小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

14 天地明察(渋川春海) 冲方 丁 (2009)

【あらすじ】

 安井算哲は碁打衆と呼ばれ、大名や将軍家を柏手に碁を打つ名門の一家に生まれた。しかし二代目でありながら、兄安井算知に気を遣って渋川春海という別称を名乗る。名門本因坊家の若き俊英、道策に勝負を持ちかけられても、逃げ回るような体たらく。当時の碁打ちの役割は、選ばれし家系の者たちが将軍様の前で、事前に決められた棋譜を並べるもので、真剣勝負を求める春海には満足できなかった。

 

 春海の頭の中は、そんな碁よりも算術が占めていた。ある日絵馬に問題を記し奉納するという算額奉納を見に出かけた先で、ほんの一寸の間に自分が頭を悩ませていた問題を解いてしまった天才とすれ違う。その男、関孝和を知ったことから、晴海は算術への傾倒が加速化する。

 

 春海は算術の才覚を認められ、全国各地を巡って星の緯度経度を観測する測地隊へ参加する。同行する中には春海よりもはるかに年上の2人、建部伝内と伊藤重孝がいた。春海はこの2人からたくさんのことを学び、天測の知識を受け継いでいく。対して春海の算術に賭ける情熱とオ能を見て、年上の2人の老人は「ぜひ弟子入りしたい」と言い出す。

 

 その道中、当時日本で使われていた「宣明暦」が制定から800年を経て、日にズレが生じているという事実を知る。改暦は本来朝廷の役割だが、朝廷にその能力はない。武断政治からの転換を目指す為政者、保科正之は泰平の世の象徴として、春海の手で「改暦」するよう命じる。

 

 自分なりに辛苦して暦を作り上げた春海は、他の暦と「日蝕」の予想競争を行い、自らの暦の優秀性を天下に示そうとした。そして1回、2回と春海は見事に「蝕」の予想を的中させるも、最後に春海は予測を外してしまう。絶対の自信があった暦にどんな不備があったのか。抜けられない漆黒の闇に中に入り込み、春海は気力さえ失ってしまう。

 

 そんな春海に「解答さん」と呼ばれた関孝和から春海に指名で問題が出される。しかしその問題は、以前春海が作った回答不能を意味する「誤問」だった。この時期になぜ関孝和は春海にこの問題を出したのか。その意図を知った時、春海は自らの暦の欠点を悟った。関孝和からは罵言雑言の挙句に、暦を作るには数理と天測の両面で秀でた春海でなければ成しえないと励まされた。

 

  *渋川春海(ウィキペディア)

 

 春海は関孝和からの激励を受け、一皮むけたように改暦に取り組む。それは自分だけの問題ではなく、春海のオ能を見込んだ保科正之の、その師匠でもある神道家で天文家の山崎闇斎の、そして天測を1から教えてもらった建部伝内と伊藤重孝らの思いが託されたものだった。時には命がけで禁制の書物を、保科正之の思いを継いだ水戸光圀に取り寄せてもらい、暦の精度を高めていく。そしてようやく完成した暦は、関孝和から大和暦と名付けられる。

 

 しかし当時は改暦の権限を握っていたのは朝廷だった。幕府の意向による暦が、朝廷の固い扉を開けることができるのか。春海は改暦のためには名よりも実を求め、二重三重の策を練っていた。

 

 

 

【感想】

 中国は元の時代の1381年、ヨーロッパや中東を侵略する途上で知識を吸収し、太陽の軌道をもとにして、格段の精度を誇る大統暦が採用された。1582年、ヨーロッパではおよそ1,600年振りにユリウス暦(英語読みでジュリアス・シーザ一)からグレゴリオ暦に改暦が行われていた。

 太陽や月の運行を計る天測の技術と労力、その軌道を計算する高度な数学技術が必要な暦の精度は、その国の文明ひいては「国力」を映す鏡でもある。それは大統暦もグレゴリオ暦も、1年を365.2425日と計算していることで想像できる。ちなみに紀元前に制定されたユリウス暦も、1年を365.24日として、少数第2位まで一致する精度を誇るが、128年で1日のズしが生じ、1280年で10日のズレに広まるため、1,600年振りに改暦が必要となったという。これだけでも、古代のヨーロッパが暦(キリストの誕生日など、宗教上の儀式を行なうため)にこだわり、その能力を常に磨いていたことがわかる。

 

  

 *渋川春海(安井算哲)のライバルで、史上最強の棋士と呼ばれる本因坊道策(ウィキペディア)

