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長源寺 同朋学習会「無量寿経」(22)(瓜生崇師)

2022年8月4日(木)
長源寺 同朋学習会「無量寿経」(22)(瓜生崇師)

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「一八 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。」(『無量寿経』【真宗聖典】18頁)

・善導大師 『観無量寿経』の三心が無ければいけない。
 二つのことに疑いがない
 阿弥陀さんが必ずすくってくれる(絶対すくう)
 自分は罪悪生死の凡夫(絶対すくわれない)⇒矛盾
 二河白道 わたしのなかに生じた願往生心
  ⇒親鸞聖人は自力小善という『愚禿鈔』
・法然上人 わたしのどろどろのこころを外に出せばよい。できない。
 なんでもいう事は実は出来ない。
・浄土に生まれるのはわたしが満足してすくわれるのではなく、あらゆるひとと共にすくわれているこころ=回向発願心=欲生我国=弥陀招喚の勅命
至心:阿弥陀さんのこころ 信楽:疑いなく阿弥陀がわたしをしんじる

わたしを主語にしない。法藏菩薩の修行だ。阿弥陀さんの南無阿弥陀仏がわたしの中に入ってくる。
あなたをすくうことができなければ、わたしもすくわれない(法蔵の願い)

絶対すくうという阿弥陀さんと絶対すくわれないわたしがであったときにどうなるか…
これだよな。これ。これを受け入れる自分。親鸞聖人はすくわれるとはいわない。このまま。すくうとかすくわれるとかを阿弥陀さんに奪われてしまう。
「真宗の救いは救いからの解放」和田稠
⇒そうかこれかというのも執着…。どこまでもこれを繰り返してしまう。
浄土に往くのはあらゆるひとびとと共に…そういう心がない。
⇒なので共にとかみんなでということを主張されると不思議な気持ちになる。
 一人ですくわれたいとも思わないけど一人のすくいしかわからない自分だと思う。

わたしにはまことの心も存在しないし、疑いなく信じる心もわたしにないし、浄土に生まれたいというこころもない。主語は阿弥陀。これは法藏菩薩の修行だ。
本当に自分には真のこころがないから100%まことのこころで
信楽は一ミリも疑いなくわたしを信じてくれた。
欲生我国は絶対逆らえない形でわたし生まれてこいと喚びかけてくる阿弥陀の姿。

『歎異抄』第二条の親鸞聖人の言葉は強いなあ。地獄行きが間違いない身。浄土に生まれるか地獄に行くかはまったくしらない、わけだ。
阿弥陀さんに“応える”には念佛しかない。ということになるのか。これしかなくなる。

―『観無量寿経』の話―
・五逆の罪を犯した阿闍世
・阿闍世の無根の信 無間地獄に落ちてもいい
・お釈迦様は阿闍世が救われるまでさとりを開かない

「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」
(『教行信証』信巻【真宗聖典】251頁)
自分を振り返る言葉だ。自分のことなのだ。でも自分だけだとこの言葉は出てこない。親鸞聖人が書かれているからこそ倣って考えられるのだ。
悉知義。日常で悉知義の言葉が思い出されることがある。

お釈迦様はずっと覚りを完成させないで永遠にすくわれないで修行する身なんだ。だからあらゆる人がすくわれている。わたしが除かれるからこそ、あらゆる人がすくわれていく。
五逆謗法のものを除くことからすべてのものをすくうことを見いだす・・・

◆長源寺 同朋学習会

 

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