シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

アジコさんからマッチョだと言われてしまった件について

 
普通でない人生で普通になりたい人と、人生をゲーム化する人と - orangestarの雑記
 
3月の終わりから4月にかけ、気温の変化が急激で風邪をひいてしまいました。こうなると難しいことは考えられないし、難しい本を読み進めることもできない。こんな時にできるのは、日記の練習ぐらいかなと思ったので、少し前にいただいた手紙に返信したいと思っています。
 
過日、アジコさんは私を以下のように評しました。

ただし、これはかなりマッチョな生き方だ。マッチョですよ。普通の(また普通って言った!)人にはちょっと難しいし、こんな人ばかりになったら、社会は万人による万人のための万人の闘争になってしまう。
シロクマ先生の場合、人生の早い段階で、レールから外れる出来事があって(どこかに本かブログに書いてあったと思う)それは今の基準からしたら大したことではないけれども、昭和で、しかも田舎であるならそれはかなり大きい人生の価値観を変える出来事であったと思う。そこから這い上がってきた、その結果得た人生観というのもあるんじゃないかな。

 
こう、正面からおっしゃられると、そうかもしれませんねとしか言えなくなってしまいます。実際、現在の私は生きあがき過ぎていると思うし、その程度は加速してきました。そうなった背景には、1.色々なゲームに出会って効率性について考えを深めていったせいもあるでしょうし、2.思春期以来の色々な出来事にもよる と思います。
 
1.については無料記事エリアに、2.については有料記事エリアに書きます。一応、1.だけでも完結した読み物となるよう意識はしておきます。
 
 

1.新しいゲームに出会うたび、効率厨になっていった件

 
私の人生はゲームから授かったアイデアやインスピレーションに多くのことを依っています。たとえば『ガンパレード・マーチ』をとおして私は発言力システムという考え方を身に付け、それは現役です。『ガンパレード・マーチ』に出会えなかったら、私はもっと安易に口をパクパクさせ、自分の発言力をもっと低下させていたでしょう。
 
ゲーオタとしての私は、正直、あまり効率的にゲームを遊べていませんでした。高校生時代のゲーセンでのプレイは、フィーリングや気持ち良さの域を出ず、リソース管理やトレーニング効率や疲労管理などはおざなりでした。残機やボム数などから理論限界点を計算し、それをもとにハイスコアを狙い始めたのも大学2年生ぐらいからで、それとて、今に至るまで完璧な水準ではありません。『シヴィライゼーション』や『ヨーロッパユニバーサリス』や『ウマ娘プリティーダービー』を遊ぶ際も同様です。各方面のゲームの達人たちに比べて私はいつも不徹底で、最良のプレイヤーではありませんでした。
 
ただし、印象的なゲームに出会うたび、私は人生のアイデアをわけてもらって、影響を受け続けてきたように思います。さきほど挙げた『ガンパレード・マーチ』もそうですね。プレイしているゲームが教えてくれることと人生のシチュエーションがうまく重なるたび、私の人生はゲーム色に染まりました。以下、代表的なものを挙げてみます。
 
・『ワールドアドバンスド大戦略』。
医学部の試験勉強が煮詰まっていた頃に遭遇して、感化されました。ゲームとしてはドイツ陣営や日本陣営が面白かったのですが、なんといってもアメリカ陣営にしびれました。数の暴力はすべてを制すること、その数の暴力を支えるのは兵站(補給)であることを試験勉強中の私は強く印象づけられ、「畢竟、戦いとは数であり兵站である」と考えるきっかけとなりました。ゲームのなかの戦争に限らず、人生においても、自分自身の兵站が脆弱なら旧日本軍のように無理な戦いになってしまうし、兵站がしっかりしていて物量をもってことに当たれるなら、アメリカ軍のように有利にことに当たれる、ということをなぜかこのゲームをとおして私は強く印象づけられました。ひょっとしたら、アメリカ軍側でプレイするゲームが今までなかったから、そう感じたのかもしれません。
 
・『シヴィライゼーション』。
人生効率厨はシヴィライゼーションのように生きるしかない! 1ターンでも早く生産すること、1ターンでも早く技術を獲得することが死命を制する、ひいては、なにごとも時間との戦いであると初めて心の底から感じたのはこのゲームでした。他のシミュレーションゲームでもそうした傾向はありましたが、シヴィライゼーションの場合、画面のあちこちに「技術開発まであと〇ターン」「アレクサンドリア図書館完成まであと〇ターン」って表示されているんですよね。あれに急き立てられるんです。それに感化された結果、自分の人生も「あと〇ターン」を意識してしまうようになってしまいました。
 
当初、私にとっての『シヴィライゼーション』は、箱庭プレイ的にゆっくり遊ぶゲームとして選ばれたはずで、実際、modを作ったりアレンジしたりセーブデータを改造したりして呑気に遊んでいたはずでした。でも、そういうことを何年も続けた後に残ったのは、「あと〇ターン」を気にする精神性でした。これは、マッチョだと思います。みんながシヴィライゼーションのように生きたら、万人の万人に対する闘争だと思います。
 
・その後にパラドゲーがやってきた!
『ハーツオブアイアン』や『ヨーロッパユニバーサリス』は、「あと〇ターン」をそこまで気にするゲームではない反面、生産性や効率性を左右するいろんな要素に目を配り、それらを管理することが重要でした。宇宙シミュレーションゲーム『ステラリス』もそうですね。『シヴィライゼーション』をとおしてタイパを意識するようになった私が次にのめり込んだゲームたちは、タイパ以外の効率性や生産性にも目配りするよう迫ったのです。何かを創るにせよ、開発するにせよ、「あと〇ターン」は大切だ、でも、他にも目配りすべきことはあるし、もっと総合的な見地に立たなければ駄目だよね、ということを私に内面化させてくれたのはパラドゲーだったわけです。
 
あと、パラドゲーをとおして意識するようになったのはドクトリン(戦闘教義)ですね。耳慣れない言葉かもしれませんが、要は、自分の長所短所を踏まえた戦い方のポリシー、立ち回り方のポリシーのことだと思ってください。パラドゲーは、このドクトリンなるものの有無が戦闘結果や諜報結果を左右するのですが、今の自分に合ったドクトリンを「開発」し、そのドクトリンを「徹底」させることが自分自身の長所を伸ばすことに繋がる、ということを教えてくれました。
 
