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学校を廃棄したその後、中間?まとめ

 かなり多岐にわたる話に踏み込んで書き散らかしたままなので、発端の記事に戻って整理してみる。

本ブログの関連記事の整理

 まず、最初に問題にしたのは次の発言だった。

 学校をなくすっていうと、「どこで漢字を覚えるのよ、九九を覚えるのよ、もっと現実的なことを言ってよ」とか言われるんだけど、どっちが本当の意味で現実的なのかと考える。このまま学校って装置を延命して奉って行くことがどこまで現実的なんだ。(PART5の真ん中へん)
http://www.allneetnippon.jp/2007/09/2_12.html

 構図を単純化すれば、次のようになる。

  • α:「九九や漢字を覚えること」を優先して、現にある学校の暴力性について考えていない学校肯定論
  • β:現にある学校の暴力性をなくすことを優先して、「九九や漢字を覚えること」について考えていない学校廃棄論

 世間は圧倒的にαに近いだろうから、βの立場から、まずは「同じくらいには現実的」という意味で引用部のようなことが言われるのは最初から認める。ただし、この段階では「同じくらいに」という程度。αは論外なのだけど、βはその論外と同じ程度のところまできているだけ。αの世界では、α論者が学校の暴力について考えようと考えまいと、子どもたちは学校の暴力の中を生きなければならないのと同じように、βの世界では、β論者が知識の伝達について考えようと考えまいと、子どもたちは何らかの学習を経たり経なかったりしながら社会に出て行くことになる*1。

 αが「学校の暴力性」について考えてないのに、対案であるβが「漢字や九九について考えなければならない」といわれるのはおかしいだろう。βが現状への対案であるがゆえに過大な説明責任を負わせること(「対案を出せ」論法)は拒否しつつも、しかし、「βの世界で子どもたちがどのように生きて行くのか」はβ論者が本当に問題を問題として考える気があるなら、考えざるをえない問題のはずだ。「対案を出せ」論法は拒否するけれども、実際に生きていかねばならないならば、どのように生きていくことになるのかを具体的に考えなければならず、「対案拒否」論法もまた拒否されるしかない。>「「対案を出せ」論法について」

常野氏の最新見解の検討

 常野さんから出てきている記事は、「「対案についての思考」を禁止します」である。しかし、対案を出すことを拒否しようとしまいと、人は何らかの現実を生きるのであり、結果的に何らかの対案が現実化するのである。違いは、それについて予想したり、対処したり、準備したり、ということを自覚的にやる気があるかどうか、という意味である。対案を考えないとは、対案を現実にしないのではなく、現実になるその対案に対して何も責任を取らない、ということである(これは言うまでもなく、「対案を出せ」論法が、既にある現実に対して何も責任を取らない、というのと同じである)。その意味で、「対案拒否論法」は徹底的に無責任、見た目のラディカルさとは裏腹に「対案を出せ」論法と代わるところはない。──ついでに言えば、こうした態度は言語と存在(するもの)を混同することから来る錯覚である*2。>「言語/存在における否定形の問題」

 当該記事における常野さんの問題は、「対案について思考しない」ことの問題である。思考の出発点の問題ではない。この点、現段階でもまだ誤解されている。当該記事のコメント欄で、ぽむ氏の質問に答えて、常野氏は次のように述べている(通しで4つめのコメント)。長くなるが、コメントの全体を引用する。

学校が必要ではないということが示されないままに学校をなくすべきだと主張するのはおかしいって話? けど、僕は学校をなくすべきということから出発して、だからその「必要性」とやらが仮に万が一あるんだとしたらそれをなくせと言ってるんだよ。


