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平和で平穏で楽しい生活が一番!・・・脱アベ・スガからガラガラポンの政界大編成を希望。左右問わずmew基準で、政治や競馬、スポーツなど。写真はトロットスター・・・↓PC画面のリンク1~5は無効

山田洋次「終戦時には世界中、戦争はいけないと思っていた」+中国人差別、ロシア兵蛮行の話も


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【*1、*2などの関連記事は、記事の最後にあるMoreの部分にあります。】 


 今日8月15日には終戦記念日。戦争が終わって78回めの夏を迎えている。(-"-)
 
 今回は、「男はつらいよ」シリーズをはじめ多数の映画を作って来た山田洋次監督のお話を・・・。
 山田氏は先日、日本テレビで戦争に関するインタビューで語っていたことの中から、いくつか印象に残った部分をアップしてみたい。
 
<全文を読みたい方は、 https://news.ntv.co.jp/category/society/8761eb43c3a543519de25da4c8160cc7  に。>

 ざっと要約すると・・・山田監督(1931年生まれ)は2歳の時に家族と共に満州に行き、14歳の時に同地で終戦を迎えた。突然、貧しい生活に陥り、それまで差別的な言動をして来た中国人に復讐されるのではないかと怯えながら生活することになる。(中国人差別、ロシア兵などの話は*1に)
 
 食べ物にも困る生活をしのいで、何とか2年後に、引き揚げ船に乗って日本に帰るも、ひとり一つじか荷物を持って帰れず。帰国しても少量の米や1日に砂糖何グラムの配給しかなく、中学時代から家族のために働いて、大変な思いをする。
 やがて大学進学のために上京し、学生運動を行なったこともあった。終戦直後 世界中で「絶対に戦争はやってはいけない」という思いがあったという。
 そして、今の若者について、「なぜこんなに無気力になったかが大問題だ」と。。恋愛もしなくなっちゃったっていうんだろ。本当それは恐ろしいことだね」と憂う。
 
 さらに世界の現状を見て、「戦争はよくない」「原子爆弾はやめる」べきだとみんなわかっているのに、何故、守れないのか・・・と嘆く。
 
<三部制の(3)では、映画製作に関する思い、寅さんや新作のことなどについて語っている。>

* * * * *

 ここでは山田監督が、戦争に関して語った部分を中心に取り上げる。
 
『【証言】 山田洋次監督 戦争の原体験 (日本テレビ23年8月12日)

■"結局変わらなかった"ことが問題…日米安保条約めぐり

――国民に貧しい生活を強いたり、一人一人の価値観を決めるような情勢を作り上げてる政治や国のあり方について、監督が意識を向け始めたきっかけは?

山田監督「それは僕たちの世代。あるいは僕たちの10年ぐらい後の世代も含めてだろうけども、学生時代は基本的に、常に戦っていたね。当時の権力とね」

「だから、しょっちゅうストライキしたり、デモしたり、特に僕の学生時代は、日米安保条約ができる時で、『そんなもんは結んじゃ絶対だめだ』と。それで『アメリカの植民地になっちゃうんだ。絶対反対しよう』という、大きな運動が日本中に起きてたからね。 それで、やめさせようと、僕たちしょっちゅうデモをしてたけど、考えてみると、『一生懸命政府に働きかければ政治を変えていけるんだ』っていうことを、ある程度僕たちはリアリティとして持っていたような気がするね」

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「今じゃ想像つかないだろうけども。そのためにデモに行くんだという、この政治の方向を変えるためにね。 結局、変わらなかったんだけどそれはね。問題は、"結局変わらなかった"ってことなんだなあ…」

「変わらなかったことによって、“日本人は今とても幸せになっている”のか、“その逆”か。その辺のことだね」

* * *

■終戦直後 世界中で「絶対に戦争はやってはいけない」という思いがあった

――「戦争はもう絶対にやりたくない」という思いは?