逆に言えば、自分に合わないポリシーは有害無益ですし、合ったポリシーでも不徹底ならあまりメリットを生かせません。人生で言えば、たとえば夫婦二馬力のパワーカップルには、それにふさわしい立ち回り方のポリシーがあるでしょうし、そんなパワーカップルが専業主婦/専業主夫家庭と同じように立ち回っていても強みを生かせないでしょう。同様に、研究畑で研究している人には研究者ならではの、精神科医には精神科医ならではのポリシーや立ち回り方があるでしょう。私の場合、こうしたことが『シヴィライゼーション』の時代ではなくパラドゲーの時代に、身体にスッに入ってきたんです。
 
 
振り返ってみると、私って、シミュレーションゲームからばかり影響を受けていますね。『ダライアス』や『斑鳩』といったシューティングゲームも、『ラグナロクオンライン』や『艦これ』も、楽しく遊んだけれども、効率性について人生にスッと入ってくるのはなぜかシミュレーションゲームばかりだったのでした。以前、どこかでアジコさんが私のことを「システムの人」と評してらっしゃったのも、こうした精神を反映してのことなのかもしれません。
 
で、こうしたゲームをとおして自分自身の効率性や生産性を高めていくという着想自体が、『シヴィライゼーション』やパラドゲーから教わった着想なんですよね。さしづめ、「シヴィライゼーションをプレイすることによって効率性にプラス10%のボーナス、パラドゲーをプレイすることによって全体管理効率にプラス10%のバフ」、といった感じでしょうか。人生のあらゆる活動や選択、ポリシーに、こうしたボーナスやバフ、ときにはペナルティやデバフがかかってくるでしょう。そういうことを頭のどこかで考えながら自分自身を操作・管理している……という見地は、間違いなくゲームをとおして獲得したものだと思いますし、それが私を社会適応の機械たらしめたのだと思います。
 
もし、それらのゲームのように社会適応の機械をやっていくのがマッチョだとしたら、私はマッチョなのだと思います。ただまあ、そうでもしなければ私は生きていけなかったのですよ。本来、人間はそういうことをしなくても生きていけるはずだし、生きていて構わないはずです。たぶん、日本国憲法にもそんな具合のことが書いてあったように思います。でも、私は生きていて構わないはず、っていう部分がわかりませんでした。今も実はあまりわかっていません。私がこうなった根底には、生きていけるということの自明性の動揺があったのだと思います。
 
 

この続きを読むには
購入して全文を読む

パラドゲーを越えてきた世界

 
それが起こったとしても、誰も第三次世界大戦と呼ばないし、そんな風にも見えない - シロクマの屑籠
 
2025年の正月、上掲リンク先のような放談を書いたが国際情勢のほうが放談を上回ってきて、いよいよ未来を心配するようになった。日本は島国なので他国から直接には攻め込まれにくいが、海上封鎖されたら干上がるし、シーレーンが脅かされるだけでもかなり堪える。
 
国際情勢はあまりにもマクロな現象なので、個人レベルで備えられることはたかが知れている。が、出来ることを怠りなくやっていくのが個人としてすべきことなのだろう。あまり思いつかないけれども、探してやっていくしかない。
 
ところで私はパラドゲーが好きだった(パラドゲーを知らない方は、こちらを参照)。「好きだった」と過去形にしているのは、自分自身が忙しすぎてたくさんプレイできなくなっているから。それと、パラドゲーは昔に比べてシミュレーションゲームとしてお行儀良く&パラメータがたくさんになりすぎたから*1。なにより、2025年の国際情勢がパラドゲーが描いている世界に酷似してきたからだ。
 
 

 
それでもパラドゲーには深く感謝している。なぜなら私に世界観を授けてくれたからだ。
この、パラドゲー的世界観によれば、世界の基本ルールは弱肉強食である。ただし、外交や経済や宗教や歴史的経緯によってモディファイされる、非常に複雑な弱肉強食だ。この非常に複雑な弱肉強食の世界では、大国が小国に何かを要求したり征服しようとしたりした時、小国にできることは少ない。それでも、国際情勢が凪いでいたり、外交的判断が優れていたりするなら、小国が大国に食われることを免れるチャンスはある。たとえば安全保障同盟が強力なら大国も侵攻をためらうし、国際情勢が比較的安定している時期なら、大国に戦争の大義名分を与えないことも抑止力になるだろう。
 
ただし、パラドゲー的世界観においては、大義名分が抑止力になる度合いは国際情勢に左右される。戦争があっちこっちで起こっている時や、大国側が切羽詰まっている時などは、大義名分も軍靴で踏みにじられかねない。なりふり構わなくなった大国を相手取る際には、結局、服従か抗争しかないかもしれない。そういう大国と戦うにあたっての同盟は、あてになる時もあればあてにならない時もある。たとえば、戦場のはるか後方に位置している同盟国は、虎の威を借りる際にはあてになるとしても、目の前の戦場を塗り替える援軍としては、あてにできそうにない。
 

 
で、2025年。
今日の国際情勢は、まさにパラドゲー的世界観のとおりに展開している。というより、パラドゲー的世界観をもっと加速させた感じになっているかもしれない。昨今のアメリカをパラドゲーで喩えるなら、「ゲームルールをよく知らないプレイヤーが癇癪を起しながら世界じゅうに難癖をつけている状況」のようにも、「既存の外交秩序を全部無視して帝国プレイを強行しようとしているベテランプレイヤー」のようにもみえる。
 
2025年のアメリカがどちらに近いのかは、考えても仕方のないことだ。どちらにしても、世界にとっては迷惑な話には違いないからだ。この、「大国が暴れると、どちらにしたって世界には迷惑な話」というのも、パラドゲー的世界観によく合致している。
 
 

欧州の反応もパラドゲーで見たやつそのまま

 
それより、欧州の反応だ。
まさに「これ、パラドゲーで習ったやつ!」を地で行くような反応だった。
 
アメリカが欧州を守る気がないと判明するや、欧州は一気に国防に傾き、ほとんど戦争準備みたいな様子になった。国際情勢がきな臭さを増し、国防の必要性が高まると、パラドゲーにおいても防衛力の強化が試みられるし、同盟も強固になる。2025年になってからの欧州各国の挙動は、パラドゲーのベテランプレイヤーのようだった。と同時に、フランスはアメリカのプレゼンスが低下した欧州に、つかさず自らのプレゼンスを差し入れたのだった。
 
www3.nhk.or.jp
 
これに対してロシア外務省は「パリの野望が表面化」と評したとあるが、実際問題、アメリカの抜けたプレゼンスの穴をフランスが埋めれば、ロシアからみてフランスがしゃしゃり出てきた、とうつるだろう。ともあれ、低下したアメリカのプレゼンスは速やかに埋められた。まるでビリヤードのようだ、と私は思った。
 
