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想像力を断つことの不可能性

 sivadさんから再応答をいただいた*1。x0000000000さんの書かれた記事にも大筋で賛成するのだが、あえて別様に考えてみた。sivadさんの議論は、そもそも「想像力を断つことが可能である」という前提を必要とする。だから、そこで成功や失敗を言うことができることになる。しかし、想像力を断つことがそもそも不可能だ、ということを考えてみる。

「切断」というのは単に反発することではありません。それに対する「想像力を断つ」ことです。想像力の働かないところには倫理的態度は生まれない。そしてそこには功利的態度が残ります。例え社会的形式的な応答としての「言い訳」や「逆ギレ」があったとしても、そこに「想像力」が働いていなければ「重苦しさ」を伴う「倫理」は発生しないのです。私はその場合はやはり「失敗」であると思います。/もちろん、コレが確実に成功だ、失敗だと認定する方法はやはりありません。/しかし、「失敗の可能性」は存在すると思います。

 想像力を断つとは、断つ以前にはつながっている、ということであり、断つと同時に断つ以前はつながっていたことを知ることでもある。切断することがつながることと分かちがたくある。だから、私たちは実際には断ち切ることができておらず、むしろ、断ち切ったつもりでいることによって、この矛盾を乗り越えているのである。これが自己欺瞞と呼ばれるものであろう。しかし、存在しているものを突きつけられるとき、人はそれを知らずにいることはできない。それを忘れようとしても、忘れることはできない。とすれば、自己欺瞞とは、切断処理の装置であると同時に、切断処理の不可能性を証す装置でもあるのだ。

 たとえば、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の序(野矢茂樹訳、岩波文庫版)より*2。

 かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。(pp.9-10)

想像力を切断することは、想像可能なものと想像不可能なものの両方を想像する、ということになる。その意味で、最初から失敗の決まったふるまいなのである。それを無理やり乗り越えるために、自己欺瞞が要請される。それによって「切断」は、単なる反発以上のものになろうとする。しかし、自己欺瞞を剥ぎ取ってみれば、それは単なる反発でしかないことが何度でも明らかになる。

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)


 断ち切ることができていないから、つながっているその線を、私たちは自己欺瞞によって隠す。隠しても、そこにあるから、幾重にも隠そうとする。人はまず、見ないふりをすることによって、断ち切ろうとする。見てしまっても、それを言葉にしないことによって、その先を考えないことによって*3、断ち切ろうとする。次には、見たことや想像したことと違うことを言うことによって。あるいは、それを口にしないことによって。さらには、無関係の別のことを口にすることによって。これでもまだ終わらない。存在は、そこにある、のだから。隠すことは、常に、暴かれてしまう可能性の内にある。しかも、そもそもその隠そうとするふるまいが、そこに隠されるべき何かが存在することを証してしまう。だから、今度は、隠そうとしていること、そのものを隠そうとする。その究極が、そもそも隠そうとしている自己を消去してしまうことであろう。いや、自己を消去するというふるまいが、逆に、隠された何かの存在を示してしまう。どうにも、切断することは必ず失敗するし、呼びかけは失敗のしようがない*4、とやはり思うのだ。

 このように考えてくると、むしろ、想像力の切断可能性を主張すること自体が切断不可能性を隠蔽するように作用している、切断を通用させている、ということに思い至らざるを得ない。考えてみれば、切断可能性を述べることが意味を持ちうるのは、切断可能性を述べる人=sivad氏でも、それを聞く人=僕でもなく、第三者が切断する、という状況においてである。実際に切断しようとする人は、切断可能性について語ることさえできないのだ。切断可能性が「代弁」される限りにおいて、切断処理は力を発揮する。だから、私たちが注意すべきことの一つは、それを自分の口で言わせるように仕向けること、「代弁しないこと」であろうと思う。

*1:細かいところは、この注で指摘しておく。
「「感じる人」「感じない人」の判別不可能性をいうのならここでもそれを適用し、「仕方ないんだよ」ということの意味を認める必要があると思います」とあるが、これには賛成しない。「感じる人には無意味だ」という主張においては判別可能性は関係なく、「○○と述べることは無意味だ」という主張においては判別可能性が問題になりうる。どうして「ここでも適用」すべきなのか、僕にはその必要が理解できない。/「「完全に判別」することは出来なくとも、ある程度「判断」することが無意味だとは思いません」については、同意できないでもないのだが、しかし、「判別」「判断」とは、一体何をしていることなのか、僕にはよく分からない。

*2:ただし、『論考』そのものは、ここから「境界線は思考されたものの表現=言語に対して引かれる」とし、有意味/無意味な言語の分割へと進む。こうした方向性そのものの当否は、ここでは問わない。でも、『論考』面白い。

*3:しかし、その場合でも、「考えない」ためには、先に「考えておく」必要があるのである。

*4:無謬と言えるかどうかについては、謬、というのが具体的に何を意味するのかによる。個人的には、違和感のある表記である。