 

 対して日本は長年、月の満ち欠けによる太陰暦を元とする暦が使われていた。朝廷が暦を決定する権限があるが、全国で統一するものはなく各地でバラバラで、また太陽暦と比べると1年間で約11日の誤差が生じる。織田信長は太陽暦を元にした三島暦に変更しようと、本能寺の変の直前まで朝廷に圧力をかけていた。

  「天を相手に真剣勝負を見せよ」と渋川春海に申し渡す保科正之。対する春海の出した結果ほど「天地明察」のタイトルに相応しいものはない。主人公の渋川春海だけでなく、和算を完成させた春海もかなわないと認める「解答さん」関孝和、史上最強の棋士と呼ばれる本因坊道策らとの対決は、お互いにその存在を認め会って自らを高めていくことがよくわかる。そんな中で腰が定まらない春海が、関孝和の「檄」によって、物事に立ち向かう姿勢が変わってゆく。元々は棋士 (日本史を学んだ時は、なぜ棋士が暦を作るのか理解できなかった)。目的のため冷徹な布石を敷いて遂行しようとする「策略家」に変貌していくところは、本作品の白眉。

 

 そしてヒロインの「えん」。勝気でお転婆だが愛嬌もあって、春海を絶妙に支えていく。春海も人格が変貌した勢いで「えん」と添い遂げ、小説では最後まで春海と生き、そして亡くなったとされているが、本作品の悼尾に相応しいエピソードになっている。

 

*映画では岡田准一と宮崎あおいが演じました。何ともお似合いに見え、私生活でもそうなったのも、むべなるかな(BSプレミアム)

 

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13 光琳ひと紋様 高任 和夫(2012)

   *楽天Booksより



【あらすじ】

 近江浅井家家臣の流れを汲み、京都の呉服商「雁金屋」の次男として生また市之丞 (後の尾形光琳)は、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだ。また当時デザインの先端を行った家業の呉服を幼少期から親しむことで、弟の権平と共に美術眼が養われる。祖母が本阿弥光悦の姉にあたる関係で家業の商売に繁栄をもたらし、その芸術的センスも受け継がれていた。

 

 しかし市之丞は真面目に絵を学ぼうとしないし、商売の才もない兄藤三郎に代わって後を継ぐ意志もない。親も諦めて商売は藤三郎に後を継がせ、商売以外の財産を権平とともに相続した市之丞は、遊興三昧の日々を送る。対して真面目な弟の権平は浪費はせずに書や参禅を好み、野々村仁清の影響を受け陶芸に打ち込み、京洛の北西(乾)の方角に窯を設けたことから「尾形乾山」と名乗る。

 

 市之丞は女遊びで子を孕ませ追いかけられるも、身を固める気持ちはさらさらなく、財産と使い果たすと、借金をしては遊びを繰り返す。しかし長兄藤三郎が継いだ雁金屋は、大名貸しの多くが貸し倒れ遂に廃業となり、藤三郎は江戸に逃げたとの噂が届いた。享楽な生活の中で、気が向いたら絵を描いては小銭を稼ぐ生活をしていた市之丞だが、収入の道が断たれて真剣に絵と向き合わざる負えなくなる。

 

 光琳と改名した市之丞は、公家とのつながりから「法橋」という、絵師に与えられる位を得ると、昔から好きだった伊勢物語を題材にして燕千花(かきつばた)を題材とした絵を構想する。その構想は金箔を下地に群青と緑の2色のみで描き切るものだが、金箔に対して2色では弱いため、弟乾山のアドバイスで陶芸に使われる岩絵具を用いて、金箔に負けない存在感の燕子花を描いた屏風が完成する。

 

  ちょうどその頃光琳を知った、商人であり役人でもある中村内蔵助がその絵を見て息をのむ。勘定奉行荻原重秀の元で貨幣の吹き替えをして景気がいい内蔵助は、生涯光琳の支援者となっていく。内蔵助が江戸に戻ると光琳も後を追いかけるが、大名に仕えるも小禄でかつ宮仕えは光琳に合わず、5年程で京都に戻る羽目となる。そして弟が作った焼き物に絵付けをするなど、気ままな創作活動をしていた。

 

 

 *紅白梅図屏風。何とも不思議な構図ですが、そのバランスに次第に取り込まれます(MOA美術館)

 

