔が広い人は、そうしたことをしていても案外健康が保たれていたりする。社交力とは、案外体力や生命力の反映かもしれないのだ。
 
もちろん、そんなのは体力や健康のもたない人には不可能な芸当だし、できているつもりでいてもじきに健康を害してしまう人も多い。とてもじゃないが、「彼らを見習って夜の街を飛び回りましょう」だなんて言えない。ところが、体力や健康のオバケみたいな人はいるもので、20~30代の頃はもちろん、還暦を回っても社交的であり続けている。
 
繰り返すが、体力や健康がどこまで先天的な素養に依っていて、どこから後天的なライフスタイルやトレーニングや管理プログラムの賜物なのか、私には区別がつけられない。しかし健康面や体力面においてレジェンダリーな人たちはだいたい両方に秀でていて、ハードワークに耐えているだけでなく、身体を酷使しすぎないようなインターバルを入れているものだ。それで言うと、効率的に休めることもまた才能であり、健康や体力の一部といえる。ロケの移動中に熟睡できること、激務の最中でも食欲が落ちないこと、研究室の硬い床に寝転がってもへっちゃらなことは、体力という才能、健康という才能の最たるものではないだろうか。上を見ても下を見てもきりがないことだが、そういう、いつでもどこでも回復できる人が私はうらやましい。回復が早ければ、そのぶん体力も健康も維持しやすくなり、そのぶん、“手数”も増えるだろうからだ。
 
それから意志。意志は、意志の強さやしなやかさと、それを支える諸要素*2から成り立っていて、それ自体、体力や健康に匹敵する才能だ。意志薄弱では、どうあれ何事もなすことはできない。
 
だが、その意志は体力や健康と根っこで繋がっていて、体力や健康を害されながら強い意志を持ち続けるのはとても難しい。たとえば痛みや不眠といった悪条件が積み重なれば、たいていの人は意志が弱くなり、維持できているつもりでもしなやかさを失う。ときにはねじれ、強い願いが強い呪いに転じてしまうかもしれない。一般論としては、体力や健康が保たれているほうが意志は強くて柔軟で建設的な状態を維持しやすい。逆に、半年や一年程度ではビクともしない強い意志も、健康問題に長時間曝されていれば徐々に変質する。
 
人生がダカールラリーのような様相を呈してくるにつれて、活躍の与件としての体力、才能の一環としての健康の重要性がしみじみわかってくるようになり、「ああ、私の体力と健康では残りのトライアルの回数はたかが知れているだろう」と自覚するようになった。また、そうした重要性が若いうちにはピンと来ず、ある程度年を取ってからでなければ実感がわかないところに、人間をやっていくことの難しさを思った。
 
 
長らく最前線で戦い続けている人がなお、「健康寿命はあと20年、あと20年は戦える!」って言えるのは、大変な強みだと思います。私もあやかりたい。
 
 

*1:力尽きてしまっておいて幸運もなにもないよ! という考え方も捨てがたい。が、人はいつか力尽きるまで生きるものだから、その考えに固執し、まるで平均寿命まで生きなかったら幸運ではないと断言するような姿勢を取るのも私は躊躇する

*2:例えば、どういうモチベーションを持って活動しているのか・できるのか等

自分自身を振り返るにはいい機会でした>45歳うんたら説

 
blog.tinect.jp
 
今年はSNSの騒がしい界隈で45歳で狂うだのなんだのといった言説が流行り、しまいにブロガーの黄金頭さんがご自身の45歳を振り返ってあれこれとおっしゃっていた。私はそれを読み、どうあれご安全に中年期を航行してください、と思った。中年期に限らず、人生とは一歩先は闇であり、世の中は無常だ。
 
私たちの生は儚い。もし今、平穏や平安を手にしていると感じている人がいたら、それらの与件を精査し、平穏や平安がしばらく続けられるならそのままでいいけれども、じきに崩れてなくなるとしたら、崩壊に備えるであれ、時間を使い切ってしまうであれ、決心し、行動したほうがいいと思う。
 
で、例の"45歳うんたら"説、正直あまり良いフレーズとも思えないけれども、いろんな人が自分自身の人生を振り返るきっかけになったのは、良かったのではないかと思う。45歳で狂うのか狂わないのか・独身だととりわけ狂うのか……といった抽象的な言説をとおして確たることなんて何も言えない。しかし自分自身の依って立つものが砂上の楼閣でしかないことに気付いたり、中年期に急激にだめになっていく人々を反面教師にしたりする機縁として、自分自身のために活用する道はある。これから中年期に突入していく人にも警句として響くだろう。
 
私は2007年に「オタク中年化問題」を書き、2014年に『「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)』という、もともとは『年の取り方がわからなくなった社会』という出版企画だったはずの本を上梓するぐらいには自分自身の加齢と変質に警戒的だったけれども、実際に四十代を終えようとしている今、思うのは、「警戒し、年上の人たちの中年期をどんなに参照しても、やっぱり自分自身でなってみないとわからないことだらけだった」だった。
 
