新・怖いくらいに青い空

アニメ・マンガ・ライトノベル考察

マアアさんは「センシティブ」なのか

『メイドインアビス』にマアアさんというキャラクターがいる。詳細な説明は下の記事に譲るが、全身ピンク色でフサフサな毛に覆われた可愛らしい見た目をしていると同時に、人間のおっさんみたいな汚いケツが付いてるなどの残念ポイントも兼ね備えた唯一無二と言っていいキャラクターである。

kyuusyuuzinn.hatenablog.com

マアアさんは非常に可愛らしく、また、描きやすいので、私も何度かマアアさんの絵を描いてpixivにupしていた。ある日、自分が投稿した作品一覧*1を何気なく見返していたら、見慣れない表記があった。

中央の絵のタイトルと投稿日時の下に「レーティングあり」という表記がある。そこをクリックすると次のような画面になった。

ようするに、私が上げた絵がpixivの運営によって「センシティブな内容が含まれている可能性がある」と判断されたらしい。SNSで絵師の反応を調べてみると、私以外にも同じように運営によって「レーティングあり」にされた人が多くいるようだ。

注目すべきは、今回「レーティングあり」とされたのは、マアアさんのケツが描かれている絵だけだったということだ。上の画像を見ても分かる通り、両隣の絵には何も表記が無いのに、中央にあるマアアさんの後ろ姿だけ「レーティングあり」となっているのだ。

どうやら、pixivが使っているAIには、マアアさんのケツを「センシティブ」であると見分けるだけの能力があるらしい。

pixivのガイドラインでは、「センシティブな内容を含む作品」について次のように書かれている。

イラスト・うごくイラスト・マンガのいずれかを選択して投稿された作品について、当社基準に基づき、以下のとおりセンシティブな表現又は描写などの内容を含むと当社が判断した作品に対してレーティングを付与します。また、投稿ユーザーご自身が投稿画面上で「軽度な性的描写」のチェックを入れた場合は、センシティブな内容を含む可能性がある作品としてレーティングが付与されます。当社が付与したレーティングについて作品と合致しないと感じた場合、投稿したユーザーご自身は、当社所定のフォームより再チェックを申請することができます。再チェックは1作品につき1回、再投稿した場合は合計で3回の申請を行うことができます。
1. 性に関連したもの、卑猥な要素を含む表現

  • a. 下着の露出(透けている衣服やストッキング・タイツ等越しの場合も含む)
  • b. 極端に面積の少ない衣服や水着、露出度の非常に高い人物や明らかに裸体と思われる人物の描写
  • c. 胸部・腋・臀部・股間・足裏等を著しく強調した表現や露出度の高い表現(可視を際どくした場合も含む)
  • d. 衣服の脱ぎかけや破れ・透け・溶解などで肌が露出しているもの
  • e. 性行為およびその前後を連想させる表現・表情・セリフ(喘ぎ声)・擬音・ハンドサイン・その他テキスト、またはそれらを模した表現を含むもの
  • f. 性的な雰囲気を想起させる、表情・発汗・キス・身体接触・痙攣、その他の性的な状態を想起させる表現
  • g. 医療行為を性的に描写しているもの
  • h. 排泄行為・排泄物・放屁の描写またはそれらを連想させる描写を主体とするもの
  • i. 性行為等の強要や売春行為を示唆するもの

2. 極度に恐怖を与えるような暴力的な描写

  • a. 過度な出血や流血の表現
  • b. 人体や動物の切断やそれらの内臓を露出している表現
  • c. 自殺行為およびその前後を連想させる描写
  • d. 殺人行為およびその前後を連想させる描写

3. その他、当社がセンシティブな内容を含むと判断した表現

マアアさんのケツは、この中の「胸部・腋・臀部・股間・足裏等を著しく強調した表現や露出度の高い表現」に該当しそうである。

このガイドラインを見て分かるのは、pixivの考える「センシティブ」の範囲は、かなり広範囲に及び、なおかつ境界線が曖昧であるということである。

マアアさんの後ろ姿を描くことは本当に臀部を「著しく強調した表現」だと言えるのか? そもそもマアアさんは人間じゃないので露出度が高いわけでもないのでは? このような疑問は尽きない。

だが、言葉の定義についてあーだこーだ言っても意味はないだろう*2。どんなキャラクターのどんなイラストであれ、そこに人間のケツのようなものが描かれていたら、それはもう「センシティブ」なのだ。

誤解を恐れずに言えば、マアアさんとは、カリカチュアライズされたケツである。ある意味本物のケツよりもケツらしい、ケツのイデアとでも呼ぶべき存在である。だから、このマアアさんの絵が「センシティブ」とされること自体は仕方ないと思う。むしろ、pixiv(のAI)がマアアさんというキャラクターの本質を正しく理解しているのであれば、「センシティブ」認定されて然るべきであろう。

問題は、では、運営から「センシティブ」認定されたら一体どうなるのか? ということだ。今年11月5日に出されたお知らせにそのあたりの詳しいことが書かれてあるので引用する。

2024年11月中旬より、pixivの閲覧設定において、「センシティブな内容を含む可能性のある作品を表示」の項目を追加します。
今回追加する項目によって、これまでの「性的な表現を含む作品(R-18)」「グロテスクな表現を含む作品(R-18G)」だけでなく、年齢制限は必要としないものの、センシティブな内容を含む可能性のある作品についての表示方法を選べるようになります。

そして、センシティブな内容を含む可能性のある作品を表示しない設定にすると、検索する際にそのイラストが表示されなくなったり、イラストにぼかしが入ったりするようになる。

私は軽い気持ちでイラストを上げているだけなので、運営からセンシティブ認定されて、それによって閲覧数や「いいね」や「ブックマーク」が減ったところで特に気にしない。*3

