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新聞ジャーナリズムの再確立と販売正常化の即時達成が必要~特殊指定であらためて私見

 新聞の販売をめぐる「特殊指定」見直し問題で私見を整理してみた。結論としては、「特殊指定改廃に反対だが、そのためには公共財としての新聞ジャーナリズムの再確立と、販売正常化の即時達成が不可欠」ということになる。「販売正常化」とは強引な勧誘やルール違反の高額景品、無代紙などの是正だけではない。そうした問題も含めて、根源には新聞社(発行本社)の「部数第一主義」があり、そこから生まれる「押し紙」がある。そこから業界全体が脱却できるのかどうか、ルールに従った販売を確立できるのかどうかだ。同時に、新聞は商品としては言論、情報を扱う公共財のはずだが、その公共性が揺らいでいる。販売正常化を達成し、読者の負託に応えうる紙面のジャーナリズムが実現できるかどうかが、特殊指定問題の本質だと考えている。

 新聞社の収入は読者からの購読料と、広告費が2本柱となっている。広告費の単価は発行部数によって左右されるから、新聞社にとっては発行部数は最大の関心事となる。
 一方、日本では多くの場合、新聞社が系列の販売店を組織化している。販売店には、折り込み広告という独自の収入源があり、これも自店がどれだけの部数を扱っているかで異なってくる。従って、部数拡大は発行本社、販売店の共通の利益となっている。
 ここで「押し紙」の問題が出てくる。「押し紙」とは、厳密に言えば発行本社が販売店に対し、注文以上に押し付ける部数のことを言う。特殊指定の第3項で禁止されている。販売の現場では、定義はもう少し緩やかなようで、発行本社と販売店の間に「あうん」のような呼吸があることもあるようだ。また、発行本社からの押し付けではないが、やはり実売より多く販売店が注文する「積み紙」もある。
 いずれにせよ、見せかけであっても発行部数、扱い部数が増えれば発行本社、販売店とも収入増につながる。しかし、広告主に対しては詐欺的な行為だ。




 さて、公取委が昨年11月、新聞を含む特殊指定の見直しを表明して以降、新聞各紙は「戸別配達制度の崩壊を招く」として、改廃に反対のキャンペーンを展開している。そこでは話の前提として、販売店同士の間で安売り合戦が始まる、ということになっているが、わたしは販売店以上に、発行本社が安売り合戦に乗り出す可能性の方が高いのではないかとみている。そこに、ある種の問題のすり替えがあるのではないかと思う。本当は発行本社の問題でもあるのに、販売店だけの問題にしてしまっている、というすり替えだ。

 周知の通り、新聞は全体のパイは減少傾向に転じている。部数を伸ばそうとすれば、今後は他紙のシェアを食っていくしかない。公取委は今回は「著作物再販制度は維持する」と表明しているが、それでも仮に特殊指定が外れれば、別に新聞の定価は全国一律である必要はなくなる。販売面ではよく「大手紙VS地方紙」という対決構図が描かれるが、実は「大手紙VS大手紙」の方がより現実的な構図かもしれない。大手紙の一角が首都圏だけ、近畿圏だけで値下げに踏み切れば、安売りを仕掛けられた側も対抗上、値下げせざるを得ない。経営体力の勝負となれば、早晩、決着は着く。負けた新聞社は倒産だ。
 紙面の質や言論の内容による競争・淘汰ではなく、安売りによる競争・淘汰が起きかねないことに、わたしは危ぐを抱いている。
 しかし、新聞社はどこもそんなことは口にしない。あくまでも、新聞の競争とは紙面の競争だと自らが言い続けてきたからだ。だから、特殊指定の見直しをめぐっても、戸別配達制度が焦点になってしまう。公取委とも話がかみ合わない。
 なぜ新聞各社は「特殊指定維持」を掲げているのか。ホンネ通りに、価格競争によるシェア分捕り合戦を表明しないのか。ひと言で言えば、「時期尚早」ということだとわたしは考えている。まだ自社が確実に勝てる、生き残れるというシミュレーションが完成していない、ということだと思う。しかし、その裏で内部留保は着々と溜め込んでいる。このままではいずれ、大々的な価格競争(生きるか死ぬかの乱売合戦と言ってもいい)は間違いなく来ると、わたしは予測している。

 もともと新聞は著作物の一つとして著作物再販制度の対象となり、独禁法の適用除外とされている。その意味では、まさに特別の扱いを受けている。新聞を商品としてみた場合、安定発行が最優先の価値であり、利益率が悪くても再販制度と特殊指定によって安定的な収益確保が可能になるよう〝保護〟されてきた。そうしたことがなぜ認められてきたかと言えば、新聞が言論商品であり、高い公共性を持つと(少なくとも独禁法の運用の上からは)認知されてきたからだ。新聞社は本来的には、利益最優先のもうけ主義に走ってはいけない存在のはずだ。また、〝保護〟を受けているからといって、放漫経営が許されるはずもない。
 公取委が今回、特殊指定の見直しを言い出したこと(潜在的に著作物再販制度も見直したいことも)は、実は新聞の公共性とはまったく関係がない観点からだろうとわたしは思っているが、それはさておき、今、その新聞の公共性は揺らいでいる。
 販売面では、「押し紙」に象徴される部数第一主義の弊害がなかなか改まらない。わたしも、手元に「押し紙」その他の具体的データを持ち合わせているわけではない。しかし、「販売現場に問題はない」というデータも証言もない。実態の認識が新聞業界の中でも共有されていないこと自体が問題だろう。
 紙面の面でも公共性は揺らいでいる。今回の「戸別配達制度」キャンペーンが実はその最たる例かもしれない。キャンペーンを張るにしても、公取委の言い分は最低限、掲載する必要があるのではないか。あるいは公取委はHP上に反論を掲載している。それへの見解も、新聞協会なりでまとめ、掲載していかなければ読者に対して無責任だ。
 新聞ジャーナリズムのより本質的な問題としては、記者クラブ問題をはじめとする権力との間合い、そこから来る〝発表報道〟〝落としどころ報道〟の問題がある。

 理想論であること(現実的には実現できていないという意味で)を承知の上で、わたしは、新聞は多様な言論を社会に提供する公共財として、まだ役割が残っていると考える。その役割を社会に認知してもらうには、読者、市民の信頼に応えうる新聞ジャーナリズムの再確立が何よりも必要だ。そして販売面では、「押し紙」など部数第一主義の弊害をあらため、ルールにのっとった販売を即刻、実現させることが必要だ。ルール違反の販売は、ルール自体を形骸化させ、新聞の公共性を自ら否定することになる。

 以前のエントリーでは、公取委の姿勢について批判をした。そのこと自体の考えは変わっていないのだが、新聞の特殊指定を考える上では、関連させるべきではないと考えるようになってきた。公取委が独禁法の例外をなくそうとするのは、いわば習性のようなもので、それが彼らの職務でもあるからである。新聞の特殊指定問題で言えば、問題は新聞業界の方である。公取委の問題提起に対して、きちんとした論理的で合理的な反論ができるかどうかだ。

by news-worker | 2006-05-07 12:01 | メディア  

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