とりわけ健康維持にかかるコストの上昇については40代の後半にならなければ自覚できなかった。さながら民間生命保険の保険料の上昇のようである(ということは、70代や80代の健康維持コストは一層重たいのだろう)。今、20代や30代の頃と同じような食生活やライフスタイルを続けていたら、血糖値や血圧やコレステロールがたちまち高まってしまうと思われる。それは老人の兆候だ。昔の人々が初老として40歳を定義したのは正確なことだったと思う。
 
2010年にNHKが行ったアンケートでは、多くの人が初老期を五十代後半と答えているが、これはアンケートに答えた多くの人たちが間違った認識をしているのだと思う。身体の次元では40代は老人への入口であって若者の維持ではない。そうしたことが、今は知識としてではなく実感としてますます強まっている。
 
冒頭の黄金頭さんへの私信っぽく付け加えると、何歳で中年期の変化を感じるのかは、生物学的な個体差や社会的境遇などに基づく個人差があるよう思う。私の場合、45歳の頃は社会秩序について書きたい本が書けたばかりだったので危機感は皆無だった。そのかわり47歳の頃は公私ともに落ち着かず、自分が何をしているのか、自分に何ができるのかまるでわからなくなっていた。身体的にも急に老けたと感じた。この身体では無理はきかないと思い、2024年だけは身を削る思いで活動したけれども2025年からは同じことはしないと決めている。なぜなら、この身体でもできることは、かつての身体にできたことに比べて減ってしまっているからだ。
 
黄金頭さんが何歳でそうした変化を痛切に感じるのかはわからないけれども、そのとき、狂うかどうかはともかく慄然とするんじゃないかと思う。私の場合は、慄然とした。落胆もした。それからやっと諦めて、諦めたなりに残りの身体をどう使うか考えている。この、慄然→落胆→諦め→再出発 のプロセスに支障が生じたら、それは傍目には「あの人、どうしちゃったんだろう」感のある行動に繋がると思う。たとえば自分がもう変わってしまったのに変わる前に必死にしがみつこうとする人は、傍目に見ればかなり無理のある行動を連発する思われるし、実際そういう人は散見される。ギャップが大きいのにしがみつこうとする度合いが高ければ、それが精神疾患を招き寄せる場合すらあるだろう。
 
しかし黄金頭さんが停滞や変化に慣れている場合は、慄然としないのかもしれない。それがどうした、としか思わない可能性すらある。少なくとも40代まで順風満帆だった人や健康を害したことのない人と同じになるとは考えられない。あまりに健康で、あまりに美しく、あまりに巧みだったからこそ、不健康や老化やままならなさに対して脆い場合はままある。そのような脆さが命取りになってしまうこともあるのが人の世と人の心の難しいところだと私は思う。もちろん皆が皆そうなるわけでもない。だからかえってわからない。
 
どうあれ人は変わっていくものだ。
前にも書いたが、「不惑」とは、惑わなくなるではなく惑えなくなることでしかない。自分自身が変わっていき、周囲も変わっていき、時代までもが変わっていく。過去と現在と未来のギャップは拡大する。書いていて、憂鬱な気持ちになってきた。なぜなら、結局私は変化に対してうろたえていて、外面はともかく内面としてはいつも自分自身と娑婆世界の変化に対して後手でしかないからだ。
 
悲観的になってしまっていけないですね。寒くて暗くてしようがないからかもしれない。黄金頭さんにおかれましては、冬至のメランコリーにやられることなく、お元気でご安全にあってください。では。
 
 

2024年、買って良かったワインたち

 
2024年も残すところ一か月を切りました。
今年、私はあまりにも忙しかったので、ちゃんとワインと向き合えませんでした。そういう時は、気安く買えて、飽きずに飲め、身体にもきつくないワインたちと付き合いたくなり、そんなのばかり飲んでました。大半は無料エリアで読めるので、よかったら読んでみてやってください。
 
 



 
【Clean Skin Riesling "Waipara" 2021】
 
[2021] クリーンスキン(ノーラベル)リースリング "ワイパラ"
 
クリーンスキンは、ニュージーランドの匿名ワインをシンプルなボトルに詰めた、なんだかバルク品なワインだ。過去にいくつか試してみた感じでは品種による当たりはずれがあり、しばらく敬遠していた。でも、今年久しぶりに飲んだリースリングはアタリ。リースリングは高級品種といわれるけれども、新世界産の安物も、それはそれでうまく、飽きずに飲める品が多いように思われる。苦みと酸味がしっかりしているおかげかもしれない。デイリーな白ワインとしておすすめ。
 
 
【Stellenrust Chenin Blanc 2023】
 
ステレンラスト シュナン ブラン 2023
 
今年は南アフリカワインを当たってみようと思い、この、ステレンラストというメーカーを中心に色々と試してみた。で、この白ワインはシュナン・ブラン種という品種でつくられていて、これが南国フルーツの風味満載、パパイヤのような雰囲気すら帯びたワインだったりする。
 
