小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

20 クロカネの道(井上勝) 江上 剛(2017)

【あらすじ】

 野村弥吉は長州藩の名家井上家の3男に生まれ、野村家の養子となって英語と航海術を学んだ。長崎留学中に、肥前藩が行った鉄道模型の試運転に立ち会って心を奪われた弥吉は、洋行して鉄道の技術を学び、そして日本全国に鉄道を敷設したいと夢見る。

 

 ちょうどその頃長州藩では、執政・周布政之助が西洋技術を学ぶ必要性を感じて国禁の英国留学生を計画し、弥吉はその1人に選出された。後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれる井上馨・山尾庸三・遠藤謹助・伊藤博文らと、半年かけてロンドンヘ渡る。

 

 ロンドンに着いて半年ほどすると、諸外国が連合して攘夷を実行した長州を攻撃するという記事が掲載された。ロンドンで世界文明との格差を思い知った5人は、このまま長州が戦えば滅亡すると危惧する。帰国論が高まる中で、弥吉は5年間英国で勉強し、その文明を持ち帰り「人間の器械となること」が君命と主張する。結局井上馨と伊藤博文の2人が帰国することで話がまとまった。

 

 残った弥吉らに下宿先のウィリアムソン教授とキャサリン夫人は献身的に世話してくれた。教授は専門以外も惜しみなく教え、イングランド銀行など参考になるような場所を見学させている。そしてキャサリン夫人からは生活を面倒みながら、その後の人生の指針となる英国紳士としての心構えを教わった。

 

 ロンドン大学で優秀な成績を収めていた弥吉だが、明治維新が成り有益な人材が欲しい木戸孝允は、弥吉と山尾にすぐ帰国するように命じた。帰国して実家の姓に戻り井上勝と改名した弥吉は、伊藤や大隈重信ら改革派と共に、念願の鉄道敷設に取り組む。

 

 アメリカが利権を目論んだ計画には断固として反対し、難しい交渉を成し遂げる。またイギリスと公債を利用した鉄道敷設専業を進めようとするが、利ざやを狙う企てを察知した仲介者と断交して、オリエンタル・バンクの協力を取り付ける卓越した交渉術を見せ、新政府での居場所を確かなものにした。

 

   *井上勝(ウィキペディア)

 

 鉄道技師に新たにエドモンド・モレルを招聘し、実績を作るために新橋駅―横浜駅間の鉄道敷設に着手する。工部省の局長に抜擢されても英国紳士の心構えから先頭に立って現場に立ち、反対する国民の説得に当たる。建設途中で死亡したモレルの志を引き継ぎ、明治5年開通させた。

 

 鉄道にしか目が向かない井上勝は、関東の次に大坂―神戸間の敷設を行なうため鉄道寮を関西に移そうとするが、工部少輔に出世した山尾庸三の反対に遭い辞任した。ここでは岩倉使節団から帰国した同じ「長州ファイブ」の伊藤博文が間を取り持つ。井上勝の鉄道への情熱は留まるところを知らず、今度は東京一京都間の敷設を計画し、当初計画の中山道ルートから東海道に変更して、明治22年に全線開通にこぎつける。

 

   その後も上越線、東北本線など鉄道の延伸エ事に尽力を尽くし、鉄道庁長官として発展に寄与した。1910 年およそ40年ぶりに渡英し、下宿先のキャサリン夫人と再会するが、そこで病魔が悪化してそのままロンドンの地で亡くなった。享年66歳。

 

 

 

 

*長州ファイブ(左上)遠藤 謹助(中央)井上 勝(右上)伊藤 博文(左下)井上 馨(右下)山尾 庸三 (萩市観光協会)

 

【感想】

 最後は明治時代から、技術者を取り上げた。本作品を読むと明治の文明開化から戦後の高度成長、そして現在に続く技術者の「公約数」に思えてくる。

 日本の鉄道は井上勝がゼロから推進したと言っても過言ではない。そのためかその後長く禍根を残した狭軌の問題についても、井上勝に責任を求める声が多い。

 レール幅を最初に狭軌(1067㎜)を採用したが、その後輸送量の増加とスピードの加速化から1435㎜の標準軌へ変更しようとするも難儀したため、当初の判断に批判をする向きもあるが、これはないものねだりであろう。当時は狭軌が世界的な主流で、その後各国で同じような問題が生じている。予算の関係や、外国に対して経済的にも人間の「サイズ」的にも西欧より小さい当時の日本で標準軌を選択したら、全国の鉄道網は益々遅れたと想像できる。

 

 

*東京駅丸の内広場で今日も見守る「鉄道の父」井上勝(NIKKEIリスニング)

 

 井上勝が英国に留学した当時、長州藩は日本一過激な壌夷を主張する藩。実際に外国艦船に砲撃を与える一方、洋行して外国を知る願望を抱く藩士もいた。彼らの先輩で師にあたる吉田松陰は洋行を企てて斬首となったが、「長州ファイブ」は藩の協力もあって密航に成功する。そのなかで井上勝は鉄道模型を見た時からその魅力に取り憑かれ、「クロカネ」を全国に敷設することが、各藩に分断された日本の統治問題を打破すると信じた。

 命がけで渡英した5人だが、わずか半年で井上馨と伊藤博文は帰国する。井上と伊藤の2人は、世界がいかに進んでいるかを説得して藩論を転換しようとするが、井上馨は実際に襲撃されて瀕死の重傷を受ける。それでも長州藩は、2人の尽力により攘夷から倒幕へと藩論を大転換し、「回天」を果たした。

 

 司馬遼太郎はこの時帰国した2人は政治家に、英国に残った3人は官僚となったことを指摘し、政治家と官僚の差がそこにあると論評した。確かにその通りだが、政治家と官僚との間に本来上下の差はない。井上勝は頑固者で時に政治家の伊藤博文を困らせるほど。彼がいなかったら日本の鉄道風景は全く違ったものになっただろう。

 山尾庸三は工部卿(大臣)になるとともに教育にも尽力し、特に障碍者教育に熱心に取り組んだ最先端の「政治家」でもあった。また途中帰国した遠藤謹助は大蔵省に奉職し、造幣局長となると大阪の「桜の通り抜け」を市民に開放して名も残している。官僚となった3人も、それぞれの情熱をその分野に尽くして、周布政之助が語った「人間の器械になること」を、周布のいない新しい時代において全うした。

 

 

 *井上勝は自らの墓所に、品川駅近くの東海道本線と山手線に挟まれた場所を選びました(ウィキペディア)

 

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