だが、真面目に絵を描いてpixivで閲覧数を増やしたいと思っている人にとっては、これは死活問題になりかねない。本当にセンシティブな表現だったならまだしも、全くエロくもない画像を間違えて「レーティングあり」にされてしまったら、もうたまったもんじゃない。*4

とはいえ、本来ならR-18やR-18Gにされるべきイラストがレーティングされずに、子どもを含む全ユーザーが閲覧できる状態になっているのも、それはそれで大問題だろう*5。なので、一部のユーザーからの反発はあったとしても、運営による「センシティブ」認定は今後も続けられるだろうと思う。

ということなので、pixivにマアアさんのイラストを投稿する際は、ケツを描いてしまうと「センシティブ」認定されてしまうリスクがあることを、各位ご留意いただきたい。

*1:pixivで「自分の作品」というところをクリックすれば自分がupした作品だけを投稿した順に表示できる。

*2:例えば、『ストライクウィッチーズ』のキャラクターが履いているのはパンツではなくズボンなので、同作のキャラの絵はR-18ではない、というような主張が通用しないのと同じである。

*3:そもそもpixivでメイドインアビスの絵を見に来る人ならたいていR-18画像を見える設定にしてるだろ(あくまでも私の偏見だが)って思っているので尚更影響は少ないだろうと思う。

*4:間違えてレーティングされても異議申し立てができるんだからいいだろ、という意見もあるだろうが、話はそう単純ではない。言うまでもなく、pixivの絵は新しいほど人目に触れやすく、古い絵はどんどん新しい絵に埋もれて表示されにくくなる。そのため、upした直後に「レーティングあり」にされて、そこから異議申し立てをしてそれが通ったとしても、その間に多くの機会損失が発生してしまうのだ。

*5:本来なら作者がR-18やR-18Gにしておくべきなのに、閲覧者数が減るのを嫌って何のレーティングもせずにupされてる絵も相当数あるのだと思われる。

ゴジラ映画感想まとめ

今年は1954年にゴジラの第一作目が公開されてから70年という節目にあたる。それを記念して各放送局でゴジラ映画が放送されているので、見れる分は全部見てみた(ずっと昔に見ていた映画もあれば、今回初めて見た映画もある)ので、簡単に感想をまとめておく。

ゴジラ

  • 第一作目であるにもかかわらず、怪獣映画に必要なものが全て描かれている。例えばゴジラ上陸シーンでも、ゴジラの姿、逃げ惑う人々、壊れる家屋などを、カットを細かく分けて見せてくるからメチャクチャ臨場感がある。ただ怪獣が歩いてるだけ、ただ怪獣が自衛隊とドンパチしてるだけ、みたいな単純なカットがほとんどなく、全てが計算しつくされている。
  • 最近のゴジラは熱線を溜めに溜めて吐き出すので、一回熱線を吐くだけで原爆が落ちたような惨状になるが、第一作目のゴジラは特に溜めなく何度も熱線を吐くので、巨大な爆発は無いが最終的にはあたり一面火の海になっている。米軍の焼夷弾で何十万人もが焼け死んだという強烈なトラウマが、初代ゴジラの描写にも反映されてるように見える。

ゴジラvsビオランテ

  • ビオランテの造形は今見ても古さを感じないし、CGない時代にこれを動かせるのは本当にすごいと思う。逆に、スーパーX2とかいう自衛隊の兵器がびっくりするほどダサいのが残念(宙に浮かしとくだけだから撮影は楽だろうなとは思う)。
  • 「勝った方が我々の敵になるだけ」という台詞に象徴されるように、平成ゴジラシリーズのゴジラは人類の味方ではない。だが、明確な悪意があって日本を襲ってくるのかと言えばそういうわけでもない微妙な立ち位置をとっている。これは原発をモチーフにしていることが明らかで、作中の人々は時にはゴジラと対峙し、時にはゴジラが別の怪獣と戦うのを静観し、時にはゴジラを利用するという曖昧な対応をとる。登場人物がしきりにゴジラの体温を気にしてる(ゴジラに打ち込んだ抗核バクテリア弾が低温だと効き目がないため)のも、ゴジラ=原発という図式を強調するかのよう。
  • ビオランテを生み出した全ての元凶である白神博士が、終盤でもまるで他人事で解説役みたいな感じでいるのが何か笑える。「いや、一応、最後殺されて報いは受けてるけどさあ…」ていう感じ。

ゴジラvsキングギドラ

  • 23世紀からやってきた未来人が、超大国となった日本の国力を削ぐために20世紀にやってきて、キングギドラに日本を襲わせるという内容で、バブル景気でウハウハだった時代を象徴するテーマ設定。だが、タイムパラドックス等のSF考証についてはガバガバすぎてツッコミ入れる元気すら無くなるレベルである。
  • 23世紀のアンドロイドとの戦闘シーンは、合成映像があまりにも不自然すぎて逆に笑っちゃうレベル。同年(1991年)にターミネーター2が公開されて比較されちゃうのは不運といえば不運だが。ちなみに、作中で未来人がソビエトと言ってるが、ソビエト連邦は映画公開の1か月後に崩壊した。

ゴジラvsモスラ

  • そもそもモスラ&バトラが何でゴジラと戦ってるのかよく分からないし、脚本も稚拙で勢いだけで誤魔化そうとしてる感がある。あと、モスラを吊るしてるワイヤー見えちゃってるのがなんか笑った。
  • 主人公の男、最後は何か良い感じに終わってるけど、タイで盗掘してたり、小美人を売り飛ばそうとしてたりと、よくよく考えるとコイツやべー奴やぞってなる。
  • 怪獣史上最高にもふもふなモスラ、愛おしい。