パラドゲー的世界観に基づいて考えるなら、プレゼンスの空白はそのように迅速に埋められるべきだし、埋められなければ別の誰かがそのプレゼンスの空白を埋めるだけのことになる。力の空白、プレゼンスの空白はこうも自動的に埋められるものなのか……と私は感じ入った。そして政治的プレゼンスと軍事的プレゼンスは合一で、切れる気配がないな、とも。
 
 

パラドゲー的世界観を生きたいとは思えない

 
このように、世界がパラドゲー的世界観に基づいて見えてしまうのは不幸なことである。
 
さきにも書いたが、パラドゲー的世界観とは複雑ではあっても弱肉強食で、国際情勢や外交状況次第ではどんな理不尽も力任せで押し付けられかねない世界だ。そして大国の無理や無茶に多くの人が振り回される世界でもある。世界がその剥き出しの姿をみせた時、個人が生き残るために選べる選択肢はそれほど多くはない。
 
だがパラドゲー的世界観に基づいて考えるなら、21世紀になってからこのかた、国際情勢や外交状況はどんどん混迷の度合いを深めている。既存の国際秩序を変更したくて仕方のない勢力は、今頃、ジョーカーのように笑い転げているだろう。
 

  
Hearts of Iron 4 には国際情勢のヤバさ加減を示す地球儀があって、混迷を深めるほど燃え上がるようになっている。それで言えば、2025年のの地球儀もかなり燃え上がっているようにみえる。そういえば、ちょっと前までは「世界終末時計」なるものを見かけたが、世界が本格的に混沌としてからは見かけなくなった。調べてみれば、2020年以降は10秒単位で、2025年には1秒単位で時計の針を短縮しているらしい。バカバカしい、見かけなくなるわけだ、かつてはそれっぽく見えた「世界終末時計」も、あまりに世界が混沌としてきて機能不全をきたしているようだ。
 
Hearts of Iron や Europe Universalis といったパラドゲーは、世界の大きなうねりや国際情勢の容赦のなさをシミュレートするゲームとしてはとてもよく出来ているし、プレイのし甲斐がある。だからといって、この世界がパラドゲー的世界観どおりになってしまうのは、ちっとも楽しめない。はっきり言って恐怖しかない。
 

 
そういえば、最近イカロス出版からリリースされた『抵抗の絆』には、パラドゲー的世界観の地獄の釜の蓋が開いたWWIIにおいて、どんなレジスタンス活動があったのかが書かれていた。レジスタンスの勇壮さは悲壮さと背中合わせで、やむにやまれずレジスタンス活動をせざるを得ない、してもしなくても地獄しかない、という局面もままある。地獄の釜の蓋が開いた国際情勢とは、そういうものなのだろう。
 
と同時に同書から読み取れるのは、国際情勢がいったん滅茶苦茶になってしまったら、中小国の政府と国民は混沌の渦に巻き込まれるしかないこと、いや、大国の政府と国民すら巻き込まれるしかないことだ。同書からは、混沌の時代のグローバルな否応なさもビリビリと伝わってくる。
 
パラドゲー的世界観が教えてくれるのは、地獄の釜の蓋が開いた時、真に安全な場所などない、ということだ。2025年現在、日本は安全そうにみえるが、私の知っているパラドゲーは「そんなのあてにならないよ」と主張してやまない。暴走特急のような2025年以降の世界で、私たちに何ができるだろうか。無事に2035年まで生き残ることはできるだろうか。未来のことは、何もわからない。
 
 

*1:これはパラドゲーに限らずの傾向だと思うけど

人生のゲーム化と、ゲームの人生化について

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
小島アジコさんのアウトプットのメインは漫画だけど、エッセイや作品評も独自のテイストを帯びていて面白く、上掲リンク先も例外ではなかった。アジコさんという一個人の世界観や経験から見た人生の姿がつづられていると思う。その際、キーワードになっているのが「物語」という語彙だ。 
 
じゃあ、私だったら、私の子どもだったらどうだろう?
私たちは人生を「ゲーム」にたとえるし、文章のタイトルは「人生のゲーム化について」となるだろう。そのように私たちが考えるのはゲームに親しんでいるからだけではなく、ゲームのほうも人生に似てきた、少なくともそういうゲームが台頭するようになったからだ。だからこの文章のタイトルを「人生のゲーム化と、ゲームの人生化について」とまとめた。
 
 

私たちは、人生を『艦これ』や『FGO』や『ヨーロッパユニバーサリス』のようにやっている

 
うちの家庭はゲーム一家なので、人生や人間模様についてゲームを比喩として語り合うことが多い。ゲームと人生の似ているところや、ゲームと人生の違っているところを日常的に言語化しあっている。たとえば「たいていのゲームではステータスやパラメータが数値化されて一覧できるけれども、人生ではステータスやパラメータは表示されない」、「だから人生では自他のステータスやパラメータに相当するものを類推できる能力を持っていることが有利になり、類推できないことが不利になる」、といった具合にだ。
 
その一方で、人生とゲームがよく似ている点もある。
 
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
約10年前に、私は「人生はシヴィライゼーションに似ている」と書いた。ゲーム開始時の初期配置によって難易度や命運が大きくわかれる点、うまくやるための道筋や戦略が多様である点、特定の時代・状況に特化しすぎると次の時代・状況に対応しづらくなる点などは、人生によく似ているからだ。
 
21世紀以降に私が出会った他のゲームたちも、人生によく似ていると思う。それらはエンディングやゲーム内の究極目的といったものがないか、あったとしても無視可能で、どんなゲームプレイをするのか、どう楽しむのかがプレイヤーにゆだねられている。
 
そうしたゲームゆえに、どうプレイするとしても、ゲームのルールをよく理解ながら立ち回ることが重要になる。攻略情報などに頼らない初回プレイの時はゲームルールやゲームシステムを手探りしながらのプレイになるし、理解の足りない選択を後で悔やむこともある。ハンディのある初期状態からの逆転プレイや、いわゆる縛りプレイを狙う際には、ルールの裏をかくようなことまで必要になりがちだ。
 
そこに「物語」はあるだろうか? それはアジコさんがおっしゃった「物語」そのものではないかもしれない。しかし、小説や漫画、昔の国産ロールプレイングゲームのような、前もって準備された物語がない代わりに、プレイヤーがプレイした足跡が物語になる。よく書けているゲームのプレイレポ、AAR、初見プレイの動画などを見れば、そのさまが見て取れるし、たとえばオープンワールド型のような自由度の高いゲームにはじめて触れたことのある人も、この感覚がわかるんじゃないかと思う。
 
ゲームルールとゲームシステムだけが与えられ、そのなかで夢中になれるなら、物語は後から勝手についてくる。そこで起こっていることは、システムに与えられたものであると同時にそのなかで自分が選択し、切り開き、積み上げていく物語でもある。たとえ、システムのなかで起こったことに過ぎないとしてもだ。
 
人生も、基本的にはそれと同じじゃないだろうか?
 