山田監督「もちろん世界中の人がみんな思ってた。1945年は、そういう年だろう。世界中の人が、『もう二度と戦争はやっちゃ駄目なんだ』と。『これからは平和な時代を作ろうね』と本当に思ったんじゃないかな、あの時の世界中の人たちは」

「これからもう戦争はしないとみんな思ったんじゃないか。ドイツ人もロシア人も、アメリカ人もイギリス人もフランス人も植民地の人たちもね。その中で日本は、特に平和憲法を持っていたから、これから日本は軍隊を持たないと」

「戦争による政治的な解決のために軍隊は戦争はしないと、はっきり憲法で言ったんです。そんな国は、世界にも他にないわけだからね。 それは『なんかすごいことだな』という思いを持っていたのはよく覚えてるね。それは僕まだ中学生だったけどね。これからこの国はこうなりますという」

「考えたらあのころ1946年、1947年、これはとても生活は貧しかったけれども、本当にお腹すいてたけども、『これから先、何か良くなるはずだ』っていう、なんか向こうに青い空が見えてる、そういう時代でもあったな」

「明るかったね。やっぱり。暗くなかった決してね。もっとひどくなるとも思ってなかったもの。 だんだん良くなり、良くなるに違いないと思ってたもんね」

■「無気力なことが大問題」今の時代に若者達は?

――1960年代、70年代のデモが激しかった時代を生きてきた監督は今をどう見ているか?

山田監督「“怒らなきゃいけない”と思うんじゃないかな。 僕も老人だから、やっぱり“老人問題”について、『この国の老人は本当に安心して年をとっていけるのか』ということを考えると、とても腹が立ってくるんだよな」

「だけど行動に移せるかっていうと、なかなか移せない。 そういう無気力さに絶望してしまうという所があるんじゃないのかな。“なぜそうなっちゃったのか”っていう問題だね。」

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――戦争経験者、証言する人などが年々減る中で、「戦争をしない」という思いを後世に残すため私たちがすべきことは?

山田監督「それは“若者が考えるべきこと”であってね。なぜこんなに無気力になったかってことが、とても大問題だね。それ変えていかなきゃいけないよな。どうすれば変わり得るのか、このエネルギーがなくなってきたわけだろ段々。 恋愛もしなくなっちゃったっていうんだろ。 しんどいってね。本当それは恐ろしいことだね、恋愛も面倒くさくなってきちゃうってことはな」

* * *

■「“原子爆弾を全部やめよう”どうしても守れない」…自身の経験を振り返り戦争をどう思う
――旧満州での経験、帰国後の経験など振り返り戦争に対する思いは?

山田監督「戦争は良くない。機関銃で相手の…敵の兵隊を殺す。そんな事が正当化されることが決してあってはならない。そんなことはみんなわかっている。『戦争はやめてトラブルは話し合いで決めましょう』と、わかりやすい事がどうして守れないのかって…絶望があるやね。ウクライナだけじゃなくて、いままでの局地的な戦争もそうだけどね」

「どうして鉄砲なんかを持ち出さなきゃいけないのかという問題だよね。1945年に何千万人が戦争で死んでしまった後、世界中の人が『もう二度と戦争はやめようね』と、その時はみんな誰も、進めたり反対する人はなかった。当然だよと」

「新しい戦後が出発したにもかかわらず、例えば『原子爆弾を全部やめちゃおうね』っていう事はどうしても守れないのね。それどころか色んな国が作り出したりなんかしてね。 原子爆弾なんて間違っている。 こんなもんやめた方がいい。“こんなわかりやすい事がどうして守れないか”ってことだな。人間はね」

「そういう深い絶望っていうか…ニヒリズムっていうか…その中で、“もう諦めてボーっとしている”ってのが、今の僕たちじゃないのかね。 本当にね…大変な時代になってきてるな」

「敗戦から70何年か…」

2023年8月15日。日本は78回目の終戦の日を迎えます。』 

<山田氏は満州の日本人に中国人への差別があったこと、ロシア兵の蛮行や実情(食料などがなかったため、強奪なども行なっていたこと)、日本も同じことをしていたであろうことなどについても語っていた。あまりそのような話をする有名人はいないので、*1にその部分をアップする。>