ゴジラvsメカゴジラ

  • 脚本がひどすぎるし、登場人物腹立つ奴多くてイライラしてくる。独断専行の隊員、パワハラ上司、無能な指揮官。見るからにヤバいって分かる卵、日本に持ってきたらアカンって、モスラ戦のとき学ばなかった?
  • ただの殺戮兵器だったメカゴジと違い、ゴジラは守るべきもののために戦ってたというラスト。シリーズが進むにつれて何故か脚本がゴジラ側に感情移入するように変わっていくのが、昭和のゴジラシリーズと共通してるのが興味深い。

ゴジラvsスペースゴジラ

  • リトルゴジラに萌え死ぬ。岩山から顔出すリトル、爆弾にビビるリトル、スペゴジにいびられるリトル、すべてが愛おしい。「リトル」とは言ってるが(人間に比べれば)だいぶデカいのもまた萌えポイント。
  • 前作・前々作に引き続き脚本はだいぶひどい。バース島行ってた3人組が何故かモゲラ操縦。鹿児島から福岡(スペゴジのいる所)目指してるのに何故か大分経由するゴジラ。命令無視してゴジラ叩きに行く隊員。

ゴジラvsデストロイア

  • 核爆発(orメルトダウン)寸前のゴジラにデストロイアをぶつけて何とかしてもらおうとかいうメチャクチャなストーリーを、ゴジラの最期という感動シーンでどうにか誤魔化してまとめたっていう感じ。
  • ゴジラという人類の脅威に対応するために作られたオキシジェン・デストロイヤーが、また新たな怪獣を生み出してしまうという皮肉。ゴジラやデストロイアの誕生も元はと言えば全て人間のせいなのに、何も悪いことしてないゴジラジュニアすら利用して醜く足搔く人類の姿。ゴジラの死と共にまき散らされる大量の放射能によって、人間はその報いを受ける。自然をコントロールしようとすること、自然の驚異に打ち勝つことができると考えること自体が、大いなる間違いなのだという強烈なメッセージ性。にもかかわらず、最後、デウス・エクス・マキナでジュニア復活&放射能減少で、なんじゃそりゃ?って力が抜ける。

ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃

  • 監督は平成ガメラシリーズで有名な金子修介氏。だが、平成ガメラとは比べ物にならないくらい稚拙でご都合主義な展開、安っぽいCGの多用(こればっかりは当時の技術ではどうしようもない面もあるのだろうが)など、残念感が拭えない作品。しかし何といっても、この作品のゴジラの設定に強い拒否感を覚えてしまう。
  • 本作でゴジラは、第二次大戦で亡くなった人々の怨念の集合体とされ、明確な悪意を持って堕落した現代日本に襲い掛かってくるという設定。対するモスラ・キングギドラ・バラゴンは、古代日本に封印された護国聖獣という設定。これらの設定について、個人的には、無いわ~、マジで無いわ~、ってなる。でも、よくよく考えたらどうしてこの設定にこんなにも拒否感あるんだろう(むしろ「ゴジラは何故東京を襲うのか」という長年の疑問に答えられるという意味では良い設定ですらあるのに)と思い、自分の心の中を分析してみる。おそらく拒否感の理由は2つあって、①「怨念」みたいな言葉が出てくるせいでSFという体裁が引き剝がされ、非科学的で胡散臭いオカルトに接近してしまってる、②怪獣はあくまでも「生物」であってほしい、人間を殺す(または守る)みたいな明確で人間本位な行動はしてほしくないという気持ち。そして、これら2つはガメラ3の時点でその片鱗が出てたので、それが悪い形で表出しちゃってるなあという印象。
  • 平成ガメラシリーズでも思ったけど、調子こいたパリピが酷い死に方するシーンを撮らせたら金子監督の右に出る者はいないと思う。
  • 平成ガメラシリーズから受け継がれる、オタサーの姫的ヒロインとその周りをうろつく男達、という構図。
  • 作中ですぐ殺されるうえにタイトルにすら入れさせてもらえないバラゴンがただひたすらに可哀想。

GODZILLA ゴジラ

  • いわゆるレジェンダリー版ゴジラ。エメリッヒ版と違い日本版ゴジラへのリスペクトがある良作という声も多いが、正直、期待外れだった。あと、終始画面が暗すぎて何やってるかよく分からなかった。
  • 核兵器を人力で運ぶシーンで苦笑。米国人って核兵器をメッチャ威力ある爆弾程度にしか考えてないんだろうな。

シン・ゴジラ

劇場公開時にすでに感想を書いてるのでリンクを貼っておく。
『シン・ゴジラ』感想―日本が世界に示した第3の道、それはパンドラの箱を開けたのか? - 新・怖いくらいに青い空

ゴジラ-1.0

  • 神木隆之介・吉岡秀隆をはじめとする俳優陣の過剰な演技や、映像だけで分かるのに台詞で何度も説明しちゃうしつこさが鼻につき、悪い意味で山崎貴監督の味が出ちゃってる映画。一方で、ゴジラとの戦闘描写や破壊される街の描写は、アカデミー視覚効果賞をとるだけあって、これまでの日本のゴジラ映画の中でも断トツでクオリティが高い(平成のゴジラ映画のCGの残念さを散々見せられてきたことを思えば実に凄まじい進歩である)。
  • ストーリーとしては完全に、神木隆之介演じる敷島と初代ゴジラの芹沢博士を重ね合わせて描いている。敷島は戦後の東京で典子・明子と暮らし始めるが、いつまで経っても典子と結婚することもせず宙ぶらりんな共同生活を続けている。これは、許嫁との婚約を破棄して独りでオキシジェン・デストロイヤーの開発に没頭した芹沢と状況が全く同じで、芹沢も敷島もゴジラと対峙することで自分の中で続いている戦争を終わらせようとする。そして、芹沢がゴジラと刺し違えること(特攻)を選んだのに対して、敷島は生きて帰還を果たすという対比構造になっている。だが、その演出があまりにもあからさまで、中盤ぐらいからもう脱出装置付いてるオチが分かっちゃうのが残念。

