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by luxemburg
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九条の会



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死刑に狂奔する日本
 死刑の是非を巡って、日本中が魔女裁判のようになっていて、500年くらい時代が戻った気がする。
 「死刑に狂奔する日本」と書いたけれども、感情的に物事をあつかった方が視聴率がとれると踏んでいるマスコミと、ネット右翼およびそれと同程度の人間だけが絶叫しているだけかもしれないので、本当は狂奔する『日本』と書くのは申し訳ないことかもしれない。実際、私のまわりで何となく話を聞いてみても、特に女性はほとんどが死刑廃止派である。意外にああいう報道に踊らされていないのではないか、とも思う。
 今回の事件(光市で母子が亡くなった事件)そのものについては、とくに加害者を持ち上げる気もないし弁護団についても何とも思わない。ただ、以前から死刑に関するコメント、メールを多くいただき、それに答えようと思っていた。せっかくのタイミングなので、いくつか典型的なものについてちょっと返事らしいものを書くことにする。感覚的に、コメントの中で比較的多いと思った意見から順に書くので話があちこちに飛ぶかも。

-- あなた方は加害者の人権は大事にするが、それでは被害者の人権はどうなるのか



 「被害者」とは誰を指しているのだろうか。
 もし被害者そのものだとすれば、この世にすでにいないため、人権を考える余地がない。
 生前の被害者だとすれば、この意見はこういう意味だろう。
 「死刑で威嚇することによって凶悪犯を防ぎ、未然に被害者の生命を守る必要がある」。生命は人権だから、一応話としては成り立つ。
 ただし、そのためには、死刑に凶悪犯罪を抑止する力、効果があるといえなければならない。厳密な実験など不可能である以上「証明」とまでいえなくていいが、最低限「死刑制度によって凶悪犯罪が減ることが、こういう事実から言える」といってもらいたい。ところが、この種の統計はほとんど逆の結果を示しており、死刑を廃止しても、犯罪が増えるとはいえない、つまり死刑は、効果がないのに、無駄に人の命を奪う刑罰にすぎないことになる。
 もし、本当に死刑に抑止力があれば、絶対に他の先進国は死刑廃止を選択しないだろう。凶悪犯人を死刑にしたら、それを知った将来の犯罪者(?)が、凶悪犯罪を思いとどまり、何十人、何百人の善良な人の命が救われる、もしそういう関係にあるといえるなら、私は今すぐにでも死刑賛成論者になっていい。
 残念ながら効果が得られない以上、加害者の人権をいくら奪ってみても、被害者の人権は保障されないのだ。

 また、被害者の人権とは、被害者「側」の人権すなわち遺族を指しているらしい意見もあるようだ。では、それは何条に基づく人権だろうか。13条の「幸福追求権」だろうか。幸福追求権は包括的な権利や自由を含む立派な人権と考えられているが、その指導理念は「人は他人を害しない限り、自律の存在として包括的な権利、自由をもつ」ということである。
 では、加害者の死刑を望む権利はどうか。他人を殺して自分が幸せになる権利、それは「他人を害しない限り」とはいえない。
 犯人を殺すことがいったい誰のどんな人権を保障することになるのかわからない、というより言っている本人もわかっていないようだ。
 結局、「被害者の人権」は、人権について無理解な人が言うだけのことであって、要は被害者遺族の感情、ということになるだろう。私はその問題自体はとても大事だと思っている。しかし、被害者感情そのものについては以前書いたのでこれ以上は書かない。

-- あなたは、自分の家族が殺されても平気なのか
 平気であるわけがない。努力して想像してみるに、私だと「ただただ悲しい」だろう。犯人が捕まってほしいとも思うだろう。
 先日、イギリスからきた語学学校の先生、リンゼイさんが殺された事件があったが、犯人を捕まえてほしい、処罰してほしいとはおっしゃっていたが、殺したいとはいっていない。法の裁きは受けさせるべきである。許してはならない。しかし、死刑は答えではない。