* * *

 何だか最近、ウクライナ侵攻や台湾有事のニュースをやってても、他人事として見ていて無関心な人が多くなっているし。もう戦争に巻き込まれるのも仕方ないのかと諦め気分の人も増えているかも知れないのだけど。
 幸か不幸か諦めが悪くしつこい性格ゆえ、ネット世界の片隅で「戦争はダメだ」「戦争はイヤだ」と可能な限り言い続けていたいmewなのだった。(@_@。
 
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*1

■「恥ずかしいけど差別はあった」旧満州で日本人は…

1933年。当時2歳の山田監督が家族と共に移り住んだのは、中国東北部に日本が主導して建国した旧満州。

父親は南満州鉄道の技術者で、転勤は多かったものの、不自由なく、豊かな暮らしをしていたといいます。

――太平洋戦争中、山田監督や旧満州にいた日本人の生活について

山田監督「全く今の日本人には想像できないかもしれませんね。僕たち旧満州にいる日本人というのは、まるで自分の国のように思ってたからね。形の上では一応独立国なんですよ。満州国と言ってね。 そんなことは僕はあんまり考えたことなかった。 もちろんパスポートも何もあったもんじゃない。 簡単に日本人は出入りできたしね」

「大体は威張ってたね日本人は。中国人はみんな貧しくて。例えば大連にしても、奉天にしても、新京にしても、街を歩く人は服装だけで区別がついた」

「貧しい服を着てるのは中国人だった。 綺麗なスーツを着たり、着物を着たりしてるのは日本人だった。馬車や人力車が走ってるけど、馬車の御者は中国人だし、人力車を引く人はみんな中国人だし、乗ってるのは日本人。 そういう風に、支配・被支配っていうのがはっきりしてたんです」

「心が痛むんだけど、人種差別というのは、はっきりありましたね、日本人には。とっても恥ずかしい話だけどね。 それが、あの時代の満州ですね。小っちゃい時からそういうものだと思っていたんだけども。でも時々『あれ? そんな事でいいのかな?』っていう思いは少年の僕には全くないわけじゃないね」

「例えば、知り合いのおじさんと一緒に馬車に乗って、料金の問題でもめて、いきなり御者をぴしゃりと殴っちゃうみたいな。日本人は当たり前だったんですね、それが。だけど子供心に『ああ、かわいそう』『あんなことしなくてもいいのに』という。 そのおじさんは、決してその僕たちに対して暴力的な人でも何でもない。面白いおじさんなんだよ。 それが突然、中国人に対すると、威圧的な態度をのぞむっていうのは、『なんか変だな。 良くないな』って気持ちはあったねって子供心にね」

■復讐されるかも…終戦で一変した街

しかし、1945年。日本の敗戦で生活は一変します。中学2年生だった山田監督は、終戦を大連で迎えました。

山田監督
「日本が負けるなんて、これっぽっちも思ってないわけだ。 それが8月15日。終戦の天皇の詔勅っていうのを僕たち聞いてね。 聞いた時わからない。何を言っているのか。難しいし言葉がね。ラジオは悪いラジオだし」

「勤労動員で働いてたのだけども、『今日は作業をやめてみんな家に帰れ』っていう命令が。 『なんで今日やめるんだよ 』ってわからないんだ、まだ負けたってことは」

「それで帰る支度をしてる頃に友達が教室に入ってきて、『おい日本が負けたらしいぞ』っていう。『どうして?』と聞くと、『いや先輩はそう言ってるよ』とか『先生に聞けよ』と。先生もちゃんと言わないんですよ」

「急に怖くなったね。つまり、僕たちは中国人に復讐されるんじゃないかと。僕たちは急ぎ足に、学校から家に向かって逃げるように走っていったもんだよね」

「学校は小高い丘の上にあってね、坂を降りて行くんだけど。 この左側が中国人街。中国人街は、平屋ばっかりで、貧しい家が、だーっと並んでる何千軒も。反対側は日本人の豊かな街なんだ。はっきり分かれていて」

