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十万年、百万年の桁の時間スケールを歌う人々が住む国

現代日本で、「君が代」は論争のたねとなる。論争はとくに、それを歌いたくない人に強制的に歌わせることについてのものだ。歌いたくない理由は、たいてい、この歌が、天皇に主権があるとされた明治憲法のもとでの国歌だったことによる。また、この曲が雅楽をもとに明治初期に新たに作曲されたものであり、近代の歌からも伝統的民謡からも孤立していて身近なものと感じにくいこともあるかもしれない。

しかし、歌詞に注目してみると、日本が世界に誇ることのできる歌だと言えそうな気がする。これは地球環境科学者、そのうちでも日本第四紀学会員である(もちろんいま学会を代表して発言しているわけではない)わたしの我田引水かもしれないが。

人間の1世代を仮に25年とすれば、「千代」は2万5千年、「八千代」は20万年ということになる。2万5千年前といえば、北アメリカ・ヨーロッパに大陸氷床が広がっていた氷期の最盛期に近い時代だ。氷が多かったぶん海水は少なく、たとえば対馬海峡はとても狭くて浅い海峡になっていた。地球の歴史の中で最近約2百万年間の「第四紀」の時代には、氷期と、現在(むしろ産業革命前)に近い気候の「間氷期(かんぴょうき)」との間の振動的変化があった。そのうちでも最近の数十万年間には約10万年周期の変動があったので、20万年前はこの約2サイクル前ということになる。そして、生物の「種」のレベルで現代人と同じホモ・サピエンスが出現したのは約25万年前と言われている。この数値は今後の科学的研究でいくらか変わるかもしれないが、大まかな数値としての「八千代」が、これまでのホモ・サピエンスの歴史に匹敵する時間の長さを示すとは言えると思う。

「さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで」の時間を定量的に示すことはむずかしいが、歌の流れからみると、「八千代」と同じかそれより長い時間を想定していたことはまちがいないと思う。川原(河床)に見られるような小石(礫=れき)が、海か湖の底に堆積して礫層となり、さらに固結して礫岩という堆積岩になり、それがまた陸上に出てくるまでの時間なのだ。(それに比べれば、陸上に出てきてからその表面にコケが生育するまでの時間は無視できる。) 第四紀には氷期間氷期サイクルに伴う海水準変動があったから、ある場所が海になりまた陸になるということは珍しくない。問題は固結にかかる時間だ。これは、礫にまざって堆積する水に鉄やカルシウムなどのイオンがどれだけ含まれているか、また、それが酸化的か還元的かによって、いろいろな桁をとりうると思う。わたしは答えを持っていない。大まかに言えば、第四紀の堆積物のほとんどは岩といえるほど固結していないので(火成岩は別)、2百万年以上の時間が想定されていると思ってよいのではないだろうか。

将来に向かって、こういう時間スケールでの持続性を、「君」について祈っているわけだ。

時間スケールから見て、「君」とは全人類をさすと見るのが順当ではないだろうか?