電波少年的テレビ論


現在発売中の「kamipro No.129」は特集が「テレビと格闘技」ということで、町山智浩、浅草キッド、安藤健二、勝谷誠彦、森達也、エスパー清田、そしてダンディ坂野という格闘技・プロレス雑誌とは思えないラインナップになっている。その中で日本テレビの土屋敏男にもインタビューを敢行している。
土屋といえば、もちろん「電波少年」を手がけた名プロデューサーであり、彼にどうすれば格闘技が再びテレビコンテンツとして復興できるのか、そのヒントを訊いている。
当然、その考え方は、格闘技のみならずテレビ業界すべてに当てはまるものだ。

‐‐‐‐いま視聴率を獲るためにはどうしたらいいかと考えたときに、業界の雰囲気としては、(略)要はわかりやすくするしかないんじゃないか、と。
土屋  いや、まったくそうは思わない。逆に「いかにわかりにくくするか」だとボクは思うけどね。
‐‐‐‐あ、わかりにくくしたほうがいい。
土屋  要するにね、わかりやすくするって、いまテレビが陥っている問題でもあるんだよね。テレビが「わかりやすく、わかりやすく」って作ってきた結果がいまの状態。要するにシャープじゃないっていうか、視聴者が背伸びしなくてもテレビが垣根を下げてくれるっていう。だから爆発力がないし、バケモノ的な番組が出てこないんだよね。わかりやすくしてたら、いつまで経っても30パーセントの番組は生まれない。10パーセンそこそこだね。
‐‐‐‐それは外さないけど当たらないってことですか?
土屋  うん。だから格闘技をもう一回、当てるためにはわからなくしたほうがいい。そう思うね。
‐‐‐‐そもそもテレビ自体は、なぜわかりやすい方向に走ってしまったんでしょうか?
土屋  それはわからない人もすくいとっていこうとしたからだよ。わからないって人を一人でも少なくしていったほうが視聴率は上がるんじゃないか。ただね、わからないものだから「なんだこれ!?」っていう反応が出てくるわけ。そこで客がわかろうと背伸びしていく。わかるための努力をするっていうことが、じつは作り手と受ける側のキャッチボールになるはずなんだよ。

視聴者がテレビの仕組みを知ってしまった現在、新たに発明された画期的で有効な演出も瞬く間にことごとく陳腐で無意味なものになっていく。それどころか視聴者がインターネットという武器を持ったことで、その演出は批判の格好の矛先になってしまう。
さらに、良い悪いかは別にして、これまでは見過ごされていた、テレビ番組の隅々までが批判の対象となっていった。そして今まで少数派としてかき消された意見があたかも多数の意見であるかのように錯覚され、製作者側にプレッシャーを与える結果につながっていることもある。

土屋  逆に言うと難しいのはね、インターネットによってみんなが発言することがあたりまえになってきてる、と。そのこと自体に一つ一つ反応してると、大衆の大きな流れみたいなものを見誤ることがある。だって、世の中の全員が満足するものなんて、絶対にありえないんだから!
‐‐‐‐土屋さんは、全体が100だとするとどのくらいの人に肯定されればいいと思いますか?
土屋  (すかさず)51でいいんだよ。
‐‐‐‐なるほど。
土屋  極端に言えばね。ひょっとしたら、30でいいのかもしれない。30の人間がおもしろいっていうものは、あとの40はなんだかわかんないって感想、あとの30はスッゲー嫌だ、と。スッゲー嫌だって思えるものしか、じつはもの凄くおもしろいっていうものはないんだよ。『電波少年』の最初なんかもそうだもん。「スッゴイおもしろい」って言われたよ。でも片方で「こんなふざけたものはない!」とも。だからそのときに「こんなふざけたものはない!」って声を聞いてたら、やってないって、続けてないって。
            (略)
ある意味、お客さんの想像の範囲の中だったら観ないもんなんだよ。「こいつらから目が離せない」と思うから観るんであって。

おそらく多くのテレビ業界の人たちもこの理屈は分かっているだろう(と思いたい)。けれど、それを実行できるような雰囲気は残念ながら今のテレビ界、特にゴールデンタイムにはほとんどないのが現状だと思う。それを打破するような一手が果たしてあるのだろうか。


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