研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

優生学と財政学

米本・松原・ぬで島・市野川著『優生学と人間社会』(isbn:4061495119)をぱらりぱらりとめくってて、障害者団体から強い抗議を受けた渡部昇一氏のエッセイ「神聖な義務」(『週刊文春』1980年10月2日号)への言及を見つけた。

このエッセイで渡部氏は、血友病患者である子どもを二人もうけた作家、大西巨人氏について、「未然に(原文には傍点あり)避けうるものは避けるようにするのは、理性のある人間としての社会に対する神聖な義務である。現在では治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う」と述べた。この発言のもとになった『週刊新潮』(1980年9月18日号)の記事では、大西氏の血友病患者である息子に対して高額の医療費が公費負担で支払われており、また大西氏自身も生活保護受給者であることが報じられ、「納税者の負担によって支えられている福祉天国」は、このままでは「パンクする」と結ばれていた。この記事を取り上げて、渡部氏は大西氏が「神聖な義務」を怠っていると示唆したうえで、「自助的精神」の衰退が絶対必要な福祉水準さえも低下させるとした。

『優生学と人間社会』pp.222-223
ちなみに、「神聖な義務」とその後に書かれた渡部氏の弁明は、
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~gr018035/db/h003.htm
で読めるので、興味のある方は是非チェックしてほしい。

『優生学と人間社会』は続けてこのように書いている。

これまでみてきたように、少なくとも70年代前半までは、遺伝性疾患をもつ子供を生まないようにするのは「義務」である、といった発言は珍しくなく、また、遺伝性疾患の子供をもつことが医療・福祉コストを増大させるという指摘も、当たり前のように行われていた。しかし、70年代後半以降には、国家による政策的強制があるか否かにかかわらず、こうした考え方を正当化し普及させること自体に、障害者の尊厳と人権を損なう恐れがあるという認識が、浸透しはじめていた。渡部氏のエッセイはこうした動きに逆行するものであり、特に障害者やその支援者から強く反発された。また専門家からは遺伝学的に誤った認識に立脚しているとして批判された。

『優生学と人間社会』pp.223-224

「積極的優生」をどう考えるか、などと関連して様々な論点がありそうだが、私にとって興味深かったのは、渡部氏が優生思想と財政負担と直接に結び付けて議論していることだった。上記の引用文によると、渡部氏に限らず、70年代前半までは「遺伝性疾患の子供をもつことが医療・福祉コストを増大させるという指摘も、当たり前のように行われていた」らしい。

私の知っている限り、通常の経済学で教えられる財政理論では、こういう話はでてこない。ミクロでは最適課税論とか公共財の理論とか、マクロでは新古典派マクロとケインジアンの対立とかリカーディアンとノン・リカーディアンの対立とか、(狭義の)政治経済学では「政府の失敗」論とか公共選択論とか。優生思想なんて生々しい話はいっさいなく、一見そういうものから中立的であり、テクニカルである。

だけど、こういう理論に依拠して政策提言をしている研究者や官僚などの話を聞いたり質問したりしていると、理論や論文には現れない、ある種の人間観が顔を出すことがよくある。「能力のない人間」に対する人間観、「努力の足りない人間」に対する人間観、などなど。まぁ官僚の場合は、「私の選択ではなく国民の選択ですから」と逃げることもできるわけだが。

そして、官僚でも、研究者でも、頭はいいくせにそういう「人間観」は非常にナイーブだったりする。名指しはしないが、メディア露出度も高く、政府の政策決定にも影響力を持つ、ある有名な経済学者のあまりにナイーブな「人間観」にびっくりしたことがある。いわく「きちんとした教育を受けて、上手くいかない人なんてどれほどいるんですか?」質問をした人は、その経済学者が帰った後に憤激していた。

話を戻すと、財政ってのは、今も昔も優生思想的なもの、あるいはそこまでいわなくても、人々の抱く人間観や社会観と直結している領域なのだ。テクニカルな財政理論は必要だろうが、そういうこともきちんと考えられなければならない。残念ながら、多くの経済学者にはそういう素養がないように思われる。知的分業として割り切って考えていいのだろうか?ビミョーだ。

厚生経済学者に望みを託せばいいのだろうか。ついでに、公共経済学(財政理論とか政策コスト分析とか)と厚生経済学(社会的選択理論とか)ってそもそも隣接分野なはずなのに、なんだか断絶があるように感じられるのは社会学院生の素人考えなのだろうか。これを機にしっかり取り組んでみようかと思う。

左派財政学者はそこらへんはどう考えているのだろう。東大の宇野派(ちょっと違う気がするので訂正)財政学の伝統を引き継ぐ研究者とか、その一人である神野直彦氏の提唱する財政社会学とか。ちょっと前にけっこう興味を抱いて本を読んだり借りたりしたのだが、最近はさっぱり。これを機にしっかり取り組んでみようかと思う。

思うだけだけど。

追記1:ちなみに財政社会学は、神野氏が提唱しているといっても、別に初めて提案しているわけではない。ゴルトシャイトやシュンペーター以来の伝統があるらしい。詳しくは神野直彦『財政学』(2002 isbn:4641161569)第五章、第六章。

追記2:ちなみに公共経済学と厚生経済学の断絶なんてたいそうなことを書いてしまったが、これはただ、公共経済学や公共政策や財政の授業で、補償原理や社会厚生関数の話まではしても、アロウの一般可能性定理(いまだによく理解できないけど)以降のセンなどによる厚生判断の情報的基礎の話まではしないなぁ、という印象をこのように表現しただけ。筆がすべった。きっと理論経済学者たちはいろんな議論をしているのだろう。でもここまで話を進めれば、経済学も「福祉とは何か」という少しは生々しい話に再び戻ってくることになるのに。