ワインに詳しい人なら、「それってシュナン・ブランって品種のなせるわざでしょう?」と言うかもしれないし、確かにそうで、シュナン・ブランは一番安い品でも南国フルーツみたいな香りがちゃんとしている。そのなかで、このメーカーの品は価格帯に比して舌ざわりが良く、これよりもうちょっと安い同品種のワインたちと差別化できている。ワインにおいて、香りや味が大事なのはもちろんだけど、舌ざわりやのどごしだって大切。この価格帯でそれをここまでカバーしているのは偉いと思ったのでリコメンドします。
 
 
【Stellenrust "Mothership" Chenin Blanc 2022】
 
ステレンラスト アーティソンズ マザーシップ シュナンブラン 2022
 
で、同じメーカーが作っている同品種の格上ワインがこれ。その名も「マザーシップ」という、エイリアンの母船みたいな名前がつけられている。これと通常品を飲み比べると、「ワインの価格差に何が反映されているのか」がわかりやすいと思う。比べると、舌ざわりが良いだけじゃない。重心の低い高級車に載っているような感覚がわかると思う。舌ざわりが良いくせに酸はいっそう鋭く、果実味もより豊かで、贅沢感が伝わってくるはず。
 
この、ステレンラストの無印シュナン・ブランとマザーシップとの飲み比べは、ワインの品質を理解する典型例になると思うので、ワインの品質の違いを疑問視している人は、両方を買い揃えて比較してみるといいと思う。みんなで飲むなら二種同時に、一人でやるなら、はじめに2-3日かけて無印を飲んで、その次にマザーシップを2-3日かけて飲むと良いように思う。
 
 
【Stellenrust Chenin Blanc Brut Spumante Magnifico (N.V.)】
 
ステレンラスト シュナン ブラン スパークリング ブリュット NV
 
その同じメーカー、ステレンラストはスパークリングワインも作っていたりする。この品もかなりいけている。菖蒲やヒヤシンスみたいな青い花の芳香に、梨ジュースみたいな淡い甘さ、クターっとした飲み心地が伴い、ぜいたくざんまいな感じだ。この価格帯でここまで揃っているスパークリングワインはそれほど多くない。
 
ちなみにこのワインは「スプマンテ・マグニフィコ」を名乗っていて、名前から言っても、目指しているのは上級スパークリングワインであってシャンパンではない。つまり、シャンパンに期待されるような気取りや重厚さはこのワインの目指すところではなく、イージーに気持ち良く飲めるところに焦点が合っていて、実際、とても気持ち良い。シャンパンに寄せたスパークリングワインが欲しいなら、グラハム・ベックのスパークリングワインか、シャンドン・ブリュットあたりを買ってください。これはそういうワインではありません。
 
 
【Chateau Saint Bonnet Medoc 2015】
 
シャトー・サン・ボネ メドック 2015
 
さて、ここからは安ボルドーに。とはいってもこのワイン、ブルジョワ級といってボルドーのなかでも少し良いクラスなのだけど、価格は控えめ。しかし2015は強いヴィンテージで、そのおかげか、かなりうまかった。安ボルドーにありがちな貧相さや内向性がかなり改善している。良ヴィンテージ年って、高級銘柄を平均より高い価格で購入するのもいいかもしれないけれど、お手頃品はたいして値上がりするわけでもないのに欠点が減っていて優れていたりするので、そこを狙うのも楽しい。
 
でもって、このクラスの安ボルドーでも、年によって飲み心地の雰囲気はそれなり変わる。あまりワインにお金をかけたくないけど、ヴィンテージごとの作柄の違いを感じ取ってみたい人は、ボルドーのブルジョワ級のワインのなかから気に入ったものを見繕って、毎年買って毎年飲んでみると面白いかも。私はやってます。
 
 
【Chateau Griviere Medoc 2015】
 
シャトー・グリヴィエール
 
こちらもブルジョワ級のワインながら、値段はごく控えめ。2015年もボルドーは良い年だったと聞くけど、そのためか、ボルドーの赤ワインの紳士的な顔立ちに人懐こさもいくらか加わって、バランスの良いできばえになっている。で、こちらはメルローが主体のワインだからか、すこーしピーマンみたいな香りもある。メルロー主体のワインがお好きならこちらがいいんじゃないだろうか。このワインは、記事を下書きしている段階では2000円を切っていたけれど、最近、値上がってしまった。さもありなん、と思う。
 
 
【Antonin Rodet Saint-Amour 2021】
 
アントナン ロデ サンタ ムール 2021
 
この品は、「やまや」で売られていた安いクリュ・ボジョレー。クリュ・ボジョレーに限らず、肩書きに比して安いワインは出来栄えにムラがあったり、なにかしら欠点を伴ったりするものだけど、このワインはムラがあるというより小粒、でも、小さなところでまとまっていて、ボジョレーヌーボーよりずっと飲み甲斐があった。ヌーボーではないボジョレー、特にボジョレーヴィラージュやクリュ・ボジョレーにはまだまだ知られていない掘り出し物がある気配があるので、たいしたことがないと決めつけず、時々トライしてみたいと思いました。
 