まとめ

子どもの時は楽しく観ていた作品も、大人になって見返してみるとだいぶ粗が気になっちゃうなあ、というのが正直な印象。だが、そういう残念な点もひっくるめて、ゴジラ映画が持つ歴史の重みを再認識させられた。1954年から今日に至るまでに作られたゴジラ映画の数々、それは、世界中のクリエイター達がゴジラという怪獣をどう解釈し、ゴジラにどう立ち向かったのかを示す壮大な記録である。それは、核兵器や環境破壊への警鐘、そして、我々人間とはいったい何なのかという壮大な問いへと繋がっている。

特に近年のゴジラ映画について言えば、核兵器との関連は依然としてありつつも、もっと別の脅威と関連づけられることが多いと思う。例えば、ゴジラの倒し方について言えば、

  1. チート兵器(オキシジェン・デストロイヤーとか)で撃退する方法
  2. 他の怪獣をぶつけて撃退する方法
  3. プロジェクトX的ゴジラ撃退法

が考えられるわけだが、そのうち『シン・ゴジラ』も『-1.0』も3番目を採用してる。津波などの巨大災害のメタファーとしてゴジラを捉えているからこそ、世界の叡智(あるいは日本の技術力)を結集して人々が力を合わせてゴジラを倒す、というストーリー展開が採用されるのだと思う。この傾向が今後も続くのであれば、地球温暖化やコロナ禍などを連想させるようなゴジラ映画も出てくるかもしれない。

小市民シリーズ第5話「伯林あげぱんの謎」―原作とアニメの相違点まとめ

個人的に備忘録とするためまとめました。一応、原作ネタバレ有りなので注意。

原作の描写

激辛揚げパン事件の時期

  • 小鳩1年生の12月ごろ

激辛揚げパン事件の時の部員

  • 部長…2年生。別の記事を書くとかいう理由でゲーム不参加。
  • 洗馬…2年生。男子。揚げパンを準備。辛いの苦手&バンド参加のためゲーム不参加。飯田不参加の件は知らなかったので揚げパンは5個用意。
  • 飯田…1年生。男子。あんまり部室に来ない幽霊部員で、ゲーム不参加。
  • 堂島…1年生。男子。小鳩に事件解決を依頼。
  • 門地…1年生。男子。真木島と仲悪い。部室に誰か来たら気付くはずと言い張るが実際は気付かず。
  • 真木島…1年生。女子。門地と仲悪い。揚げパンの記事書くことを提案。洗馬と幼馴染。飯田不参加の件を洗馬に伝えたと言い張るが実際は伝わっておらず。
  • 杉…1年生。女子。机の上のお盆をどかす。

小佐内さん

  • 激辛揚げパンを1/5の確率で引き当てる。そして泣く。可愛い。

秋期限定前半時点の部員

  • 堂島…2年生。男子。部長。
  • 門地…2年生。男子。他人に文句ばっか言ってるくせに自分からは何も建設的な提案はしない奴(瓜野 談)。
  • 五日市…1年生。男子。真面目だが小心者(瓜野 談)。
  • 岸…1年生。男子。いい加減でやる気ない奴(瓜野 談)。
  • 瓜野…1年生。男子。小佐内さんにボッコボコにされる。
  • ※前部長と洗馬はすでに引退してる。
  • ※何故か真木島・杉・飯田もいつの間にか退部してる。

アニメの描写

激辛揚げパン事件の時期

  • 小鳩2年生の4~5月ごろ

激辛揚げパン事件の時の部員

  • 洗馬…3年生。男子。揚げパンを準備。辛いの苦手&バンド参加のためゲーム不参加。瓜野不参加の件は知らなかったので揚げパンは5個用意。
  • 堂島…2年生。男子。小鳩に事件解決を依頼。
  • 門地…2年生。男子。真木島と仲悪い。部室に誰か来たら気付くはずと言い張るが実際は気付かず。
  • 真木島…2年生。女子。門地と仲悪い。
  • 五日市…1年生。男子。机の上のお盆をどかす。
  • 瓜野…1年生。男子。生意気。くだらない記事書きたくないとか言ってゲーム不参加。

小佐内さん

原作とアニメの違い

  • 事件が起きた時期……原作は小鳩1年時。アニメは2年時。
  • 揚げパン食べた部員……原作は堂島・門地・真木島・杉。アニメは堂島・門地・真木島・五日市。
  • 欠席した部員……原作は飯田。アニメは瓜野。
  • ゲーム参加者が4人であることを洗馬が知らなかった理由……原作では、洗馬と一番仲のいい真木島がメールで伝えていたが、そのメールは無視されていたため伝わらず(真木島はその事実を部員に知られたくなくて、支離滅裂な嘘付いて誤魔化そうとしてたが、小鳩に見抜かれる。)。アニメでは、ただ単にみんな連絡するの忘れてただけっぽい。

大切なことはすべて黒江真由が教えてくれた

黒江真由と部活動

『響け!ユーフォニアム3』、この怪作を私の中でどう整理すればいいのか、いまだに答えを出せずにいる。そんな状況の中、分かったことがある。

どうやら私は、自分で思っている以上に、黒江真由に肩入れしてこの作品を見ていたらしい。黒江真由というキャラクターは、原作でもアニメでもその真意を知ることが難しくて、あまりにもミステリアスで、それでも私は彼女に親近感のようなものを覚え、彼女のことを応援したいと思った。