これは形式としてはまったく過激でも荒唐無稽でもなくて、人間の歴史というのはそういうもんでしょ? 奴隷制だって、身分制だって、人種隔離政策だって、「必要」だったんだよ。そういうものに対して異議を唱えた人たちというのは、「はたしてこれがなくても世の中回っていくのでありましょうか?」と自問自答して、「ま、なんとかなりそうだね」と思ったから反逆者となったのではない。そうじゃなくて、まずそういうものがどうしてもイヤだという気持ちがあって、だからじゃあそれをなくそう、社会を変えよう、となったんじゃないの? それで、たとえばアメリカの黒人奴隷制は実際になくなったわけだ。それは今の地点から見れば必然的なことだけど、でもそれは「必要」に刃向う自由な人間によって生み出されたのだと思う。そしてもう一つ重要なことは、その際に「それまでの社会 マイナス 奴隷制」が生み出されたわけではなくて、社会_全体_がそれまでのあり方とは全然違うものに変質したということ。ま、奴隷制時代にくらべて今の方がマシかという問題もあるわけだけど、それは未完の革命というまた別の問題だ。


こういう歴史観に立つ場合、「食わないということを出発点にする」っていうのも、極めて現実主義的なものだよ。食わないと生きていけないっていう「必要性」をなくせばいいわけだから。それは荒唐無稽に思えるかもしれない。けど、奴隷制が強固にあった時代には奴隷制廃止論も十分に「荒唐無稽」だったわけだ。


もちろん、何千年間経っても荒唐無稽であり続けていることというのもあって、たとえば人間は自力で空を飛べるようにはなってない。だから願えばなんでも思い通りになるという話ではないけど、学校が必要かどうかということを検討するよりも前に、なくすべきだということを出発点にしているということをもって妥当ではないっていうのはおかしいんじゃない?
 もちろん、学校信仰という特定の立場からだったらそれは否定されるだろうけど、一般的な形式としてそれがダメだとは言えないと思う。

 まずは、最初の1パラグラフだけを問題にすればいい。「学校が必要ではないということが示されないままに学校をなくすべきだと主張する」のは、別におかしくない。それを認めた上で、僕は「人間の根源的な受動性」というものを指摘し、それについて学校廃棄論はどう答えるんですか?と尋ねているわけだ。「根源的受動性など存在しない」でもいいし、「それは放置する」でもいいし、「わからない」でもいい。しかし、ここで常野氏は、「学校をなくすべきだを出発点にするのはおかしくない」と再度述べるのである。──ここで話がズレてしまっている。おかしいのは、出発点がどこか、ということではない。常野氏が出発点から動こうとしない、ということなのだ*3。引用部分を最後まで読み通して見ても、やはり出発点から未だ出発しないのである。

 その意味で、「学校が必要かどうかということを検討するよりも前に、なくすべきだということを出発点にしているということをもって妥当ではないっていうのはおかしいんじゃない?」という反論は、完全に虚空を撃っている。僕はそんな批判をするつもりがない。だからこそ、「この記事は「今はまだ」批判ではない」と僕は述べたのだ。しかし、「出発点」からいつまでも出発しないのであれば、これはいずれ批判になる。

 ある種の信念体系は、それは一つの信仰に過ぎない。こんなことは当たり前のことだ。違うのは、その信仰を持って現実に挑むのか(それは自らの信仰を「試す」、信仰内容を変更する可能性に開くということ)、離れたところで信仰を反復するだけなのか、ということだ。それは信仰という点でのみ同じなだけであって(この意味でなら、「人が考えること」は全部同じだ)、それ以外のところでは全然違うものだ。

*1:「それはもう知らない(=考えない)」という人からは、これ以上何か学ぶべきものは何も出てはこないだろうから、最初の問題提起以上のものは何も期待しない。

*2:こうした態度は、法律家や官僚にしばしば見られる態度であるが、つまり、ラディカルさが一周まわって同じものに帰着してしまっている、ということでもある。

*3:しかし、出発点、とは面白い言葉だね。それが出発点であるかどうかは、出発した後にしか確定しないのに、出発する予定や可能性の段階からある場所が出発点として指示される。出発点として指示されたところから出発しないとしても、それにも関わらずそこは出発点であり続けるのだ。これもまた、私たちに自己欺瞞を許可してしまう言葉となりうる。