 
【Spinelli Montepulciano d'Abruzzo 2022】
 
モンテプルチアーノ・ダブルッツォ / スピネッリ
 
値段の安かったモンテプルチアーノ・ダブルッツォ。このジャンルをしばらく飲んでなかったせいもあってか、抜群にうまかった。ワイン通が喜ぶような複雑なニュアンスや立体感は無い。そういうのを全部無視し、飲みやすさとフレッシュ感に全振りしたような潔いワイン。デイリーワインとしてはつくづくよくできていて、アルコール度数がやや低いのも良い。合わせる食事について頭を悩ませることもないので、ただ美味くて新鮮なワインが飲みたいだけなら、モンテプルチアーノ・ダブルッツォはやっぱり良いものだと再認識した。なお、このスピネッリというメーカーのモンテプルチアーノ・ダブルッツォには箱で買えるタイプ(たぶん真空パックだろう)があるので、デイリーワインが一種類あれば良い人には選択肢かもしれない。
 
 
【Stellenrust "Old Bush Vine" Cinsaut 2020】
 
ステレンラスト オールド ブッシュヴァイン サンソー 2021
 
南アフリカのサンソーという品種からつくられた赤ワイン。ちょっと独特だけど余韻がとても長く、舌触りもなめらか。しかも鎮静力があるタイプのワインで、飲んでバカ騒ぎするような品ではなく、しみじみとした気分になれる。中堅価格帯の赤ワインとしてはよくできていて、こういう品種にも目配りしないと駄目だなと思った。しいて問題点を挙げるなら、そんなに有名な赤ワイン品種ではないので、同じ品種同士で飲み比べるチャンスが少なそうなところ。知られていないからこそ、逆にお値打ちのままだとも言える。
 
この品も、前半で紹介したステレンラストというメーカーの品で、してみれば今年の私はステレンラストに惚れ込んだ一年だったってわけだ。ここが南アフリカ産中堅価格帯ワインの入口になろうとしている。ステレンラストは幾つかの楽天ワインショップが商っているので、興味のある人はどうぞ。
 
 
※リンク先のワインはヴィンテージが異なっている場合があります。ご注意&ご確認ください。
※ワインは20歳になってから。種々の健康を害するおそれもあり、節度ある飲み方を心がけてください。
※以下は有料エリアですが、たいしたことは書いてないので、サブスクしている常連さんだけどうぞ。
 
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Xで見かける「45歳狂う説」について私が思ったこと

 
togetter.com
  
最近、「45歳狂う説」なる言説をSNSで見かける。
曰く、45歳まで独身だと狂ってしまう、いやいや、既婚でも狂ってしまう、等々。
 
だいたい「45歳で」「狂う」ってなんだ? って話ではある。「狂う」とは世間の言葉で、精神医療のテクニカルタームではない。だから野放しにしておいて構わないよう思われるし、だからバズワードとして盛り上がっているようにも見えた。しかし、その盛り上がっている当人たちはいったいどんな内容の「狂う」を想定しているのだろう? 最近、そんなことを考えさせられる場面が増えてきた。
 
そこで、SNSで語られる「45歳狂う説」について、実際、私が精神医療の内側と外側でみてきたことを踏まえた文章を書いてみる。その際、キーワードとしてホメオスタシスという言葉を用いたい。ホメオスタシスとは、ここでは「身体的・社会的・心理的に安定した状態を維持する機能や維持している状態」を指していると解釈してやってください。
 
 

1.彼らは「45歳で狂う」というけれど

 
ひとことで「45歳で狂う」と言っても、その内容・程度・類型はさまざまだろう。最も重篤なケースでは精神疾患の不可逆な重症化、次いで重いものとしてはうつ病への罹患などがあるだろうか。生物学的加齢の影響、たとえば更年期障害のことも忘れてはならない。もっと社会的側面が強いものとして、立場や役割の変化、アイデンティティや心理的充足の布置の変化、等々もホメオスタシスを乱す要因たりえるし、それらが精神疾患の増悪因子や引き金になることも十分あり得る。
 
今年、あちこちのメディアで私は「中年期は人生のコーナリングの季節だ」と話した。実際、40~50歳ぐらいは身体的にも社会的にもさまざまなものが変化する。思春期が子ども→成人へのターニングポイントなのに対して、40~50代にかけては大人→高齢者へのターニングポイントとなる。昨今は高齢化が進みリタイアの時期も遅くなっているから、還暦を迎えても自分自身のことを老人と認識しない人が増えている。しかし身体の老化は自己認識よりも早く内蔵や内分泌系に起こり始めるし、出世や仕事の面でも夢の終わりがみえてくる。人生の終わりも意識されるかもしれない。身体的・心理的・社会的に無理のある社会適応を強引に続けてきた人が、中年期にその限界に至り、破綻してしまうことは珍しくない。
 
「中年がホメオスタシスを維持できなくなった」状態について、カタストロフの程度別に、いくつか挙げてみよう。
 
精神科医として最もカタストロフの程度が大きい、と感じるのは、統合失調症や双極性障害といった明確な精神疾患に該当している人が、今まではどうにか仕事や社会活動に参加できていたものが、この時期の再発や再燃によって病状が一気に悪化し、残遺性人格変化が進行したり、幻覚や妄想や気分変動がきわめて重くなってしまったものを連想する。
 
