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疑っているのかどうか 親鸞和讃を読む「誓願不思議をうたがいて」(2)瓜生崇師

2022年7月20日(水)19:30~ 真宗大谷派大津別院
『親鸞和讃』を読む ―誓願不思議をうたがいて(2)― 瓜生崇師

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「誓願不思議をうたがいて 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまう」
・胎生:浄土に生まれながらも蓮の花の中で500年間仏教を聞かない世界。

仏教は自分のいいと思っているものがぶっこわれること。たいへんなこと。
・鳥:法を説いてわたしを目覚めさせる存在

「もし衆生ありて、疑惑の心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるに猶し罪福を信じ善本を修習してその国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生まれて寿五百歳、常に仏を見たてまつらず。経法を聞かず。菩薩・声聞聖衆を見ず。このゆえにかの国土においてこれを胎生と謂う。」
(『無量寿経』下巻【真宗聖典】81ページ)

・罪福:鬼は外、福は内ということ
宗教は自分の心ですくわれていこうとする。でもそれが間に合わなくなっていく。

「もし我、成仏せんに、無量の国中の所有衆生、我が名を説くを聞きて、以て己が善根として極楽に廻向せん。もし生まれずば、菩提を取らじ。」(無量寿如来会・難思往生)
真面目な求道者は浄土に生まれることを取引してしまう。そうでなければ仏道は求められない。どうにもならない。
「おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。」(『教行信証』化身土巻)

どうしても自分は罪福のこころに戻っていくのだと思う。
「もちかえ」
果遂の誓い=果たし遂げられてないから
十九願二十願があるからそこに自分がいるということがわかる。

自分はなんのために聞法しているのか。浄土に生まれる取引としているのか。すくわれたいと思っているのか。これについてブログで不特定多数の人にいえないのが自分なのだと思う。
仕事に疲れてていやだ、体調がよくない、ストレスになる人間関係があるなどから逃避したいという気持ちはぶっちゃけある。でもそれって阿弥陀さんにすくってもらうことなのだろうか。違う。でも自分が思いつく生きていくための乗り越えるべきことってこういうので、これにギブアップしたら生活の糧が得られないのだ。なんとかしなくてはいけないこと。なんというか、湧き上がってくるなんとかしたいことが浄土に往きたいことでもなく、一生懸命頑張る⇒しかも善、功徳を積むというより、世間的にいいことを解決策としてする という自分しかいないので、十九願にいるのはむべなるかな。
じゃあ、そのほかってどうなの?といわれたら、正直自分はもちろん、家族が死のリスクに直面しているわけではない。でもお聴聞をしているわけだ。
なんか人に説明できない。自分でも考えていたのだけど、たぶん人に説明できないところが自分なのだろうと思う。
一時は虚無的に仏教を見てそういうものだと納得したいのかなと自分に対して疑問をもったのだけど、そうでもない。仏法にあって喜んでいる人を見ると、いいなあと思う。自分は喜ばないけどできるだけお聴聞する。でもそれがすごいとは自分では思わない。

もうひとつ考えたのは、多分こちらから理路整然と「信じられるものではない」ということで疑う自分を棚上げにしているからこの心持ちになるのかもしれない。でも現代人にとって自然なことのような気もする。

このブログを書いているのも、自分に変化があるかを確かめたいからであり、別に誰かに見てもらいたいわけではない。自分一人の中で書いておけば良いのかもしれないけど、きっとこころのどこかで同じように悩んでいる人がいたら勝手にたまたま読んでくれたら良いとおもっている。
なんかね、これだけは思うんだ。必要な人には届くのだ。仏教というか真宗の教えって、全人類が阿弥陀に帰依するとかというより、聞くべき人に届くのだと思うので、あんまりじたばたしなくていいのではないかとぼんやり思っている。だって自分にも届いたのだから。ただそれだけは思う。

 

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