なぜなら、人生もゲームルールやゲームシステムに制約されたものだからだ。
第一に、私たちの生きている世界には物理法則があり、これに逆らうことができない。オープンワールド系のゲームが物理エンジンで動いているのと同じように、私たちも物理法則に基づいて動いている。そのうえ、社会があり、貨幣やリソースがあり、コミュニケーションのルールがあり、自分以外のプレイヤーもいる。個人主義や資本主義といったイデオロギーも、人生に一定の色合いを与えているだろう。
 
人生もいまどきのゲームも、はっきりとしたゴールや目的が不明であると同時に終わりがない。だらだら続けているうちにルールが変わっていき、環境が変わっていく点も似ている。突然サービス終了になるおそれがあるのも似ているかもしれない。人生は、主体的に選び取るものとして語ることができると同時に、世界という名のシステムのなかで社会という名のルールに基づいて進行していくものでもある。世界や社会にくってかかろうとすると、システムやルールから手酷いしっぺ返しをくらう点もゲームにどこか似ている。
 
私たちは不可避のシステムやルールのなかで生き、生かされ、生きた痕跡を事後的に物語のようだと評する。そうした視点で眺める時、まさに人生はゲームのようだと比喩したくなる。
 
 

内政しろ、デイリー任務しろ、種火を回せ

 
それから生活。冒頭リンク先のなかで、アジコさんは物語と対置するものとして「生活」を挙げておられた。それは、アジコさんが想定する物語の定義ではそうなのだと思う。しかしいまどきのゲームにおいては、ゲームのなかにも生活がある。少なくとも、生活に相当するゲーム体験のウエイトは小さくないように思う。
 
その一例は、『艦これ』*1だ。私はこのロングランなゲームと10年以上付き合い続けていて、それは俗に「提督業」と呼ばれる。その「提督業」のなかで重要なウエイトを占めているのは、デイリー任務やウイークリー任務といった日常業務だ。
 

 
艦これには「イベント海域」という決戦イベントがときどき開催され、多くのプレイヤーが挑戦している。でも、この「イベント海域」をやり遂げるためには、デイリーやウイークリーといった日常業務をとおして燃料や弾薬や装備を準備し、艦隊のレベルも高めておかなければならない。人生において、多くのトライアルが日常の鍛練や生活の丁寧さにかかっているのと同じように、艦これも、日常業務をどれだけ丁寧に積み上げてきたのかが、晴れの舞台の命運を左右する。
 
このことは、他のゲームにもある程度は当てはまる。アジコさんが過去にプレイしてきたゲームで挙げるなら、『FGO』もそうだ。『FGO』はガチャで★5サーヴァントを引きさえすれば進められるものではない。種火周回や素材集め、QP稼ぎといった生活に相当する活動をしっかりやってはじめて、★5サーヴァントが活躍できるようになる。『FGO』は「稼ぎ時」に相当するタイミングでごっそりとリソースを稼げる作品だったが、でも、まさにその「稼ぎ時」にごっそり稼ぐためにも日頃の鍛錬が必要だった。
 

 
『FGO』のなかではマシュが「小さなことからコツコツと」と言っているが、『FGO』に限らず、終わりのはっきりしないこの手のゲームでは、短期間に育成を完遂するのはほぼ不可能で、ある程度時間をかけて育成したほうが良い。ゆえに、ありふれた生活に相当するような、日常ルーティンをちゃんとやっているか否かがしばしば重要になる。
 
これは、パラドゲー、特に『ヨーロッパユニバーサリス』でもそうかもしれない。『ヨーロッパユニバーサリス』も、重要な戦争に臨むには日常の内政や交易、外交的根回し、等々が重要になってくる。散文的な日常を手抜かりなくやっておくことが、ドラマチックな状況を生き抜くための土台になるから、パラドゲーを遊んでいると、一日一日の小さな積み重ねに意識的にならずにいられなくなる。
 
私たちの現実の生活も、こんなものではなかっただろうか。
試験当日や冠婚葬祭の日といったハレの日だけが人生ではない。ケの日だって人生だし、ケの日こそが人生の本態とさえ言えるかもしれない。たとえば毎朝朝食に食べているものは、あなたの人生ではないだろうか。
 

 
私にとって、人生のかなりの部分はフルグラでできている。毎朝朝食を食べない人なら、朝食を食べないことが人生のかなりの部分を構成しているだろう。 
 
 

ゲームのほうが人生にすり寄ってきた、ようにも思える

 
もちろん全部のゲームがこうだと言いたいわけじゃない。幾つかのゲームは今でも刹那的だし、エンディングに向かって物語のページをめくるように体験するゲームも存在する。とはいえ、終わりのわからないゲームのなかでハレとケの時間を行ったり来たりするタイプの割合はそれなりに高く、我が家ではそういうゲームがいくつも遊ばれているので、人生をゲームにたとえるのは簡単で、人生の大きな割合を占めている生活も、ゲームという比喩に回収できると考えがちだ。
 
あと、それとは別に、ゲームのほうもなんだか人生にすり寄ってきているなぁと思う。
 
『ドルアーガの塔』や初代『ドラゴンクエスト』に夢中になっていた頃は、ゲームに究極の目的、立派なエンディングがあることが特別だと感じられた。それ以前のゲームは、たとえば『ギャラクシアン』にしても『マリオブラザーズ』にしてもエンディングがなかったし、『グラディウス』や『ボンバーマン』のように一応エンディングがあるゲームも、ループの区切りという意味合いのほうが強かった。
 
それから歳月が流れて、パラドゲーのように好きなように過ごして良いゲームがたくさんつくられ、オープンワールドゲームもつくられ、『艦これ』や『FGO』のように終わりのはっきりしない運営主導型のゲームが流行るようになった。これらのゲームにも終わりがなく、(たとえばある時期の日式ロールプレイングゲームのような)ゲームがプレイヤーに物語を押し売りしてくる印象は薄まった。国外産のゲームにおいてはとりわけそうだ。
 