精神医療の充実のおかげで、若いうちから重症・難治性になってしまう統合失調症や双極性障害の患者さんは減ったように思う。しかし、種々の社会資源を利用しながら40代あたりまで生活できていた(それらの疾患の)患者さんが、この時期の再発や再燃が最後の一押しになって、慢性かつ重症の病態に陥ってしまうことはまだそれなりにある。
 
そうなってしまう要因は何か。熱心に面倒をみていた親が早逝したり病気になったりして援助が弱くなったせいかもだし、若さを失い異性からの援助や承認を獲得しづらくなったせいかもだし、もっとシンプルに、寛解と再発を繰り返すうちに中枢神経系にダメージが蓄積していたせいかもしれない。特に女性の場合、エストロゲンの分泌量が低下し、その神経保護効果が失われてしまうことで病状が悪化する一面もあるかもしれない。
 
こうした、もともと精神疾患を持っていた人が中年期に一気に増悪するケースは全体のごく一部だろうし、SNSにはなかなか現れないものだが、精神医療の領域ではひとつの類型ではある。
 
そこまで重篤ではないにせよ、うつ病などに罹患する人ならもっと多い。
中年期に初めてうつ病にかかる人も、その背景は多彩でひとつのテンプレートにはまとまらない。仕事・家庭・子育て・地域・介護といった色々な負担やストレスが重なった結果としてうつ病などにかかる人は、この世代にも多い。「自分だけでなく家族全体を支えなければならない」という責任感は、ある時点までは心の支えになるが、いったんうつ病に陥ってしまうと治療の重荷になることもある。子どもの巣立ち、親の介護の始まり、キャリア上の行き詰まり、そういったひとつひとつには耐えられる人も、全部同時に起こればたいていメンタルをやられてしまう。だから本当は、それらが同時にやって来ないような見通しと計画があったほうが良い……のだが、そんなことは学校でも習わず、親もたいていは教えてくれない。またどれほど用心深く見通しと計画を立てたとしても、偶然や不運が重なればどうしようもないことはままある。
 
そうそう、自宅の購入もリスクであることを書き添えておこう。マンションであれマイホームであれ、自宅の購入は大きな経済的プレッシャーをもたらすと同時に転居やライフスタイルの改変をも強いる。うつ病のリスクファクターが3つ同時にやって来るようなものだ。だから自宅の購入はお金の心配だけでなくメンタルの心配もしたほうがよくて、できるだけ他のストレス因の少ない時期に決行するのが(本当は)望ましい。
 
そうした社会的変化に加え、身体的変化も重要だ。たとえば生来健康で活発だった人が生まれて初めて大病をし、その大病をきっかけに精神のホメオスタシスまで崩れてしまうパターンは定番だ(もちろん、60~70代になってこのパターンを呈する人もいる)。そういう人は病気慣れしておらず、健康で活発な自分自身を当たり前だと思っているので、大病の経験は、今までの自己イメージやアイデンティティに動揺をもたらす。と同時に、今まで見て見ぬふりをして構わなかった身体的加齢をいきなり突きつけられ、「自分は老いていて、やがて死ぬ」という事実にもびっくりしてしまう。
いわゆる「初老期うつ病」の一類型でもある。抑うつ気分や不眠などに加え、身体症状や焦燥感を伴うことが多く、重症度が高くなりがちで、三環系抗うつ薬や少量の抗精神病薬を用いなければならない場合も珍しくない。それでも治療がある程度奏功した後、これからの新しい見通しを見いだせると比較的きっちり治ることの多い類型だ、と私は感じている。
 
もっと身体的な次元でホメオスタシスが崩壊してしまう人も見かける。
人間は意外と頑丈にできているので、身体を顧みない生活を続けていてもある程度の年齢までは一応ピンピンしていられる。だが身体のホメオスタシスを維持する力は年齢とともに衰える。身体に無理をかけ続けている人の場合は、それが顕著で、40代あたりから高血圧、高コレステロール血症、高血糖といった異常が顕在化してくる。不摂生のきわみにあるなら肝機能や腎機能の障害も起こるだろうし、脳出血や脳梗塞や心筋梗塞に見舞われる人もいる。脳がダメージを受けた場合、認知機能の低下や性格変化をきたすことだってあるかもしれない。
 
身体的なホメオスタシスの崩壊はもちろん40代からのものではなく、不摂生が著しかったり、なんらか先天的な疾病を伴っていたりすればより早い年齢から起こる可能性もある。ともあれ、不摂生の請求書は中年期に唐突に突き付けられることが多い。
 
不摂生とは、心理・社会的なものでもある。不摂生なライフスタイルは、仕事上の理由や心理的な理由によって、やむにやまれず続けられていることが多い。若いうちは、それでも身体が許してくれた。ところが歳を取ってくるとそうはいかない。不摂生をやめ、心理・社会的に帳尻のあう新しいホメオスタシスの均衡点を探すか、それとも身体が破壊されるまで同じ生活を続けるのか。身体はメンタルの土台なので、身体の破壊はメンタルの破壊に繋がっている。そうでなくても、痛みや身体的不調はメンタルに負担をかけ続ける。こうして身体の側からホメオスタシスが崩れていく人は年齢とともに増加する。 
 
こうした、医療に直結したホメオスタシスの崩壊よりも軽いものも数多みられ、それらも「45歳狂う」説には含まれているのだろう。ではその、医療未満の色々はなんなのか?
 
