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権力と教育

 よっしゃ!(@sis7のブログ)へのブクマコメントより。

# 2007年06月17日 id:toled たしかにパッと見は革命が起きたら即銃殺してOKのレベル。でもなんかヒネリがあるような気も。実は普段は無試験で全員「優」にしてるとか。どっちにせよ、「理解して」もらう必要はないような…。

 ヒネリというか、なんというか。「無試験で全員優」も考えたことはあるのだけど*1、少なくとも講義ではうまくいかないな。ゼミでは今でもそんな感じだけど、しかし、単位をめぐる脅しを使わないわけにはいかない。使い方を考えるしかない。まずは、教育と権力についての、(不十分ではあるけど)一般的な認識を明らかにする。単位クレクレダメ学生については、次の記事で。

権力について

 まず、権力について考えよう。

 A、B、二人の子どもが並んでお菓子を食べている。Aは体が大きく力が強く、いま一人Bはその逆である。Aがその気になれば、Bからお菓子を奪い取って独り占めすることができる。Aがそのようにするとは限らない。しかし、そのようにすることができる。Aは殴って奪おうとまでは思わないにせよ、たとえば「ちょっと足りないからお前のも少しよこせよ」とBに言ったとする。Bの側では、殴られて全部奪われる可能性を念頭に置いたとき、それよりはマシだ、ということでAの要求を呑むかもしれない。

 三つ指摘する。第一に、権力が作動するには、Bの側に予期があればいい。実際に暴力を行使するまでもなく、暴力を行使しうる条件さえあれば、そのことをBが知っていれば、権力は作動する。第二に、このことをAが知っている必要はない。Aは、たとえば殴って奪うことができることを思いつかず、ただ、分けるように言っているだけかもしれないが、それでも権力は作動しうる。第三に、このような非対称な権力関係は身体的な次元で既に生じているので、回避することができない*2。制度的に強化された権力を解体するだけでは、権力は解体しきれない。逆に、こうした身体的レベルにある権力構造が初期条件となって、何度でも制度的な権力が再構築されるのかもしれない*3。

 権力の問題は、権力の除去や解体では解決しない。それはイラクやアフガニスタンの状況を見れば一目瞭然である。権力が除去されたり解体されたりしたところには、より統制できない強大な権力が跋扈する危険性がある。権力のない世界は不可能である。ただ、私たちは「異なる」権力構造を求めることができるだけである。権力を取り除く前に、そこでバランスする権力をたくさん立ち上げるのである。そして、それから、権力を取り除くのである。権力の問題を解決(少なくとも、改善)するためには、権力の除去や解体ではなく、構築や付与が同時に必要なのである。

権力についての教育

 では、こうした構図の中で教育に出来ることは何か。権力が(できるだけ)作用しない場所で自由に遊ばせておくことも一つの方法だろう。自由を味わえば、自由を剥奪されるときに激しく抵抗するだろうから。しかし、自由と言えば聞こえはよいが、それがつまりは権力を行使される側から行使する側に回っただけのことであるならば(「無試験で無条件に優」という成績評価をするだけなら、そうなる)、これは権力への適応の反転した形態である。一方的に学生・生徒が権力を行使されるのが当たり前の社会においては、そうした反転にも一定の存在意義があるだろう。しかし、こうした路線から出てくる権力批判が、権力の「不在」を目指してしまいがちなことはおそらく偶然ではない。多分、それでは足りないのだろう、別の道が必要なのだろう、と僕は考える。

 権力作用は不可避であるから、結局は行使する/される権力に同時に自覚的になることが必要なのだろう。その意味で教師に出来ることは、権力行使をしないことではなく、権力行使をするときに、それが権力行使であると言及し、それがどのように作用するものであるのかを丁寧に説明することではないか。──僕が言ったとおりに勉強しなければ単位をもらえない。だから、勉強したいしたくないに関わらず、勉強せざるをえない。これは権力作用である。このように述べると、中には先生思いの(都合の)いい子もいて、「自分は面白いと思うから勉強している」と言ってくれる学生もいたりする。しかし、僕が述べたことが仮につまらないとしても、同じように勉強しなければ単位がもらえないのは同じである。つまり、僕は面白く話すこともそうしないこともできるが、君の方は勉強することもしないこともできるわけではない。だから、これはどうしようもなく権力作用である。……といった具合に。

 権力に適応することは、魚が水中に適応するのと同じくらい自然なことだから、こうした話をするだけで理解できるかといえば疑問がある。ただ、彼らが権力の存在に気づくきっかけを、そこらじゅうに撒いておくことくらいしかできないから、それをやっている。少なくとも、そのつもりで考えている。

*1:それに近いことをやったこともある。

*2:私的な感触だが、第一点は比較的よく指摘されるが、第二点・第三点はよく見過ごされているように思うが、第三点に関しては、フェミニズムだと何か言っているかもしれない。

*3:たとえば、そうした身体的レベルにある権力構造だけがあるような、原始的な社会では、安全を求める人たちがより強力な権力を社会的に構築していくだろう。