何故そんな気持ちになったのだろう。私が子供のころからずっと福岡に住んでいたから、北宇治に来る前に福岡にいた黒江真由に対して勝手に親近感を覚えているだけかもしれない。だが、私が惹かれている最大の理由は、真由がどこまでも「正しい」人だからだと思う。*1

例えばアニメ3期の第3話、同級生が先輩から厳しく叱責されてるのを見て部活に来れなくなってしまった義井沙里。心配した久美子は沙里の家へ向かおうとするが、その時真由が「そんなに大げさにすることかな?」「部活辞めるって普通にあることでしょ?」と口を挟む。この真由の考え方は、悪く言えば、個人主義的で冷淡だ。私が久美子と同じ立場の高校生とかだったら、真由の発言に反感を覚えたかもしれない。

けれども、大人になった今、真由は正しいことを言ってるんだと分かる。何かの部活に所属するのも、辞めるのも、すべては本人の自由だ。もしそれを認めないとしたら、この社会は多くの人にとってとても生きづらいものになる。

もちろん、正しいことをすることが必ずしも最善の結果を招くとは限らない。実際、久美子が話を聞きに行ったおかげで、沙里も部に戻ることができたし、結果的にそれで事態は良い方に進んだと思う。けれども、それはあくまでも結果論であって、辞めるのも続けるのも基本的には個人の自由だという大前提を崩してはいけない。メンバーが辞めたり休部したりするのを許さないような空気は、とても危険だ。「誰ひとり落伍者を出したくない」という久美子の考え方は、場合によっては非常に危うい思想に繋がりかねない。

初心者に対して厳しく当たる麗奈の指導方針も、パワハラに繋がりかねない危険な態度だと思う。私は何も麗奈だけを責めたいわけではない。1年生を泣かせた麗奈にも反省すべき点はあると思うが、そもそも他の3年生は何をしていたのか? 麗奈以外にちゃんと後輩を指導できる3年生はどれくらいいるのだろう? 後輩を厳しく指導する役割を麗奈にだけ押し付けてはいないだろうか? だとしたらそれは、麗奈だけの問題ではなく、北宇治高校吹奏楽部という組織そのものが抱える問題だ。

部活のような閉じられた組織に所属する人は、その組織が抱える問題を認識することが難しい。高校生のようにまだ若い人なら尚更だ。そんな中でも真由は、一歩引いた立ち位置から、冷静に、客観的に物事を見ることができる。北宇治の部員達が当たり前に思っていることの中に潜む「危うさ」に気付き、それを指摘することができる。黒江真由とはそういう人だ。そういうキャラクターが私は好きだ(私が中川夏紀を好きなのも同じ理由からかもしれない)。

黒江真由は、どこか冷めたものの見方をしていて、高校生にしてはとても達観している。そんな性格だからこそ、オーディションを巡って真由と久美子との考え方の違いが浮き彫りになり、物語が大きく駆動していくこととなる。

黒江真由はオーディションで手を抜いたのか問題

原作読者の間でずっと言われ続けてきたことがある。それは、黒江真由が実はオーディションで全力を出してなかったのではないか?、という疑念だ。そういった声が出てくる理由は主に3つあると思う。

第一に、黒江真由は何度もオーディションを辞退したいと主張していた。真由が吹奏楽をやっているのは純粋に合奏が好きだからであって、ソリを誰が吹くかということについては特に「こだわり」はない。だから、自分がソリに選ばれて他の誰かが悲しむくらいなら、自分はオーディションを辞退したい。それが真由の一貫した主張であり、実際にそれを実行したのではないか。

第二に、真由がオーディションでわざと下手に吹いたと考える方が話の辻褄が合いやすい。原作ではソロオーディションの結果、府大会は久美子、関西大会は真由、そして全国大会は再び久美子がソリに選ばれたが、短期間でこんなに結果が変わることが有り得るだろうか。オーディションのたびに結果が変わるくらい2人の実力が拮抗していたと考えることもできるが、やはり、真由が全国大会前のオーディションでは全力を出してなかった、と考えるのが自然ではないのか。

こんなふうに理屈を考えることはいくらでもできるが、実際のところ「真由はオーディションで全力を出さなかったのでは」と考えてしまう最大の理由は、我々読者が真由にそうあってほしいと願っているからではないだろうか。原作小説の最終楽章に登場した黒江真由は、黄前久美子の前に立ちはだかるラスボスのような存在である。だからこそ私たちは真由に、最後まで強キャラであってほしい、久美子の思い通りに動くような存在にはなってほしくない、と願ってしまう。これが第三の理由。

久美子にとって、ソリを勝ち取って麗奈と並び立つことは、全国大会で金賞を取ることと同じくらい重要である。でも、そのためには自分だけでなく相手も全力でオーディションに臨んでいなければ意味がない。久美子は、3年生だからとか、部長だからとかではなく、実力によって自分が選ばれたのだという証が欲しいのだ。だから真由から辞退しようかと声をかけられるたびに久美子は、これまで田中あすかや鈴木美玲や久石奏や義井沙里と対峙してきた時と同じように、黒江真由の心を刺そうと試みてきた。ところが、久美子の攻撃は真由には一切通用しない。それはある意味、久美子にとって初めての、そして唯一の敗北である。

我々読者は黒江真由の中に「黄前久美子が唯一敵わなかった人物」という理想像を見ている。だからこそ、「真由はオーディションで手を抜いたのでは」という問いは何度もリフレインされ、そうであってほしい、いや、そうであるに違いないという我々の気持ちは強化される。