 

2.医療未満の「45歳狂う」はホメオスタシスの破綻か、再生か

 
40代になって「人生終わった」と感じたり、「このままではいけない」と焦ったり、「夢や希望がわからなくなった、なんのために生きているのか」わからないと感じる人は少なくない。そもそも人は、しばしばそのような気持ちを抱くものである。ただ確かに、40代にはそうした気持ちを抱きやすい瞬間は数多い。子育てのこと、家庭のこと、仕事や業績のこと、趣味生活のこと、そのそれぞれが一瞬「無」になる隙間時間があり、そういう時は上掲のような気持ちになりやすい。また、身体的な衰えを感じた瞬間や若い世代に追い抜かれたと感じた瞬間に、メランコリックな気持ちになる人もあるだろう。
 
しかし大抵の人はそうした気持ちを乗り越えていく。新しい社会関係や楽しみを見つけ、これからの生活や仕事や身体に馴染もうとする。その際、ある程度のトライアンドエラーや社会適応の揺らぎはあろうし、それが第三者から「あの人は45歳でおかしくなってしまった」と観測されることもあるだろう。ライフスタイルを変更する以上、当人としてはうまくやったつもりでも、周囲を驚かせることは少なくない。この場合、他人がどう見ようとも、当人自身にとっては中年期以降に適合したライフスタイルへの刷新であり、ホメオスタシスの破綻というより再生というべきものだ。
 
ただし、全員が全員、そうしたライフスタイルの路線変更を穏当にこなしてみせるわけでもない。思春期もそうだが、ある年齢の自己イメージやアイデンティティを、別の年齢の自己イメージやアイデンティティに切り替えるのは簡単とは限らない。発達心理学の古典であるエリクソンの『幼児期と社会』などを思い出すと、そうした切り替えの難易度は、それまでの心理的な課題がどれだけこなせていたのかに左右されるよう思われる。だから、ライフスタイルの路線変更がうまくいかずに社会適応が行き詰まってしまう人もそれなりいるし、そうした人々は「45歳狂う」説に回収されやすいだろう
 
ライフスタイルの路線変更の失敗はどのようなものか? 離婚や家庭崩壊、趣味やアンチエイジングで身上を潰す、重たい精神疾患や身体疾患への罹患、などがわかりやすく思える。が、もっと地味にうまくいってない場合もままあるよう思われる。現実に迎合すること・仕方なく生きること・味気なく生きること、そして「自分のために生きるしかなくなる」こと。
 
「自分のために生きるしかなくなる」とは、個人主義社会において問題ないよう思われるかもしれないが、人は案外と社会的な動物だ。生きがいやアイデンティティは人間関係や社会関係のなかで形作られるし、ベタな言い換えをすると、友情や愛情や信頼や恩義のなかで人は心理的に生きている。だから、そうしたものが欠乏して「自分のために生きるしかなくなる」のは、個人主義者にとっても簡単とは限らない。
 
そして「自分のために生きるしかなくなる」状態は、既婚でも未婚でも起こり得る。たとえば表向きは立派な会社に勤め、子育てをしているけれども、主観的には「自分のために生きるしかなくなる」に陥っている人は案外いる。表向きは恵まれているがために、共感や理解を得ることは難しい。だから、「自分のために生きるしかなくなる」に陥るリスクを、未婚か既婚か、子持ちか否かで推し量り過ぎるのも考えものだ。それよりも、その人が「自分のために生きるしかなくなる」ではない状態を維持している、その安定性や可塑性をしっかり評価したほうが見誤らないんじゃないだろうか。
 


 
高須賀さんのこの投稿も、私はだいたいそんな具合に解釈した。人間の大半にとって、完全に自己中心な生き方はそれはそれで難しい。
 
 

3.友情や愛情や信頼や恩義のなかで生きる道はいろいろある

 
「自分のために生きるしかなくなる」を回避する方法は、案外と色々ある。子育てがそうだという人もいれば、子育てが終わった後、地域共同体に貢献することがそうだという人もいる。仕事がそうだという人も、趣味の付き合いがそうだという人もいる。友情や愛情や信頼や恩義の手ごたえを感じる時、「自分のために生きるしかなくなる」は回避できるし、ある程度器用な人はだいたいなんとかやってのけるものだ。
 
その一方で、友情や愛情や信頼や恩義の手ごたえが感じにくい、空白の時間がしばらく生じてしまうことも、だいたいの人には起こることだ。そうした時、空白の程度を軽くしてくれる居場所や社会関係を持っていると、人生の変わり目である中年期をサバイブする大きな助けになるように思う。たとえば良心的な飲食店や居酒屋や趣味の店などは、空白の時間の止まり木として機能する。他方で、そうした空白の時間が生じた人間を狙い撃ちにしようとする人や組織もある。そうした人や組織の餌食になってしまった中年も、「45歳狂う」という言説に回収されてしまうだろう。
 