 もう一つ。あなたが今まで持った欲望をできるだけ思い浮かべてみてほしい。その中にはとても叶わないものもあるはずだ。人によっては、小さいころ「このお菓子屋さんのお菓子全部欲しい」などと思ったことがある人もいるかもしれない。そんな話をしていて「わかるわかる」といいたくなることもある。
 では、その欲望を国家が出てきて「満たしてあげよう」といってくれたら、どこかうさんくさくないか。家族が殺された場合、私なら死刑どころか、火あぶりにしろ、と思うかもしれない。下手すると犯人を育てた一族全部を根絶やしにしたいと思うかもしれない。その私の気持ちをわかるといってくれる人もたくさんいるだろう。しかし、それがかなわないことも知っているのだ。そんな感情が叶ったらおかしい。つまり、個人としてこう望む、その気持ちはわかる、ということと国家がやることとは別であるべきである。本村洋さんの気持ちはわかるが、死刑は答えではない。

-- あの残酷さ、犯人の様子を見れば死刑しかないではないか
 「しかない」という刑罰はない。右手で物を盗んだら右手を切り落とす「しかない」と思っていた時代もあるだろう。少女が結婚前に誰かと体験しただけでむち打ち「しかない」と思っている人たちもいる。時代や場所、宗教によって、その「しかない」は変わる。死刑しかないなどと思っていること自体、頭が半分コンクリート化してきている証拠である。
 "時とところを超えて正しい刑罰"というものはない。「しかない」などと言っている時点で説明を放棄し、感情だけに流されていることがわかる。

-- では、死刑にしないとして、出てきてまたやったらどうするのか
 もしそれを認めて重く処罰するとすれば、まだやってもいない将来の犯罪をも含めて処罰することになる。それは残念かもしれないが許されない。
 また、再犯という問題は加害者個人の問題にとどまらず、社会のあり方にも関連する。処遇のあり方や、出てきてからの社会の対応、格差が固定されている社会ではまた人生に行き詰まる、などもっともっと根の深い問題である。むしろ死刑というのはこういう努力をすっ飛ばして、殺してしまえば正義の実現、とされてしまうおそれがある、政治家にとっては都合のいい考え方である。社会の根本的な問題に切り込まれるより、犯人を殺してすっきりと正義が実現されたかのように見せることができるからだ。しかし、本当に大事な問題を放置し続ける限り、再犯よりも、次々初犯の凶悪事件が生ずるだろう。
 死刑を使わないで社会をよくするのは、うるさい生徒を排除したり体罰を加えるという手段を使わないで授業を成り立たせる先生と同じで、努力と力量が要求される。しかし、それは求めるべきなのだ。そのために最大限の協力を惜しまない、その覚悟も必要である。そうしていくと、本当に悪いのは誰か、彼らを犯罪に走らせるのは何であるかが見えてくる。真実が見えてくると都合が悪い人は、問題にフタをするように人を殺そうとするのだ。

-- 死刑のない国では、銃撃戦でその場で射殺されているだけで、結果は同じである
 いったいどこの国のどの事件を指しているのか、適当な想像でものをいうのはやめた方がよい(ただし、ペルーの大使館占拠事件はそういわれてもやむを得ない)。仮に犯人処罰の意味で射殺が行われているのであれば、相手が撃ってこなくても処刑目的で殺すことになり、両手を挙げて投降してきても逮捕も行われず犯人は全員射殺以外ないことになるが、一般にそのような国が本当にあるのか、でたらめを根拠に死刑を正当化するしかないのか。

-- あなたの議論には説得力が全くない
 人に説得力がないのか、本人に理解力がないのか再考してみたほうがよい。
 本当に説得力がなければ、なぜ死刑廃止は各国で進むのか。しかも、むしろ物事を合理的に考えそうな国々で死刑廃止が進み、宗教的な原理主義の国々では死刑が盛んに行われることからすると、自分の理解力を疑ったほうがよいのではないか。

-- 他国のまねをする必要はない
 それは「それぞれの国の文化」といえる限度においてである。人を殺すのが文化、などと胸を張っていえるものではない。
 スウェーデンのように、死刑になるおそれのある国には、犯人を引き渡さないとする国もある。欧州議会では、死刑存置国はオブザーバー資格も与えられない。もはや、これは文化だ、といえる限度を超えているのだ。
 そのうえ、「まね」をしろといっているのではない。何度も言うが、隣の畑が必要悪である農薬をまかずによい収穫を得ている実例があるんだから、うちの畑で「よい収穫には農薬しかない」というのはおかしい、といっているのである。

 客観的な資料からみても、世界の文明の進歩からみても、答えはもはや出てしまった問題といえる。おそらく世界から追いつめられるように死刑を廃止するしかなくなるだろう。このままでは日本人は世界で一番バカだ、と証明してしまう。自分で思考する能力がある民族であるところを世界に見せてあげた方がよいのではないか。