  しばらくすると荻原重秀が失脚したとの噂が流れる。配下の中村内蔵助は、重秀が政道を私にしない性格を知っていたので安閑としていたが、引き継いだ新井目石が執拗に重秀を失脚させようとし、その手は内蔵助にも及ぼうとしていた。財産没収を覚悟した内蔵助は、光琳に菅原道真が愛した「梅」を題材にした作品を製作するよう求める。光琳は試行錯誤の上、老木に咲く紅白の梅が川の流れによって咲かれてしまう運命を、自分の内蔵助を重ねた「紅白梅図屏風」を完成させる。

 

 その絵の意を知った内蔵助は、満足して絵を光琳の元に残し、取り調べが待っている江戸に向かうため光琳と別れを告げる。それは「元禄の世」の終わりとも重なっていた。

 

 

 

【感想】

 戦乱によって破壊尽くされた戦国の世が終わり、豪壮な安土桃山文化が花開いた京洛。茶道は堺から発祥したが、絵画は戦乱の中かろうじて京で命脈を保ち、狩野派を中心に息を吹き返して隆盛を迎える。その後狩野派は徳川の世となり活躍の舞台を江戸に移すが、元禄時代は文化の先端はまだ京にあった。そして江戸初期には、書家、陶芸、漆芸、出版、茶の湯、刀剣などマルチに精通した本阿弥光悦が芸術村(光悦村)を築き、「風神雷神図」で高名な俵屋宗達を初め、数々の文化人を集った。

  その後に京で最先端だった「デザイナー」を有する呉服商に生まれた尾形光琳。伊勢物語や源氏物語など、王朝文化を題材にした画作を行った光琳だが、その私生活は破綻していた。ところがそんな人生が様々な事情で収斂されていき、そこから絞り出されて「傑作」が生みだされる。

 

*「燕子花図屏風」から発展させたと思われる八橋図屏風(ウィキペディア)

 

 本作品では光琳が「開眼」したとされる初期の傑作「燕子花図屏風」と、晩年の創作活動の集大成とも言える「紅白梅図屏風」の創作を描いているが、個人的には伊勢物語をモチーフとした「燕千花」から発展したと感じる「八橋図」と、その創作を見事に立体化した「八橋蒔絵螺銅硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)」に心惹かれる。特に「八橋蒔絵螺銅硯箱」の、屏風を立体化したその発想は、自由奔放な性格でなければ生み出せない作品。それは光琳が影響を受けたとされる本阿弥光悦の「舟橋蒔絵硯箱」の影響もあったのだろうか。

  そんな光琳も、俵屋宗達が描いた「風神雷神」を参考にして勉強し、自分なりの「たらしこみ」の技法を使い、また「光琳文様」と呼ばれる柔らかな線で大胆な輪郭を描き、その中に模様を描く手法も創り独特の世界観を作り上げた。乾山は冷徹に宗達と光琳の「風神雷神」の違いを述べているが、その違いは果たして感覚によるものか、それとも人生によるものか。

 

  

 *「八橋図屏風」を立体化して造型する発想はどこから来たのか。光琳の「天才性」が生み出した「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(ウィキペディア)

 

 作者高任和夫は、江戸の経済政策を捉えた作品を数多く上梓して、その中で荻原重秀を描いたものもある。積極経済から新井白石の手による緊縮経済に移るころにも重なり、元禄の世の終焉を、尾形光琳という象徴をもって描いた。

 

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12 等伯(長谷川等伯) 安部 龍太郎(2012)

【あらすじ】

 能登国七尾で、畠山氏の家臣奥村宗道の子として生まれた信春(後の長谷川等伯)は、仏画を描く長谷川宗清の娘静子の婿となり、近隣では評判を得ていた。心中は、京で評判の狩野永徳と比肩するような絵師になりたいと願っていたが、養子の手前遠慮していた。

 

 国主を追われた畠山家の再興に奔走していた兄武之丞は、弟信春に危険な使いを命じるが、代わりに養父母が命を落とす。妻と子は残されたが、親戚からは厄介者扱いされて、能登の故郷を追い出された。親子3人でようやく京に辿り着いて、絵屋として生活を支えるも、延暦寺焼討ちで若い僧侶を守るために軍勢に立ち向ってしまい、妻子とはぐれてしまう。その後妻子と再会するが、妻に散々苦労をかけたあげくに労咳で先立たれる。

 

 潜伏期間中、信春の比叡山での活躍を知った高僧から、死の前に肖像を書くように頼まれる。その出来映えが評判を呼び、絵師としての地位を固める。そこで前関白近衛前久との縁ができ、狩野永徳の父松栄や千利休、そして三条家に嫁いだ畠山家出身の夕姫との知遇も得て、畠山家再興を目指す兄武之丞とも再会を果たす。兄は畠山家再興を優先して信春を都合良く使うため、信春は縁を切りたいが、夕姫の頼みもありその決断ができない。