長くなってしまったので、強引ですがまとめます。
中年期は思春期と同じぐらい心理・社会・身体的に変化が訪れ、それにあわせてライフスタイルを変えていく必要に迫られる。友情や愛情や信頼や恩義の手ごたえを感じるための居場所や活動内容も変わるだろう。変化にあわせて変わろうとする努力じたいが「おかしい」とみえることもあろうし、変わっていこうとしてトラブってしまった場合や変化を避け続けてホメオスタシスが破綻した場合も「おかしい」とみえるだろう。だから「45歳狂う説」のなかには、最も重篤なホメオスタシスの破綻からライフスタイルの変更に伴うちょっとした揺らぎまで、さまざまなものが含まれ得るように思える。事例によって、かなり内実は違うんじゃないだろうか。
 
どうあれ中年期は変化の季節なので、皆様、どうかご安全に。
 
 

人間が政治や権力に弱い動物であるさまは、ツイッターを見ればよくわかる

 
twitterがXに変わってから1年以上が経った。
 
Xのタイムラインを眺めていると、政治家や政府広報や大企業のステートメントが流れてくる。とりわけ、リポストをとおしてドナルド・トランプ氏やイーロン・マスク氏のそれが目にうつると、「ここは政治の舞台なんだな」と強く感じる。不特定多数が閲覧するメディアに政治家が語りかける時、それが(たとえばトランプ大統領の好物である)ファーストフードについてのツイートだったとしても、そこに政治的な意味合いや含意が発生せずにいられない。
 
いつからtwitterはこんな風になっちまったんだろうなぁ……と回想する。東日本大震災の頃や、コロナ禍が起こって間もない頃の記憶が蘇る。たとえばコロナ禍が極まっていた頃、どこまで行動自粛するべきか、すべきでないか、さまざまなステートメントが飛び交っていたと思う。東日本大震災後の原発稼働についてもそうだ。政治家はもちろん、専門家や運動家も様々なステートメントを繰り返していた。
 
それだけではなかった。そのいずれにも当てはまらない市井の人々も、まったく同じような文体でまったく同じようなステートメントを繰り返していたりした。リツイートやシェアをとおして誰かのステートメントを拡散する人、「いいね」をつける人はもっと大勢いたように思う。政治的なステートメントは狭義の政治・政策の話にとどまらなかった。表現規制の問題や、マイノリティの定義や処遇の問題を含んでいた。政治の舞台となったtwitterでは、アニメやゲームについてのツイートですら、ときには政治的色彩を帯びる。
 
00年代の頃、インターネットの片隅でゲームハードの優劣について熱心に舌戦を繰り広げていた人々の、やけに政治的な仕草はそれでも笑って済ませられるものだったし、2ちゃんねるの政治談議はいつも便所の落書きでしかなかった。黎明期のtwitterのつぶやきも同様だ──政治談議に耽る人がいても、それが政治的な威力を持つことはなく、一種の趣味でしかないとみることができた。
 
少し前のtwitterや現在のXはそうではない。言葉遣いが穏やかでも、冗談めかしていても、目が笑っていないステートメントが数多ある。影響力や政治力を宿したステートメントが拡散していくなかで、党派性を帯びたクラスタが生成・強化されたりする。大きめのクラスタの中枢には必ずなんらかのインフルエンサーが存在し、彼らは影響力を持っているだけでなく、影響力を持っていることを自覚し、自覚のうえで、行使することもできる。
 
 

どうしてこうなったかは、みんな知っているでしょ?

 
twitterのつぶやきが、いつしかステートメントになっていった。その過程は、ここ10~20年のインターネットを体験している人なら誰でも思い出せるだろう。人が集まり、それをあてにした人々も集まり、情報も集まり、声も集まり、そのうち政府広報などもSNSに相乗りするようになった。そうしたなかでtwitterという場が政治的な場に変貌し、つぶやきがステートメントに変貌していった。
 
じゃあ、twitterが政治的な場に変貌していったのは、つぶやきよりもステートメントを意識する政治的に意識の高い人たちのせいだったのだろうか?
私は、そういう一部の政治業者やインフルエンサーのせいだけではないと考えている。ましてや、政治的な書き込みを2ちゃんねるやブログにしていた人たちのせいだとも思えない。先にも少し触れたように、インターネットには政治的言動をしたがる人は昔からいて、2ちゃんねるやブログなどで政治を論じていた。そうした人々のなかで特に知られていたのは、たとえば「ネトウヨ」と呼ばれた人々だろう(その正反対、「ネトサヨ」とでもいうべき人々もいた)。
 