ところが、アニメ3期12話によって、「オーディションで手を抜いたのでは」という説は完全に否定されることとなる。常に曖昧で霧に包まれていた黒江真由という存在が、12話を見たことで一気に視界が開け、明瞭に見えるようになっていく。ああ、そうか、そういうことだったんだ…。

考えてみれば当たり前のことだった。黒江真由は子どもの頃から転校を繰り返してきた。おそらく真由は転校するたびに、せっかくできた友達と別れ、全く新しい環境で生活することを強いられてきたのだろう。真由の心は、寂しさや、不安や、孤独感でいっぱいだった。そんな中で彼女を支え続けてくれた唯一のものがユーフォニアムだったのではないだろうか。*2

自分と希美とを繋ぐものはオーボエしかないと思い詰め、死に物狂いで練習していた鎧塚みぞれのように、真由もまた、演奏技術を上げるために並外れた努力を続けていたに違いない。黒江真由にとってのユーフォニアムとは、後藤ひとりにとってのギターのようなものなのかもしれない。それは、自分と世界とを繋げてくれるただ一つの存在であり、孤独で押しつぶされそうな自分を支えてくれる、大切な相棒のような存在だったのかもしれない。

だからこそ、真由は自分の演奏に嘘はつきたくないし、わざと下手に吹くのは自分のプライドが絶対に許さない。たとえ「ソリをやりたくない」「ソリは久美子ちゃんがやればいい」と思っていても、いざオーディションになったら本気で吹かざるを得ない。

だが、真由は気づいてしまった。北宇治は、久美子が考えているほど実力主義を徹底しきれていないということ。そして、もし自分がソリに選ばれれば、必ず部内の雰囲気は悪くなり、自分や他の部員が傷つく結果になるということ。

だから真由は、何度も久美子にオーディションの辞退を申し出た。だが、久美子は「北宇治は実力主義」の一点張りで聞く耳を持たない。結局、関西大会前のオーディションで真由がソリに選ばれることとなり、まさに真由が懸念していた通り、部内の空気は最悪のものとなってしまう。

この頃の北宇治の状況は、真由にとってはまるで針の筵だっただろう。真由は焦っただろう。どうして久美子は自分の気持ちを理解してくれないのかと苛立ちを覚えたりもしただろう。それでも真由が自らオーディションを辞退しなかったのは、上で見てきたように、ユーフォ奏者としてのプライドがあったからだろう。

だが、本当にそれだけが理由だったのだろうか、と私は思う。苦しい状況の中でも黒江真由が戦い続けたのは、自分が信じている「正しさ」を貫き通すためだったのではなかろうか。

黒江真由の戦い方

久美子や滝先生の下で「実力主義」を掲げ一致団結する部員の中で、ただ一人、その空気と抗い続けた黒江真由。孤独な彼女を支えていたのは、心の中にある「自分は間違っていない」「間違っているのは北宇治の方だ」という信念だったのではないだろうか。もちろん、釜屋つばめを筆頭に、真由と向き合ってくれた部員の存在も大きかっただろう。だが結局、真由を突き動かしていたのは、心の奥底にある信念だったように、私は思うのだ。

真由はオーディションに勝って自分の力を証明したかったわけではないし、北宇治のためにソリを久美子に譲ろうとしていたわけでもない。黒江真由は、このオーディションを通じて、久美子が抱える矛盾、ひいては、北宇治高校吹奏楽部の中に蔓延る矛盾を、あぶり出そうとしていたのだ。

北宇治は間違っている。今の北宇治のあり方(これは北宇治だけでなく多くの吹奏楽強豪校に言えることかもしれないが)は、本来楽しいものであるはずの音楽を、ひどく違った形に歪めてしまっているから。北宇治が目指しているのは、上手い演奏ではなく、ただ全国金を取るためだけの、コンクールに迎合した音楽でしかない。

北宇治は間違っている。北宇治が掲げている「実力主義」という看板は、どこまでいっても建前でしかないから。選考する滝先生ですら判断が揺らいでいる現状では、本当に公平なオーディションなど存在し得ないし、そもそも、真由が関西大会のソリに選ばれた時の部員の反応からして、北宇治が実力主義を徹底しきれていないことは明らかである。

北宇治は間違っている。強引に「実力主義」を突き詰めていった先には、部員どうしが激しくぶつかり合って、みんなが傷つき悲しむ未来しか待っていないから。そして、そのような環境下ではいつも、真由のような、本当にオーディション結果に興味がない、ただ合奏を楽しみたいだけの人が、居場所を失い苦しむことになるから。

真由は声を大にして叫びたかった。本当はオーディションやコンクールなど投げ出してしまいたかった。それでも彼女は、自分の演奏に嘘はつけなかった。自分からオーディションを辞退することはできなかった。真由は、最後まで相手の土俵で戦うことを選んだ。

私は以前書いた記事(『響け!ユーフォニアム』で描かれるオーディションの「理不尽さ」について)の中で、久美子や麗奈はいずれ吹奏楽が持つ「理不尽さ」に向き合わなければならないと述べたが、真由はずっと前から、真由のやり方で「理不尽さ」と向き合っていた。

そんな真由の態度は、かつて奏が言っていたように、北宇治や久美子を侮辱しているように見えることもあった。真由の真意が分からず、困惑する視聴者もいた。もしかしたら、彼女自身も混乱していて、自分で何をしているのか分からなくなっていたのかもしれない。だが、そんな混乱した姿もひっくるめて、オーディションや演奏に向き合う自分の姿勢すべてを、北宇治の部員たちに見せつけることこそが、真由の戦い方だった。