そうなった結果、人生をゲームにたとえやすくなっただけでなく、ゲームが人生に似てきたようにも思う。
 
まるで人生のように目的もなく、勝利も敗北もくっきりとしないゲーム体験。運営主導型ゲームの場合は、環境がどんどん悪くなっていくこともあろうし、過疎ってくることもあろうし、唐突にサービス終了が告げられるかもしれない。終わりがなくなり、魔王討伐のようにくっきりとした目的が希薄になり、ダラダラ続くようになったことで、ゲームはますます人生に似てきた。だからどうした、という話ではある。
 
しかし……コスパに追われて、惰性に流されて、環境の変化に一喜一憂し、変化についていける自分をまんざらでもないと思ってしまうような昨今のゲーム体験は、じつに人生のようだと思いませんか。
 
眠い目をこすりながらデイリー周回し、提督業とうそぶきながらイベント海域で禿げ上がるほどストレスをためこみ、不承不承に環境の変化についていくゲーム体験! どうしてこんな風になっちまったんだろうなあ。そうして背中をまるめてスマホをいじっている自分自身を振り返ってため息をつくところも人生に似ている。ゲームに回収されてしまう人生、人生に回収されてしまうゲームってのは、こんなものだったのかあ。
 
しけた話になってしまった。まあでも私は、こうやって人生を、特にその日常を、ゲームのように地固めしていくことを知ってしまった。と同時にゲームを人生のように地固めしていき、暁の水平線の勝利を刻むなどとうそぶいている。暁の水平線に勝利を刻んだつもりになっても、その翌日にはありふれた生活=デイリー任務が再開される、それがいまどきの人生=ゲームだっていうのにね。
 
 

 
2025年3月26日現在、『艦これ』はイベント海域が絶賛開催中で、私はこれをチクチク攻略していきます。特別な目的意識はなくなって久しく、アジコさんがおっしゃる物語はここにも無い気がしますが、それでも目の前にイベント海域があれば挑むしかないし、その際には日常ルーティンの強度や丁寧さが試されるのです。まさに人生みたいですね。そうして歳月は流れていくのでしょう。
 
 

*1:『艦隊これくしょん』

これがコスパの精神か!──『ふつうの会社員が投資の勉強をしてみたら資産が2億円になった話』

 

 
幻冬舎さんのつてで、『ふつうの会社員が投資の勉強をしてみたら資産が2億円になった話』をご恵贈いただいた時、どうしたものだろうと思った。著者ははてなブログで長く活動しているトピシュさんだから縁はある。でも、お金の本を私に送られても楽しめないんじゃないの? という心配だ。
 
ところがこの本は面白かった。お金についてのハウツー本であるだけでなく、資産形成のために必要な精神が活写されているように読めて、そこが面白かったからだ。
 
結論を書いてしまおう。
資産を形成するための根本的な精神とは、トピシュさんに内面化されているだろう、ホモ・エコノミクスの精神だ。ここでいうホモ・エコノミクスの精神がトピシュさんと同じぐらい「うまく」内面化されていて実行可能なら、きっと資産は膨らむだろう。本書は、資産運用のハウツー本であると同時に、ホモ・エコノミクスの精神とその重要性についても大事なことを教えてくれていると思う。
 
 

1.ハウツーとしての本書

 
資産形成のための本なので、本書には金銭管理、節約や貯蓄の方法、税制の話などが書かれている。基礎控除のように広く知られていそうな知識から、わかりづらいiDeCoの制度的な特徴まで、色々な事柄にも触れている。有資格者でない限り、全部を網羅している人はあまりいないと思うし、私も参考になった。なおかつ、この本は著者一個人の話なので、単なるチェックリストではなく、ひとまとまりのナラティブにもなっている。著者を主人公とした、資産を増やしていく物語としても読める(=だから頭に入ってきやすい)のは、タイトルに偽りなしだと思う。
 
資産にかかわる以上、投資の話や住居の話も登場する。2億円という資産を築くためには投資が必要だし、大きな支出となる住居の問題にも触れないわけにはいかない。ところが、会社員としての給料は足し算的だし、副業で得られるお金も限界がある。タイトルから私は「2億円を達成するには、投資を最大限に活用したんだろうなぁ」と想像していたけれども、実際、投資に大きなウエイトをあてている様子が読み取れた。
 
どこまで・どう投資をするのか?
それは年齢や年収、投資の目的によってさまざまだろう。著者は、手持ち資産のうちある程度高い割合を、長期的投資に割り当てることを第一に勧めている。もちろん短期的な値崩れが起こることはある。それでも長期的にみれば、危なげのなさそうなところに堅実に投資し続けることが肝心で、それこそが投資ならではのメリット──足し算的にではなく、掛け算的にお金を増やせるメリット──を受け取る大前提になる。そして掛け算的にお金を増やせるメリットを体感するためにも、ある程度まとまった額を投資に差し向けたほうがいい。「まずは100万円作って投資する」と紹介されているのはすごくわかる。私も、最初に投資をしたのはそれぐらいの金額だったからだ。
 
 

2.ホモ・エコノミクスとしての著者=トピシュさん も重要

 
ここまでは、「ふつうの会社員」としての著者の話。ここからは、私が「やっぱりトピシュさんはふつうじゃない」と読んで感じたことを書いてみたい。

会社員としてのトピシュさんは年収が極端に高かったわけではなく、不況やブラック労働の時代に翻弄されていたさまも記されている。これらを読む限り、確かにトピシュさんはふつうの会社員でもあり、本書はタイトル詐欺ではない。
 
とはいえ、本書に書いてあることをそのまま実行できる人はそれほど多くない、と思う。少なくとも、さっき書いたような内容だけを参考にしているうちはそうだ。
いくら投資の勉強をして色々な資格を所持したからといって、誰もが自分の人生を投資の筋書きどおりにデザインし実践できるわけではない。オンラインゲームをとおして成長効率性について深い理解と洞察を得たはずの人でも、その理解と洞察を自分自身の人生に適用できるとは限らないのと同じことだ。でも、たぶんトピシュさんにはそれができている。
 
本のなかでトピシュさんは、経済的な自由を獲得する一環として結婚した、といったことを書いている。これは、2020年代の日本においてプラグマティックな結婚観だと思うし、今こそ考えておくべき勘所だと思う。結婚というと、今でも不自由なイメージを持つ人も多かろうし、それはある部分ではそのとおりだ。でも、トピシュさんにとって結婚は自由を獲得する手段、そしてその自由は資産によって担保されるべきものだったのだろう。とはいえ、エクセル上で計算すればそうだとしても、そのとおりに結婚する人・できる人はそうざらにいるものではない。
 
