われは多くをうち忘れ、シナラよ、風とさすらひて、
世の人の群にまじはり狂ほしく薔薇をなげぬ、薔薇をば。
色香も失せし白百合の君が面影忘れんと舞ひつつ踊りる。
さはれ、かのむかしの恋に胸いたみ、こころはさびぬ。
そのをどりつねにながきに過ぎたれば。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたりたる君なれば、
あはれシナラよ。
英国世紀末の薄幸の詩人アーネスト・ダウスンの絶唱「シナラ Cynara」の第三連である。邦訳は矢野峰人。因みに「薔薇」には「さうび」とルビが振られている。
ダウスンなんて知らないよ、という向きも、この詩のこの一連とまるきり無縁ではありえない。その証拠に原詩を示そう。
I have forgot much, Cynara! gone with the wind,
Flung roses, roses riotously with the throng,
Dancing, to put thy pale, lost lilies out of mind;
But I was desolate and sick of an old passion,
Yea, all the time, because the dance was long:
I have been faithful to thee, Cynara! in my fashion.
お気づきだろうか、第一行目の末尾、上に掲げた矢野訳では「風とさすらひて」と表現された箇所の原文が "gone with the wind" であることを。
読者よ、あなたがアーネスト・ダウスンという詩人の名は知らなくとも、「風と共に去りぬ」という言葉はきっと御存知だろう。これはマーガレット・ミッチェルの小説の題名で、映画化されて有名になったが、じつは、ダウスンの詩からの引用なのだ。
もうひとつ、「酒と薔薇の日々」という言葉も、どこかで聞いたという方が多いのではあるまいか。これもダウスンの詩の一句で、ブレイク・エドワーズ監督、ジャック・レモン主演の映画「酒とバラの日々」(一九六二)の題名に使われた。
このような誘いかけの文章で始まる新書版を、今日たまたま書店の新刊書棚で見かけた。いつか出るはずと、密かに心待ちにしていた一冊だ。
南條竹則
悲恋の詩人 ダウスン
集英社新書
2008
一般には『酒仙』『満漢全席』『魔法探偵』など、遊び心たっぷりの閑雅な小説の書き手として知られる南條竹則だが、もともと19世紀末の詩人アーネスト・ダウスン Ernest Dowson を偏愛してやまぬ英文学者として夙に知られた人である。
小生が彼の名を知ったのは、英国音楽の偉大なる紹介者、三浦淳史さんのエッセイでだったか、LPの解説文でだったか。十代前半ですでにいっぱしのダウスン狂いとなった彼は、三浦氏と文通するとともに、大学時代に私家版のダウスン訳詩集を刊行し、フレデリック・ディーリアスの歌劇のディスクに対訳を提供するなどしていた。まこと、端倪すべからざる早熟の才人だったのである。
ちょうど一年前、その南條氏の訳で岩波文庫から『アーネスト・ダウスン作品集』が出た。おや、中華グルメ小説だけの人ぢゃなかったのだ、と世間は驚いたかもしれないが、こちらこそが彼の本来の領分なのであり、ようやく満を持してライフワークに着手されたな、次はいよいよダウスンの評伝を手がけられるに違いない。そう確信して、その上梓を心待ちにしていたのである。
英文学に疎い小生がダウスンの名を知ったのは1971年頃のこと。銀座のヤマハに届いた新譜LPに、チャールズ・グローヴズ指揮によるディーリアスの管弦楽つき声楽曲『日没の歌』と『シナラ』があり、それを聴きライナーを読むことにより、「失恋と病苦と飲酒で身を滅ぼした」夭折詩人の存在を知ったのである。失意のなかで別れた女の名を繰り返し呼ぶ歌曲『シナラ』は、春告げる郭公や夏の宵の舟遊びだけぢゃない、デカダン芸術家ディーリアスの「もうひとつの貌」を顕わにした、世紀末の毒をたっぷり含む禍々しい音楽だったのだが。
このたびの南條氏の本は、数々の伝説に包まれたダウスンの薄幸の生涯を辿って余すところがない。詩作の紹介にも抜かり無く、佐藤春夫がダウスンにぞっこん惚れ込んでいたことや、火野葦平(!)に未刊のダウスン訳詩集があることなど、思いがけぬ情報も満載される。
それにしてはディーリアスについての言及がまるでないのが寂しい。もう氏はそんな若き日のことは忘れてしまったのか、と思いきや、さにあらず。その話題はちゃんと「エピローグ」にとってあったのだ。詳しくはどうか同書を。間違いなくこれは世のすべてのディーリアン(ディーリアス狂い)必携の書なのである。