オーディションの辞退を何度も断られたことで、真由は腹をくくったのだと思う。真由は、堂々と負け戦に臨み、最後まで悪役のまま散っていこうと覚悟していた。オーディションに勝って、また部員から陰口を叩かれて、そらみたことかやっぱり北宇治が実力主義なんて嘘っぱちじゃないか!って、連中を鼻で笑ってやろうとしていた。

それが全部員による投票方式に変わったところで、真由のやることは同じだ。久美子部長への忖度丸出しの結果を前にして、やっぱり久美子ちゃんの言ってたことは嘘だったんだねって嘲り笑ってやろうと決めていたのだと思う。

同じことを私達「真由派」の視聴者も思っていた。真由には最後の最後まで「最強のラスボス」を演じてほしかった。北宇治というアウェーの中でも決して逃げることなく、正々堂々と戦って散っていった悲劇のヒロイン。そして、死ぬ間際に、北宇治が掲げる「実力主義」というハリボテに強烈な一撃を食らわせた唯一無二の存在。最後まで誰にも染まることなく、自分を貫き通した、『響け!ユーフォニアム』史上最強のラスボス。私たちは黒江真由の中に、そんなダークヒーロー的な美学を見出そうとしていた。

それが12話の再オーディションで全てひっくり返った。

久美子は、演奏者が誰か分からないようなオーディション形式を提案し、徹底的に実力主義にこだわった。麗奈と一緒にソリを吹きたいという本心を犠牲にしてでも、自らが信じる実力主義という正しさを貫き通そうとした。それは、真由の決意を凌駕する圧倒的な決意だった。そのあまりにも悲壮な覚悟をまざまざと見せつけられて、真由にはもう成す術がなかった。

また、断片的ではあるが黒江真由の過去が明らかになったことも大きかった。原作において真由を特別なラスボスにしていた要因は、今の真由を形づくる「カギ」がどこにもないという事実、少なくとも、久美子や読者にはそれが分からないという事実に他ならなかった。例えば、鈴木美玲の場合には、練習に対する考え方の違いや鈴木さつきとの確執、久石奏の場合には、中学時代のオーディションが、重要なカギだった。久美子はそのカギをうまく見つけ出すことで、彼女たちの心を刺してきた。田中あすかや義井沙里に対しても同じことをした。それは、干し草の山から一つのカギを見つけるようなものだった。

ところが、原作の黒江真由の場合には、そのやり方が通用しない。真由を構成する干し草の山の中に、カギなど存在していなかった。何の変哲もない無数の干し草の山、それ自体が黒江真由に他ならなかった。だからこそ、原作では久美子は真由の心を刺すことができなかった。そのことが、真由を作中において唯一無二の存在たらしめていた。

その唯一性が、アニメのオリジナル展開によってついに崩れ去った。清良時代にオーディションで切磋琢磨していた友達が、結局最後にはユーフォをやめてしまったという悲しい過去。それがあるからこそ、真由はオーディションやコンクール結果などどうでもよくて、楽しく合奏ができればそれでいいと思うようになった。だが、それでも、自分から辞退はしたくない、自分の演奏に正直でありたい、という葛藤もある。これこそが真由の心の中にあるカギだった。このカギを久美子に見つけられた時点で、真由の「敗北」は確定的となった。

真由は、最強のラスボスとして美しく負けることすら許されなかった。黄前久美子が敵わなかった唯一の人物として久美子や他の部員や我々視聴者の心に深く刻み込まれることすら許されなかった。久美子が示した圧倒的な覚悟を目の当たりにして、真由は救われ、そこで初めて真の意味で北宇治高校吹奏楽部の一員となれた。だが、それは黒江真由が黄前久美子と北宇治に敗れ去った瞬間でもあったのだ。

では、黒江真由は間違っていたのか? 何度も何度もオーディションを辞退したいと言って、北宇治の空気に抗い続けていた真由の行動は、すべて無意味だったのか?

いや、決してそんなことはない。最後に、黒江真由が我々に残してくれたものについて考えることとしよう。

黒江真由が教えてくれたこと

『響け!ユーフォニアム』は、久美子が北宇治高校に入学し卒業するまでの3年間を描いた作品だが、最初の原作は2013年に発売され、今年2024年にアニメ3期が放送されたので、もう10年以上にわたって続いているコンテンツである。その間に、日本の部活動を取り巻く環境や、部活動の在り方そのものが、大きく変化してしまった。

第一に、これまで見て見ぬ振りをされてきた部活動における不祥事などが問題視されるようになった。これまでは隠蔽されることが多かった部活動における体罰やその他の不適切な指導、部員間のいじめなどの問題が、ネットで拡散されて炎上したり、時にはマスコミや警察が介入して問題になることが増えた。それに伴い、あまりにも厳しい上下関係や、非科学的で危険な練習方法などが見直され、より科学的な指導を行う学校が多くなった。

第二に、部活指導を行う教員の労働環境改善を求める声が大きくなった。これまでの学校の部活動は、土日も休みなく働く先生たちの自己犠牲によって成り立ってきたが、そのような歪なシステムは限界に近付きつつある。働き方改革が叫ばれる中で、部活動の顧問になることを拒否する先生たちも出てきた。教員ではなく地域にいる指導者や保護者などが主体となって部活動を行おうという動きも出てきた。今後、少子化や人手不足がさらに進めば、学校単位での部活動という枠組みを維持することはますます難しくなるだろう。