この結婚をはじめ、トピシュさんの物語は全体的に経済合理性にかなっている=コスパにもかなっている。投資活動や資格の勉強をしたからトピシュさんが経済合理性を獲得したのか、それともトピシュさんが経済合理性の塊のような人だから投資活動ができて、資格も次々に獲得できたのか? どちらなんだろう? ともあれ本書をとおして私が印象付けられたのは、「ホモ・エコノミクスとは、コスパとは、こういう風にやるものなんだよ!」といった話だ。
 
ホモ・エコノミクスとは、人は人でも、経済合理性にかなった行動をする人のことを指し、経済学の黎明期から想定されてきたものだ。経済合理性に妥当する行動をとる人、つまりコスパ的に最適な行動をとる人は、2020年代においてそう珍しくなく、むしろ現代人の条件とさえ考えられる。でも、人間が昔からそうだったわけじゃないし、今でもそれが苦手な人はごまんといる。
 

 ホモ・エコノミクスとは、言い方を変えると、行動のいちいちに経済的な無駄を省き、できるだけ儲かるように合理的計算に基づいて意思決定する主体である。これは自己利益の主体とも呼ばれるが、ここで金儲けは肯定的に捉えられている。肯定的というか、人間が生きていく上で当然の行為様式とされているということだ。そしてそれに成功した人は尊敬に値する。ホモ・エコノミクスの社会では皆が金持ちを目指し、その企てが成功すると多くの人に評価され羨ましがられるのだ。
『ホモ・エコノミクス』から

重田園江『ホモ・エコノミクス』を読むと、現代人にとって自明に思えるホモ・エコノミクスの精神、くだけた言い換えをするならコスパを気にする精神が比較的最近の思想に根差しているさまがよくわかる。だがルーツがどうであれ、今日の人間にとってホモ・エコノミクス的であることは社会適応に不可欠だし、そうでなければ資産を形成するどころか、家計を成立させることさえ難しくなる。
 
問題は、ホモ・エコノミクスのディシプリンを知ることが難しい以上に、ホモ・エコノミクスのディシプリンをうまく内面化し、こなれたかたちで実践するのが難しいことだ。さきほど、オンラインゲームをとおして成長効率性について洞察を得た人でも、自分自身がそうであることは難しいと書いたが、ホモ・エコノミクスも変わらない。コスパやタイパをきちんとやったほうがいいのはわかっている、でも、わかっちゃいるけどそれができないんだ、という人は少なくないだろう。
 
19世紀の人々に比べて、21世紀の人々はおそらく全体的にはホモ・エコノミクスとしてのディシプリンを内面化しているし、だからこそコスパやタイパといった言葉が人口に膾炙したのだろう。しかし、それができる度合いには程度の差があって、本書から浮かび上がってくるトピシュさんの姿は、ホモ・エコノミクスとして非凡であり、ふつうとは言えないところがある。
 
だから、本書は「ふつうの会社員」の話であると同時に「非凡なホモ・エコノミクス」の話でもある。ホモ・エコノミクスとして非凡だからこそ、トピシュさんは生活のあらゆることを経済合理性に照らして設計・運用できる。結婚や家族といった親密圏の設計も例外ではない。そう、ホモ・エコノミクスの精神に沿って本気で人生を考えるなら、親密圏の設計にも経済合理性にかなった計画や意図が反映されていてしかるべきなのだ。それが、トピシュさんではできている。本書をひとつの成功譚として読み取る際に、この、トピシュさんのホモ・エコノミクスとしての卓越は絶対に頭に入れておくべきだと思うし、本書をとおして学び取るべきは、税制や投資の知識だけでなく、トピシュさんの生きざま、ホモ・エコノミクスとしてのディシプリンなのである! と私は読者として勧めてみたい。
 
 

3.ホモ・エコノミクス=守銭奴ではない

 
ホモ・エコノミクスやコスパやタイパといった言葉から、守銭奴とか、お金のための人生とか、そういったことを連想する人もいるかもしれない。いやいや。確かにホモ・エコノミクスは経済合理性にかなったライフスタイルをとるし、トピシュさんにおいては、それが極まっていると思う。しかしホモ・エコノミクスであることと、守銭奴であることはイコールではない。ましてや、お金をため込むこと自体が目的であるわけでもない。
 
本書には、自由という言葉がたびたび登場する。トピシュさんが自由という言葉を挙げるたび、私は『銀河英雄伝説』の登場人物が語った「金銭があれば嫌な奴に頭を下げずに済むし、生活のために節を曲げることもない」という言葉を思い出す。
 


 
この、自由という要件に加えて、トピシュさんはテーマパークに出かけることや家族と過ごす時間を大切にすることにも言及している。ホモ・エコノミクスだからといって、トピシュさんがお金にとらわれているかといったら、そういうわけでもないのだ。おいしいものが食べたかったり、親しい人と過ごしたかったり、株価の動向に動揺したりする、そういう人間でありながらホモ・エコノミクスをやっていく、コスパやタイパを踏まえて生きていくことが追求されているように読めた。
 
それか、こういう言い換えもできるかもしれない。「ホモ・エコノミクスとしてのトピシュさんが意識している変数はたくさんあって、単純じゃない」。
 
世の中では、狭義の経済資本にとどまらない、いろいろなものが資本になぞらえて表現されている。たとえば文化資本、教育資本、社会関係資本といった言葉が有名だ。心身の健康も、労働者や資産家としての私たちにとって不可欠な資本だと言える。
 
トピシュさんの生きざまは、まさに、こうした狭義の資本にとどまらない、だけど生きていくうえで重要な色々にも目配りしたかたちで物語られている。それが一番わかりやすく出ていると感じたのは、以下のくだりだ。
 

 最後のとっておきの方法が、テレビやインターネットを一旦遮断して近所のケーキ屋さんに走り、美味しいケーキを買ってきて、お気に入りの銘柄の紅茶と一緒にティータイムを楽しむことです。
(中略)
「お金がリアルに減っている時にのんきな!」と思うかもしれませんが、これが本当に効くんです。ケーキの糖分は疲れた脳を癒してくれますし、紅茶の香りはリラックスさせてくれます。
『ふつうの会社員が投資の勉強をしてみたら資産が2億円になった話』から