 

 信長が本能寺の変で亡くなることで信春は晴れて表に出て、洛中でその名は高まっていった。そんな時に松栄の子狩野永徳と出会い、信春の子久蔵を弟子入りさせる。しかし永徳は狭量であり高慢であった。信春の絵が評判を呼び、天下人の秀吉や朝廷からも声をかけられると、悉く邪魔をする。一旦弟子入りした久蔵を呼び戻す過程で、完全に2人の仲は決裂し、その仲を修復できないまま永徳は先立つ。

 

 交誼を通じていた千利休が秀吉の不興を買って死罪となり、信春にもその手は延びる。一方畠山家再興を目指す兄武之丞から、夕姫を通じて朝廷の仕事を受ける代わりに、高額の金を要求される。狩野派に対抗するには朝廷の仕事が必要だった信春はお金を差し出すも、朝廷から声がかかることはなかった。

 

 千利休との繋がりを利用して畠山家再興を目指した兄武之丞は、利休の死によって情勢が暗転し、死罪となった。そして武之丞が欺していたと思っていた夕姫も、実は自分の享楽のためにお金を散財していたことを、出家した旧主畠山修理太夫から聞かされる。また才能を発揮する息子民蔵は、狩野派の謀略と思われる細工が元で命を落とす。等伯と名を変えた信春は、息子の名誉回復のために秀吉に直訴するが、受け入れない秀吉に、禁句とされる利休の名を出す。

 

 近衛前久の取りなしで手討ちは免れたが、秀吉を納得させる一世一代の傑作を編み出すことを求められた。等伯は幼少期を思い出しながら、知らぬ間に没我の状態となり、記憶のないまま3日間筆をとり続けて気絶してしまう。そして画をお披露目する約束の日がやって来た。

 

 

*松林図屏風。長い間鑑賞していると、魂が吸い取られるような錯覚に陥ります。


【感想】

 長谷川等伯は、狩野永徳率いる弟子300人を擁する狩野派に対抗する、当時唯一の存在だった。永徳死後は等伯が第一人者となり一旦は隆盛を極め、1610年、徳川家康の要請で江戸に下向するも、上京後2日に72歳で病死する。父を凌ぐと言われた民蔵が早世したためか、その後等伯を超える人物が長谷川派からは輩出せず、対して狩野派は後継の狩野探幽が盛り返し、その後は狩野派の隆盛が続くことになる。

 長谷川等伯は智積院の楓図や旧祥雲寺障壁画、日蓮や利休など(武田信玄の肖像画を描いた説もある)の傑作を編み出しているが、その中でも「松林図屏風」は突出している。本作品で描かれている全てのベクトルは、最終章「松林図」に集約されている。

 主家再興のためならば他の犠牲を厭わない兄武之丞。その兄の奸計に巻き込まれて命を落とした養父母と、故郷を追われ薄幸の内に世を去った妻静子。女性としての弱みを見せながらも策略たくましい夕姫。高みを目指す途上で非業の死を遂げる信長、利休と狩野永徳。そして才能は自分を凌ぐと認め、将来を託そうとしたが早世してしまった子の民蔵。

 これら等伯を巡る「因果」が全て体内で交じり合い、作品に向き合う内に濾過されていく。真っ暗な中でも「脳裡に像をむすんだ光景を心眼でとらえながら、闇の中でひたすら筆は走らせ」(文庫版下巻380頁)て無意識のうちに完成した作品は、自らも驚く程、「1枚1枚に輝くばかりの命が宿っている。山水図を描こうとして虚空界にまで突き抜けた」傑作になった。

 そしてその作品は、秀吉を始め戦国乱世を、命を削って生きてきた「漢」の人生を思い起こさせて、そして「業」の深さを思い知る作品であった。

 

 私は「松林図」は知っていたが現物を観たことがなく、本作品を読んだあと無性に鑑賞したくなって、公開に合わせて仙台から東京国立博物館まで足を運んだ。読むと観たくなり、観るとまた読みたくなる。「松林図」はそんな魔力を有しており、「等伯」はその魔力に憑かれた安部龍太郎が、渾身の力を出し切って著わした傑作である。2012年直木賞受賞。

 

*傑作の中でも特にお気に入りの智積院襖絵(上が「楓図」,下が「松に秋草図」)

 

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