近代科学技術が人類にもたらしたものを良かった面と悪かった面の両方から採点すれば、結果はどのようになるのだろうか。
例えば、原子爆弾で殺された人にとってはこの高度の科学技術は厄災以外の何ものでもない。またそれまではまずまず近代技術の恩恵を受けて生活していると感じていても、ある日突然、原子力発電所の爆発崩壊の結果住み慣れた我が家から追い出されてしまえば、この文明の技術とは一体何なのか考え込まざるをえないだろう。あるいは、科学技術の成果をほとんど受けていない土地に住んでいながら、先進諸国の活動の結果としての気象異変による旱魃や大洪水で土地を追われた人にとってはこの技術文明は天から降ってきた災害以外の何ものでもないだろう。
このように、技術がもたらした功罪は一般的に採点することができないと思われるが、地球を汚した、ということにおいては明々白々のマイナス点であろう。もちろんこの結果は単に技術それ自体がもたらしただけのものではなく、それを利用してきた側の問題で引き起こされた結果である。
近代の西洋式科学技術は何に使われてきたのだろうか。あるいはその目的はなんだったのか。大きくくくると、まず第1に「運ぶ・動かす」ために使われてきた。そのほか、「建てる・掘る」などの土木工学(ローマ式文明の基本)にも大きな出番があり、「電気を作る」場面も技術利用の5本の指に入るだろう。そして、「殺す・壊す」の分野も大きい。
これらの目的を達成するための手段は、大きく分けると「燃やす」と「化合する」の二つであろう。「化合する」の中には原子核を「分裂させる」という手段や遺伝子を「組み替える」という手段をここでは含めている。この二つが西洋式近代科学技術の特徴である。
この手段を200年主に先進諸国の住人が大々的に展開してきたことにより、特に戦後のこの60年で急激に大幅にその活動を広げてきたことにより地球は汚れきってしまった。地球全体を広大なゴミ溜め場としてきたことによる。川の水は強力な浄化設備を通さないと飲めなくなり、湖沼は悪臭を放つたまり水となり、東京湾の底はヘドロで覆われ、土壌は化学肥料と農薬で劣化し、大気は危険な不純物であふれている。太平洋のハワイ諸島の西にはプラスティックのサルガッソ(Sargasso)と呼ばれている一大区域があるという。陸から海に流れ出したプラスティックの無数の破片が集まっているという。最近、カリフォルニア大サンディエゴ(UC San Diego)の調査では太平洋で調査研究に捕獲した魚の胃袋から10匹に1匹の割合でこのプラスティックの破片が見つかったという。
地球を公共のゴミ捨て場としてきた結果は二つの大問題を招いている。ひとつは言うまでもなく、化石燃料の燃焼の結果大気に放出されたCO2により地球全体が目に見えないビニールハウスで覆われたがごとくになったことにある。もうひとつは、大気と大地(地下水を含む)の中に生物にとって有害な物質、目に見えない危険粒子が満ち溢れるようになったところにある。
地球自体による浄化機能は多分もう限界を超えており、それだけの質と量をたかだかこの半世紀の間に、長い地球の時間から見れば一瞬の瞬き(まばたき)に過ぎない短い間に起こしてしまうほどの力を近代科学技術は持っていたことになる。「燃やす」と「化合する」を2大特徴とする科学技術が地球上の生命体にとって「死のお使い」となってしまったのだろうか。あるいは科学技術にだけその責任を背負わせるのは妥当ではなく、その技術を「もっと力を!」と「もっとお金を!」という欲望に利用してきたものたちに有罪判決を出すべきか。あるいは、考えもなしに、科学技術がもたらす見た目「快適」な生活に浸って、今日は昨日の続き、明日は今日の続きと鼻歌混じりに暮らしてきたわれわれ一般民衆の姿勢こそ罪一等に値するのであろうか。
(11.07.06.篠原泰正)