「その中国人街の、黒っぽい屋根瓦がびっしり並んでいて、そこに何百本と中国の旗が立っているんだ。青天白日旗、今の台湾の旗がね。当時中国は、国民党で統一していたから、まだ毛沢東の軍隊とかが来てなかったからね。だから青天白日旗といえば、日の丸に対する敵の旗だったんだな」

「その敵の旗が、ばーーーっとあるわけだよ。 それはびっくりだね。つまり、中国人は、知っていたんだ。 前もってみんなが旗を用意をしているわけ。 俺たちよりも、何日も前から日本が負けるという事を知っていたのだ。“8月15日は日本がおしまい”だと知っていたんだと思ったら、ゾッとしたね。 そして俺たちは何も知らないっていうことね」

*************

■「着物を持っていった」山田監督が見た旧ソ連軍と中国の軍(八路軍)

――他の引揚者からは旧ソ連兵に暴行されたり、中国人からひどい目にあったりという話がある中、大連の状況は?

山田監督
「僕たちは中国人に復讐されるという恐怖を持っていたけれども、そういうことはなかったですね、中国の人たちは、その辺はね、きちんと優しかったな」

「でもロシア(旧ソ連)の兵隊は乱暴だったよ。突然家の中に入ってきて鉄砲で俺たちを脅かしておいて、タンスをあけて着物を、だーーと持っていったりして。そういうことはずいぶんあったけども。僕のお袋なんかは逃げるわけね、屋上に」

「だけど間もなく、中国の軍隊に交代したの。 当時まだ八路軍って言ってたね。 国民党の蒋介石の軍隊と、毛沢東の軍隊(八路軍)が、共同して日本と戦ってたんだな。 やがて日本が負けると両方が戦う。そして国民党はどんどん負けて、台湾に行ってしまうんだけど」

「その八路軍がロシアと協定を結んで、ロシアと交代して、八路軍が治めるように。この軍隊が来てからはピタッと平和になったね。 八路軍てのは本当にね、なんか秩序正しいっていうか、道徳的っていうかね、きちんとした軍隊だったね」

――旧ソ連の軍隊の秩序は?

山田監督
「ロシア軍はだいぶ乱暴だったね。 そうは言っても、ロシアの将校達と結構付き合っていたけどね。(アルバイトで)使ってもらっていたわけだから」

「『夜、今日パーティーだから夜働きに来い』って言われて、僕なんかは片言のロシア語を覚えるわけだ。 夜行くとみんな集まって、うわーっと大きな声で、彼らはすぐコーラスをするんだ。いい声でロシア民謡を歌うんだよ」

「その間を、お酒を運んだりなんかして。台所で黒パン…黒く固いパンがあるんだけど、そのクズが落ちてるんだよね。 それをポケットに入れて、持って帰ったりしてたね」

――旧ソ連兵に略奪された時に思ったこと

山田監督
「“戦争に負ける”とは、こういうことなんだろうなって。 だって日本の軍隊も同じことやっていたんだから中国で。全く同じことをやっていたんじゃないかな。反抗すると、殺しちゃったりもっとひどいことをやったんじゃないかな。そういう話はよく体験者から聞くけどね」

「食料も何も持たずに、つまり食料補給なしに戦争してたんだからね。 現地でどんどん調達しろと。現地で、農家で、食べ物をとれっていうことだからね。 そういう戦争だったから。中国の人たちは本当につらい思いをしたんじゃないかな。だからロシアの兵隊がやったことも同じことなんじゃないの」

「もちろん、もっと(旧満州の)北の方の開拓部落みたいなとこでは、もっとひどい目に遭ったって話をいろいろ聞くけどね。 大連では、そんなことはなかった気がしたけどね」


by mew-run7 | 2023-08-15 01:35 | 平和、戦争、自衛隊

by mew-run7