これは、ブラックマンデーのような暴落にもめげずに投資を続けることの重要性を説くパートからの引用だが、ここでトピシュさんがやっていることは、「正気度の回復」だと思う。長期投資を続ける際の大敵は暴落による動揺と、動揺に基づいた不用意な売りだ。トピシュさんは「時間をかけて資産形成をする上での敵は、自分自身の心です。これは精神論ではなく本当の話です」とも書いている。良い投資を続けるためには正気であることが大切で、正気を保つためにトピシュさんはケーキや紅茶を買うことを惜しまない。
 
ここでケーキや紅茶が登場するのは、トピシュさんがホモ・エコノミクスではないことの証拠ではなく、その逆、ホモ・エコノミクスをきわめし者であることの証拠だと思う。投資にかかわる重要な変数のひとつとしての正気度に、ちゃんと手当をしているわけだ。
 
総体としてホモ・エコノミクスをやっていくとは、お金にも、精神にも、健康や文化や親密圏といったそのほか色々なことにも目配りがいく状態をやっていくってことだろうし、それらが総体として経済合理性にかなっていて、全体としてコスパやタイパに優れていることだと私は思う。総体としてホモ・エコノミクスをやっていくためには、お金のことしか見えない守銭奴になるのでなく、コスパやタイパにもとづいて他の色々なことにも目配りし、なおかつ、それらとお金の関係、それら同士の関係を取り持てることではないだろうか。
 
 

4.単純になり過ぎてはいけない

 
私が本書から受け取った一番重要そうに見えたエッセンスはこのあたりだった。ふつうの会社員が投資をとおしてひとまとまりの資産をつくるためには、狭義の経済資本だけにとどまらず、もっと視野の広いホモ・エコノミクスとしての精神、その実践が必要になるのだと思った。コスパやタイパを考える際には単純になりすぎるのでなく、色々な変数や関数にも思いを馳せる必要があるし、人生を総合的にやっていきなさいってことでもあろう。参考にしたい。
 
 

初心者でもAIはすごく面白い(だけど疲れてしまう)

 

  
今年の課題のひとつに「AIとの付き合い方を、私なりに探してみる」というのがあったんだけど、AIに課金して以来、あまりに面白い&便利&将来性を感じてしまって夢中になっていた。使い始めて間もないAIを、私は「かなり疲れるツール」だと感じている。AIがなんでも手伝ってくれるのはありがたい。だけど、そのお手伝いに私自身がついていけていない。
 
AI無しでは30分かかっていたことが、5分ほどで終わってしまうスピード感。AI無しではできなかったことができた時の驚き。そしてAIをとおして深まっていくテーマや問い。そういうことと2時間ほど付き合うと、もうへとへとになってしまう。この疲労は、AIに慣れるほど軽くなるのだろうか? それともAIに慣れて一層効率性が高くなると一層重くなるのだろうか?
 
どちらにしても、開けてはいけない扉を開けてしまった、と私は感じた。2025年を境に、私はAIに支援された生活を始める。そしてAI抜きの生活には戻れないだろう。
 
この喜びと驚きと疲労について、いま感じていることを書き留めておきたい。
 
 

無料AIをぽちぽち触っていた頃

 
前日譚として、AIに課金する以前について少し書いておく。
私はAIの使用について懐疑的だった。「AIは無能に違いない」「AIは使えない」と考えていたわけではなく、「AIは高度だから、私には使いこなせない」と思っていた。
 
1~2年ほど前から、SNS等には華麗にAIを使いこなしている人々の、華麗に使いこなしているさまが流れていた。でも、私には到底使いこなせそうになく、なんだか専門性の高いことをやってらっしゃるように見受けられた。AIに指示を出す・プロンプトを駆使する、等々を眺める時、どうせロートルの私が使っても大したことはできまい……などとハードルの高さを想像した。
 
実際問題、Geminiなどの無料版を試用してみた時、私が知りたいことはわからないままで、やりたいことはできないままだった。なんだ、AIと言ってもこんなものか。というより、私にはAIが使いこなせないから何もできないんだな、と諦めの気持ちを深めていた。AIは、プログラミングなどをゴリゴリやっているエンジニアの独壇場か、それに近いスキルを持った専門家のもので、私みたいなのが触ってもダメなんだろうなーと思っていた。
 
 

きっかけをくれたのはブロガー飲み会

 
ところが2月初旬のオフ会で、いぬじんさんがAIにドはまりしていることが判明した。いぬじんさんのAI話は、SNS上でAIを華麗に使いこなしている人々の華麗な話に比べて、ずっと具体的で、ずっと面白そうで、こう言ってはなんだけど、いい加減なお付き合いの仕方でも面白いことの起こりそうな雰囲気を湛えていた。
 
これは、いぬじんさんのお人柄を反映してのことかもしれないけれど、いぬじんさんのAI体験談はお高く留まっておらず、「AIを華麗に使いこなしている」様子を誇る風でもなかった。AIと付き合いはじめて面白かった・びっくりした・便利だったさまが、ありのままに語られていると感じた。
 
なにより、AIの使い方でそこまで無理をしている風でもなさそうだった。
 
「いぬじんさんが、こんなに伸び伸びと使っているなら、私だって伸び伸びと使えるかもしれない」
 
初めてそう思った。そしていぬじんさんは有料AIの世界の住人だった。私も、そこに飛び込んでみるしかない、と思った。
 
 

課金開始:あまりの便利さ、可能性に度肝を抜かれた 

 
 
で、課金した。
世界が変わった。
無料AIではなかなか手が届かなかったところにスッスッと手が届くと感じた。
 
まずテンプレ的文章づくりを試した。
形式のしっかりした文章なら、AIに書いてもらって遜色ないことが判明した。音声入力との相性も良い。私の文章を幾つか読み込んでもらい、それを手本にしてくださいと依頼するといい感じに真似てくれた。
 
なにこれ、本気で省力化できちゃうぞ?!
AIが、いきなり私の秘書的存在&口述筆記の召使になった。指が痛い時、PCの前まで移動したくない時、就寝前に思いついたアイデアを簡単にまとめてもらいたい時、AIは痒いところに手が届く仕事をしてくれる。現時点ではAIに文章づくりを完璧に任せきれないし、そこまでAIを使いこなせる目途も立たない。それでも、込み入った文章を書いた後に助言をもらうにせよ、下書きしてもらって私が仕上げるにせよ、AIがあるのとないのでは雲泥の差だ。「支援してもらう」ことに徹するぶんには、私にとってのAIは既に強力なツールだと思う。これだけで月額課金の元を取った気持ちだ。
 