しかし、政治的に意識の高い人たちが2ちゃんねるやブログで政治を論じたところで、それらが今日のXほど政治的な場に変貌することはなかった。twitterが政治的な場に変わったのは、1.もっと影響力のある人物や組織がtwitterを利用するようになった頃であると同時に、2.みんながtwitterには影響力があると信じるようになった頃でもあった。1.と2.のどちらが先なのか、どちらが卵で鶏なのかは私にはよくわからない。しかし1.と2.は相互に影響を及ぼし合いながら急激に進んでいったようにも思う。
 
影響力がtwitterに宿っているという自覚は、そのまま政治力がtwitterに宿っているという自覚に繋がる。政治や人気取りのベテランたちがtwitterの影響力=政治力に可能性をみるようになり、ステートメントの場としてtwitterを利用するようになった時期と、そうでもない人たちまでもがtwitterがふるう影響力や政治力に気付いてしまい、自分たちのつぶやきやリツイートのひとつひとつが有意味だと自覚しはじめた時期は、控えめにいってもそれほどタイムラグがないように思う。
 
そうしてtwitterは政治的な場にますます変わっていき、ピュアなつぶやきは少なくなり、ステートメントが優勢な場となった。つぶやく人も、また然り。
 
つぶやきには影響力や政治力が宿る。それが泡沫アカウントによるものだとしてもだ。
人間は社会的生物だから、影響力や政治力のにおい、とりわけ自分がふるうことのできる影響力や政治力のにおいには悲しいほど敏感だ。早い段階から影響力や政治力を意識してしまっていた人はもちろん、それらと縁のない境遇にあった人のなかにも、その生臭くて強烈で魅力的なにおいに気付き過ぎてしまい、意識し過ぎてしまう人は珍しくなかった。00年代の頃は長閑なつぶやきに終始していたツイッターアカウントが、Xの時代にはろうたけた政治生命体に変貌していることなど珍しくもない。話題が政治の話ばかりになってしまう人もいれば、語り口が政治的になってしまう人もいた。かように人間は政治と影響力に(つまり権力に)弱い。
 
そもそもインフルエンサーという言葉が象徴しているように、人間が集まり、繋がりあえば、そこには影響力が生まれる。影響力が生まれるとは政治力が生まれることでもあり、権力が生じることでもある。その影響力や政治力や権力を束ねて行使するのは、もちろん政治家や行政組織や大企業のアカウント、さらに運動家やインフルエンサーのアカウントたちだ。しかし、twitterに生じた影響力/政治力/権力を、そうした「デカいアカウント」だけのものと勘違いするのは間違っている。まず、私たちひとりひとりのアカウントが獲得し、行使している影響力/政治力/権力が存在しているのであって、そのミクロな影響力/政治力/権力が草の根から支えるかたちで「デカいアカウント」の影響力/政治力/権力は成り立っている。
 
だから、twitterの権力の構図はどんなに「デカいアカウント」が扇動し動員しているようにみえる場合でも、ひとりひとりのアカウントが獲得し行使している影響力/政治力/権力はひとりひとりのアカウントのものであること、「デカいアカウント」がそのようなものとして成立するためにはひとりひとりのアカウントへの目配りや目くばせが必要不可欠であることは、見逃してはいけないように思う。
 
twitterひいてはXが政治の場に変貌し、政治や権力のにおいがぷんぷん漂うようになってしまったのは、つぶやきの時代を懐かしく思う人にはがっかりだろうし、私もがっかりしている。他方、私も含めて大半の人がSNSが政治の場たりえることに気付き過ぎてしまい、ひいては自分のアカウントのつぶやきに影響力や政治力が宿り得ることに気付き過ぎてしまい、そうした結果として単なるつぶやきをステートメントに変えていってしまった。つぶやきがステートメントへと置き換わた速度や程度には個人差があるが、十中八九、そのような変化を被ったように思う。*1 かように人間は政治と影響力に(つまり権力に)弱い。
 
twitterがXに名称変更するよりも早く、つぶやきはステートメントに変わり、何かに抗議したり何かを推したり何かを煽ったりする場に変わった。と同時に、私たちの政治する動物らしい仕草があらわになって、私たちはつぶやく動物からステートメントする動物に変わった。それで獲得されたものもあるから文句を言ってもはじまらないし、本当につぶやきを取り戻したい人は、つぶやきやすい場所に移住してしまえば良いだけだ。ただ、私が今夜ここで書き殴ったのは、そうした変化が草の根の現象であること、いわゆる泡沫アカウントまでもが政治や権力の渦に案外巻きこまれている(なんなら、泡沫アカウントが政治や権力の渦に巻き込まれていることこそが主たる問題かもしれない)ことを指摘したくなったのだと思う。
 
「デカいアカウント」にばかり注目してしまって、泡沫アカウントの泡沫なステートメントにも宿っている影響力/政治力/権力を見逃すと、実はボトムアップでもあるSNS上の影響力/政治力/権力の理解は片手落ちになってしまうんじゃないかなぁ。
 
 

*1:2024年のXにおいてもなお、ステートメントではなくつぶやきを貫こうと思ったら、よほど影響力/政治力/権力に鈍感であるか、よほどそれらを避けるような意図が必要になった。私が長年観測しているツイッターアカウントにうちに、そのように鈍感だったり意図的だったりする人はそれほど多くない