 実は死刑廃止エントリーシリーズをやるまでは、「死刑存置論」「死刑廃止論」がちゃんとあって対立しているものと思っていた。ところが、調べてみて世界がここまでになっているとは思わなかったし、死刑存置論がここまで理屈のない議論だと思わなかったので正直驚いている。
 死刑問題を扱ったおかげで、あちこちのブログを読むのが楽になった。死刑存置を主張しているブログは、基本的な思考力がない人が書いており、読む価値がないという推定が働く。



<追記>ご質問にお答えして
「終身刑がないから死刑が廃止できないんだ」という意見について、終身刑(重無期刑)と死刑の関係については、以前書いた。かりに「ぜったいに出られる可能性のない無期懲役」を「終身刑」と呼ぶとして、死刑廃止の国、もしくはアメリカのうち、死刑廃止の州がそういう制度を採用しているかというとそうではなく、むしろ逆である。



 <追記>コメント欄閉鎖について
 この記事は一ヶ月ほど前に書いたもので、その内容は一年前に議論していたものをまとめただけなのに、光市の事件の報道もあって、突然書き込みが増えた。あの弁護士が言っていることの妥当性など、とりあえずこのブログに関係のないコメントを削除していると、荒れたのでコメント欄を撤去している。
 


<追記>何通かメールをいただいたので、それについてはお答えする。

-- 死刑を廃止すると凶悪事件が減ると主張しているようだが証拠を挙げよ
 先に言うと、むしろ「死刑を廃止したら凶悪事件が増える」証拠を挙げてもらいたい。なぜなら、死刑は人を殺すものである以上、殺すだけの積極的な理由が必要だからだ。正直なところ抑止力があるかないかわからないが、疑わしいときは殺しておくか、ではすまないのである。
 一つだけ例を挙げておくと、アムネスティーのページによると、1975年に死刑を廃止したカナダでは、凶悪事件が廃止直前の年と5年後に比べて3分の2に減っている。いったん死刑を廃止した国がまず死刑を復活させないのはそれだけの理由があるのだ。

-- 終身刑で一生そんなやつに税金で食わせる必要はない
 コストを考えて人の命を奪うという意味だろうか。やはり年寄りを山に捨てる時代に戻ったかのようである。なお、この意見は、ただの思いつきである。
 このコスト試算をした人はちゃんといて、1984年に死刑を廃止したマサチューセッツ州の、ロバート・アントニオ議員は、10年、15年と長引くこともある、重なる上告にかかる法廷費用、それに陪審員達にかかる費用など、死刑一件につき2百万から4百万ドルの費用がかかるという。これは囚人を40年間刑務所に閉じ込めておく費用の2倍から3倍に匹敵するという。
 そうか、ではもっと簡易に捜査して、さっさと裁判してさっさと殺してしまえ?
 ところが、コロンビア大学ロー・スクールのリーブマン教授らの死刑事件誤判率に関する調査報告書によると、1973年から1995年までの23年間に行われた死刑事件の上訴審4578件をについて、一審の死刑判決が上訴審で逆転された率は、全米平均で実に68%に上ることが明らかになり、死刑判決の3件に2件は誤りだったことになるそうである。従って、死刑判決はいっそう慎重に行わなければならず、コストはこんなものではないということになる。

<追記:コストについて>
 この計算は本当のところはわからないのである。
 死刑判決までに3億円かかるとして、通常の懲役刑の判決までに2.5億円かかり、その後何十年かの行刑の費用が1億円とすると懲役刑の方が費用がかかるといえる。但し、その2.5億円とは、死刑求刑事件で弁護人が大活躍して、徹底的な戦いの後に死刑を免れた場合だから高いのかもしれない。死刑制度がなければ、それほどの大騒ぎにもならず、実は1億円くらいですんでいるかもしれない(これは適当に「かもしれない」を創作しているのではなく、死刑求刑事件は多くの場合、上訴再審まで相当なエネルギーが費やされる)。もしそうなら、やはり死刑の方が高いことになる。その上、一定の割合で誤判があることを考えると、現在でももっと慎重に行わなければならないといえ、本当の死刑のコストはもっと高いかもしれない。
by luxemburg | 2007-05-31 22:35
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