次に、イラストの作成。
イラストは、はじめに想像していたよりもずっと上手く作成してくれている。細かいことを言えばきりがないし、たぶん、その細かなことに注文をつける使い方こそが肝心なのだろう。けれど、まったくの初心者でもある程度は使いこなせることがわかった。幾つかのAIを比較検討してみたい分野でもある。
 
図像の作成も悪くない。イラストもそうだが、AIは人間とは異なる目を持っているらしく、AIが出力するものと人間が満足するものの間にはしばしばギャップがある。そのギャップを埋めるには、AIに事前にあれこれ条件を付け加えるだけでなく、生成された図像について、追加の指示を出さなければならない。現在の私では、完成までフルにAIにお任せしようとすると時間効率はそこまで良いとは言えない。でも、中途までAIにお任せして、残りを自分で完成させるような「支援してもらう」使い方なら、もう十分に使えるレベルになっている。
 

 
それから調べごと。
楽しい! 家庭のこと、調べたい資料のこと、天候のこと、専門領域のこと、どれもgoogle検索よりも簡便に、柔軟に色々なことを教えてくれる。google検索やPubmed検索で私自身がうまく拾えなかったURLや資料を、AIは見事にひっかけてくれた。ときどき空想上の資料を提言してしまうことがあるが、それはご愛敬。そういう時のAIはなんとなく雰囲気がわかるし、そのとき参照した資料やデータベースの提出をお願いすれば見当がつく。
 
その際、質問に次ぐ質問をとおして疑問をもっと深めたり、関連する課題を芋づる式に発見するのに向いている。
AIは、google検索やwikipediaの豪華版みたいな使い方に加えて、「やりとりをとおして最初の質問の周辺について見当をつける」使い方もできる。この過程が楽しく、とても参考になる。夢中になりすぎると時間と体力を消耗してしまうのがぜいたくな悩みだ。
 
 

PCやネットが初めて「使える」と思った日を思い出す

 
こんな具合に、課金AIは初日から威力をみせてくれた。ファイルの変換、紙媒体の変換、斜め読みしたい資料の翻訳や要約もいけている感じだ。完璧ではないかもしれないけれども、完璧ではないと割り切り、支援ツールとして手伝ってもらうぶんには十分すぎるほど実用的だ。
 
そして面白く、刺激的だと感じる。
この面白さ、この刺激的な感触は、遠い昔にPCやインターネットを初めて「使える」と感じた日に似ている。それか、初めてgoogle検索を使った日や、初めてwikipediaを熟読した日の感触にも似ている。AIは私にとって新しい玉手箱で、過去に新しい玉手箱として体験された諸々にどこか似ている。そして、それら同様、今後の私自身の習熟とAIの成長を期待せずにいられない。
 
それから、AIとの付き合いは私のものの考え方やものの作り方を徐々に変えていくと思われる。ただちに影響はないとしても、このようなツールと長く向き合うことの影響を私が免れるとは思えない。後日、そのあたりについては別稿に書くつもりだけど、私がAIとの間柄をとおしてどうなっていくのかも、よく観察しておきたい。きっとAIは、インターネットが来た後やSNSが来た後に私が変わっていったのと同じように、私自身を変えていくだろう。おそらく他のユーザーもだ。
 
そうした諸点について懸念するよりもまず、希望をもってAIとお付き合いを続けていきたい。
 
 

だけど、こうも考える

 
他方、私の年齢や経験のためか、古き良き時代にPCやインターネットに抱いたような夢をみるには至らなかった。
 
第一に、私がAIに耐えられていないという課題。
AIは面白いのだけど、面白いがために、私はすぐに飽和状態になってしまう。私は、面白過ぎる文献や小説を読んでしまった時に頭と心がいっぱいになって何もできなくなってしまうが、それに似たことがAIでも起こり得る。そのことを抜きにしても、AIは疲労を呼びやすい。AIを使っていて疲労するのは、画像生成などで根気よく指示を繰り返す時だけではない。AIが好ましい出力を連発してくれても、だんだん疲労が蓄積する。これは、AIに対して判断力というリソースを投下しているせいだろうか?
 
それからAIが出力してくれた情報は、単体で値打ちがあるというより、もう少しAIに追加で質問を重ねるか、AI以外の手段で裏取りしたほうが値打ちのあるものが多い。AIの出力がAIの出力だけで完結することはあまりなく、また、完結させるべきとも思えないから、どれほどAIが素早く素晴らしい出力をくれたとしても、人間がその後始末や裏取りをするにはそれなりの手間暇がかかる。少なくとも現在の私の使い方では、そういう手間暇を惜しまないほうが良い気がする。それもまた疲れる。
 
こんな風に疲れるものだから、私はAIを長時間使えないし、へたに使ってしまうと体力が危なっかしいと感じる。もし、私がもっと若い頃にAIに出会っていたらもっと長時間向き合えたかもしれないし、逆に夜遅くまで使ってしまったりして心身を壊してしまったかもしれない。AIは人間離れしているが、ユーザーである私は今でも脆弱な人間のままだ。
 
第二に、「結局これもユーザーの使い方次第なんだろうな」的な予測。
ちょうど、google検索がユーザーの検索ワード次第なのと同様に、AIも、ユーザーの入力の巧拙によって出来ることが大きく違ってきそうな予感がプンプンする。実際問題、華麗にAIを使いこなしている人の、華麗に使いこなしているさまに私自身が追いつけるとは、現時点でもなかなか信じられない。AIが革新的なツールであることはわかった、けれどもそのツールでできることの質や量は不可避的にユーザーの力量に左右される。「服屋で服を買うための服がない」ならぬ「AIで知識を仕入れるための知識がない」的な状況も起こりそうで、上を見ても下を見てもきりがない。
 
昔の私だったら、こういう素晴らしい玉手箱を見かけた時に「人類の進歩!」などと叫びたくなっただろうけれども、今は醒めてしまってそういう気持ちにはなれない。どうせAIも、多く持つ者をより豊かにし、そうでない者との格差を広げるのだろうな、と思う。もちろんそれはAIが悪いというより、社会が悪いとか、娑婆が悪いというべき何かだろう。AIに限らず、革新的なテクノロジーは誰かを押し上げると同時に誰かを没落させるのが常だ。AIによって社会はきっと変わるが、その果実の分配が平等になることはない。
 
最後に愚痴っぽいことを書いたが、それでも私自身の出来事としてはAIとの出会いはエキサイティングだった。もっと習熟し、もっと使い方を広げて、これからの生活や文章づくりを支える相棒にしたいと思う。AIは、華麗に使いこなせていなくても十分面白いツールだったんだね。でも、今はもっとうまくなりたい。