第三に、部活動そのものの必要性や存在意義が問われる時代となった。上で挙げたような変化に加え、地域社会の変容、価値観の多様化、そしてコロナ禍が、部活動のあり方を大きく変えようとしている。それは部活に限らず、多くの子どもが一か所に集まって一つの目標に向かって活動をする事自体の意味が問われている。それには何の意味があるのか? 将来何の役に立つのか? それは他の事を犠牲にしてまでやるべきことなのか? やりたくない子どもにまで強制的にそれをさせるのは本当に正しいのか? 生徒や保護者や地域社会からの様々な声が渦巻く中で、現場の先生達は一体何が正解なのか判断することが難しくなっている。

学校や教育に関する暗いニュースを耳にするたびに、私は黒江真由の姿が脳裏に浮かぶ。部活というシステムが孕む理不尽さ。行き過ぎた勝利至上主義。単一の価値観を押し付けることの危うさ。すべては、黒江真由が警鐘を鳴らしてくれていたことだった。

こんな激動の時代に、あえて教員という職業を選んだ黄前久美子の未来は、決して順風満帆とはいかないだろう。

全国大会金賞よりもはるかに大きなものを得て成長した久美子は、きっと良い先生になる。松本先生のように、生徒から慕われ、生徒と一緒に思い悩み、未来への道を指し示すことができる、そんな立派な先生になる。滝先生のように、吹奏楽部を率いて華々しい活躍を見せる日も来るかもしれない。

でも、その背後にはいつも、様々な事情によって苦しんでいる、第二、第三の黒江真由がいる。

その時、久美子は彼らに手を差し伸べることができるのか?

きっとできるだろう。剣崎梨々花はかつて「久美子先輩って才能ある子好きですよね」と言っていたが、黒江真由と出会って成長した久美子なら、才能ある子にもそうでない子にも、誰に対しても平等で、苦しんでいる子に手を差し伸べられる先生になるだろう。孤独の中で必死にもがき苦しみながら、それでも自分の信念を守り通そうと戦っていた黒江真由の姿が、久美子の背中を押すのだ。あの日、黒江真由に手を差し伸べたという事実が、大人になった久美子を支え続けるのだ。

大切なことはすべて黒江真由が教えてくれた。

久美子だけじゃない。私たち視聴者も、黒江真由から大切なことを教わった。自分を貫き通そうとする気高さ。理不尽さと向き合う強さ。真由自身は何も語らないが、それでも、真由の生き様そのものが、人生において大切なことを何よりも雄弁に物語っている。

*1:ご存じの通り、武田綾乃氏が書いた原作小説と、京都アニメーション制作のアニメ版とでは、ストーリーが異なっている部分が多くあり、それに伴って黒江真由のパーソナリティも原作とアニメとでは大きな違いが見られる。本記事は、基本的にアニメ『響け!ユーフォニアム3』のストーリーをもとにして、黒江真由の行動や内面について考察を行ったものなので、その点をご理解の上、本記事を読んでいただけたら幸いである。

*2:実際のところ、この解釈についてはまだ議論の余地があると思っている。原作小説では真由は親の仕事の都合で何度も転校を経験してきたという設定となっているが、アニメ版についてはそのような事は言及されていない。しかし、本記事ではひとまず、アニメ版の真由も原作と同様に何度も転校を繰り返してきたと考えることにする。

『ガールズバンドクライ』第10話と『銀河鉄道の父』について

2024年6月23日、あいにくの雨模様だったが、ガルクラ第10話の聖地巡礼してきた。

井芹家の最寄り駅、JR豊肥本線・竜田口駅。付近には熊本大学をはじめ、多くの学校がある。仁菜の父・宗男は有名なカリスマ教師という設定らしいので、この近くにあるいずれかの学校の関係者なのかもしれない。
仁菜がかつて通っていた高校の最寄り駅、熊本市電・洗馬橋停留場。熊本城の真下に位置する城下町で、童謡「あんたがたどこさ」の歌詞に出てくる船場山はこの近くにあったとされる。

第10話で高校の最寄り駅が出てきたことで、図らずも仁菜について様々なことが判明した。洗馬橋駅のすぐ近くにある熊本県立第一高校は県内でも指折りの進学校である。公式ホームページのキャラ紹介では、仁菜について「やや引っ込み思案の普通の女の子。小中高と目立たない存在で、成績もごく普通。」などと書かれているが、本当はとても頭の良い子なのだと分かる。おそらく仁菜は、子どもの頃からずっと親の期待に応えて真面目に勉強をしてきたのだろう。そして、頭が良いからこそ、周囲の人から向けられる悪意や、大人たちの事なかれ主義みたいなものを敏感に感じ取ってしまって、それを許すことができなくて学校を中退し、家を飛び出してしまったのだろうと思う。

こうして熊本での仁菜の様子が垣間見えてくると、『ガールズバンドクライ』第10話は門井慶喜『銀河鉄道の父』と構造がよく似ていると思うようになった。宮沢賢治も井芹仁菜も、どちらも地方都市(花巻・熊本)の裕福な家に生まれて、厳格で真面目な父と対立して実家を飛び出してしまう。それでも親が子に向ける無償の愛は何ひとつ変わることなくて、最後は親子がお互いに少しだけ歩み寄る形で和解して、そのなかで伝統的な家父長制も解体される。ガルクラにおいては「家訓」が、『銀河鉄道の父』においてはちゃぶ台*1が、それをよく象徴するアイテムだと思う。

そんなふうに考えていくと賢治と仁菜は他にもいっぱい共通点があって、例えば、父親と不仲になってる間もきょうだい(賢治の場合は妹のトシ、仁菜の場合は姉の涼音)とは深い絆で結ばれていた点などまさにそうだと思う。

*1:今ちゃぶ台と聞くといかにも古臭い保守的なイメージだが、家族内の序列に関わらず家族全員が同じテーブルを囲って食事することは、当時としては先進的なスタイルだった。