高度にARやVRが進化した時代が生むのはコミュニケーションの断絶か共有か

それでも私はブログを書く(副題)

副題を覚えておいて欲しい。

Twitterでは「見せたい」と「見たい」でアンケートを取っていたが、「見る、見られる」と「見せたい、見たい」とではややニュアンスが異なるように思う。どちらにせよ、それぞれ異なり権利であり、どちらが優先されるべきかはケースバイケースであると考える。今のところは、プラットフォームの管理者に委ねられる問題であろう。ただし、深津氏が指摘するように、この関係性はテクノロジーの進化によって「見る」、「見たい」側の権利も確立できるようになっていくため、これから顕在化していくように思われる。

基本的には、VR、AR、MRによる空間においても、人間同士のコミュニケーションならばパブリックな場として扱われるであろうから、公序良俗に反する姿は「見せたい」側にしても「見たい」側にしても、アウトとして規定されるだろう。つまり、現実世界の倫理観が踏襲される。

深津氏は「裸眼で見ることが失礼」なるかも知れないと予測しているが、私は「見たい」側も「見せる」必要があると考える。「見せたい」と「見たい」は一方向ではなく、相互関係の上で成り立つものだ。「見たい」側もまた「見られる」存在である。これまでは「見せたい」側が、その姿によって信頼関係を築いてきた。これからは「見たい」側が、どのようにどのように「見たい」かを明かすことも、信頼関係を築く上で重要になってくるように思う。

「見せたい」権利のためのツール

「見せたい」権利や、それに対応するツールの方がありふれている。化粧やファッションは、「見せたい」権利のためのツールである。美容整形は、その延長線上で発展したと捉えることもできよう。最近ならば、写真の加工も巧妙になっているし、動画であってもフィルタを通せばリアルタイムで美少女として配信できるようになっている。
これらのツールは「見る」側にとって不可逆性のフィルタとして機能していた。Adobe は加工された顔を検知してさらに元に戻す技術を提供しているし、化粧を無効化することだって可能である。これらは「見たい」権利のためのツールである。

「見たい」権利のためのツール

VR、AR、MRによって「見せたい」自分を実現できる。その一方で、見る側も世界を「見たい」ように見ることができる。
VR、AR、MRは、「見せたい」ツールにもなり得るし、「見たい」ツールにもなる。「見せたい」と比較して「見たい」ツールの少なさから考えると、「見たい」ツールとしての比重が大きいように思う。つまり、フィルタを通して世界を「見たい」ように見ることができるようになる。しかし、人は元々個別のフィルタを通して世界を見ているのではなかろうか。皆が同じ世界を見ているわけでは無い。「赤色は赤か」という哲学的な問題以前に人は見たいものを見るわけで、VR、AR、MRにより、その違いが一層際立つだけとも言える。ディズニーリゾートへ行っても、同じような体験をするわけではない。ショーが楽しみな人、アトラクションに乗りたい人、建物に興味がある人などなど、人によって様々だろう。同じ花を見ても、名前を知っている人、詳しい生体を知っている人、のように前提知識による解像度も異なってくる。
逆に、VR、AR、MRを通して相手の見ている世界を共有することで、逆に相互理解が深まる可能性だってある。現在でも人がどこに注目しているかを検知できるし、また画像から花の名前などを検索できるようになっている。何を見ているのか、どのように見ているのか、つまりフィルタによってお互いの解像度を近づけることも可能になるだろう。
例えば、私だったら色覚異常フィルタを通して世界を見たいし、その権利は阻害されるものではないと思う。仮に、色覚異常フィルタを通されて見たくない!と言われたところで、私はその人が「見せたい」ようには「見て」はいないのだ。あるいは、私は著しく目が悪く、メガネ無しではものがはっきり見せない。「見られる」権利としてメガネを通さないことを主張されても、メガネ無しでは私はその人が「見せたい」ものを見ることができない。

「見せたい」と「見たい」の信頼関係

「見せたい」、「見られたい」側が、「見る」側のフィルタを制限した場合、必ずしも「見せたい」ものが見せられるわけではない。その点で「メガネ」は目が悪いことの象徴であり、「見せたい」側も目が悪いのだと判断できる。「色覚異常フィルタ」を使用しているのを見ることができれば、「見せたい」側も私が色覚異常であることがわかるであろう。

コミュニケーションは信頼の上で成り立つ。人は見た目で判断されるという。VR、AR、MRならば、エバターの姿で判断されるわけで、公序良俗に反する見た目は信頼関係を構築しづらいだろう。一方で、「見ている」側も、世界をどのように見ているかをある程度オープンにした方が信頼関係を築きやすいのではなかろうか。相手をそのまま見ているのか、特定のフィルタを通しているのかなどで、「メガネ」や「コンタクト」は現実世界ではそのようなフィルタとしても機能している。インターネットも同様で、Twitterならば、フォロー数や、鍵なのか、実名なのか、ブロックされているのかなどによって、信頼性をある程度判断できる。つまり、VR、AR、MRにおいても、ステータスや使用しているフィルタを表示することで、お互いの信頼性を担保できるだろう。
もちろん、全てのステータスやフィルタを表示する必要は無い。どのようなアバターを選ぶかと同じようにそれらのステータスも「見せたい」権利であろう。また、パブリックな場で管理者が禁止したとしても、過激なフィルタを通して「見る」ことは可能だ。それは内心の自由だろうし、口外したりしてばれなければ問題にはならないだろう。ただし、フィルタを通して見ている以上、態度などに現れてくるだろう。その時に、どのような信頼を勝ち得るのか。

ライブラの世界

VR、AR、MRは神山健治の「東のエデン」のようにステータスを表示できる世界でもある。否が応でも見られる世界だ。一方で、そのステータスをどこまで表示すべきかは問題である。また、そのステータスがどこまで正しいのかもリテラシーであったり、情報管理の問題でもある。
「見たい」と「見せたい」で考えれば、ステータスをどこまで「見たい」のか、どのように「見せたい」のかの問題でもあるし、結局は相互問題である。「見たい」側も見せる必要があるし、「見せたい」側だってどのようにどのように見られているかをより一層意識せざる得ない。
VR、AR、MRは個人間を断絶する技術のように思えるが、どのように見ているかを共有、あるいは示せれば、世界をどのように見ているのかを共有できる可能性もある。私は、どのように見ているかを共有したい。だから、ブログをずっと書いてきたし、読みもするのだ。