kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

故稲尾和久氏が暴露していた「燃える男・星野仙一」の正体

昨年亡くなった稲尾和久氏が、かつて日本経済新聞に掲載した「私の履歴書」で、「燃える男」星野仙一の正体を暴いていた。

以下引用する。

 こんなことがあった。星野先発の試合、3点リードで七回まできた。球威が落ち始めていた。ピンチを招いてわたしがマウンドに向かうと、右のこぶしでグラブをバンバンたたき、いかにも元気いっぱいの様子。ところが「どうだ」と話すと「見てわかるでしょう。駄目ですよ。リリーフを用意してください」。
一体この態度と会話のズレは何なのか。引っ掛かりを覚えながらも、行けるところまでということにしてベンチに帰った。

八回またピンチになる。さすがにもう限界だ。再びマウンドに行くと、そこでも彼はピンピンしている様子で、疲れなどおくびにも出さない。しかし話はもう次の投手のことだ。「だから駄目だって言ったでしょう。ところで次は誰ですか」などと平気で交代を前提とした話をしてくる。「孝政(鈴木)だよ」というと「あいつ調子悪いですよ、大丈夫ですか」などと実に冷静だ。
とにかくマウンドを降りるのは本人も納得だと思い、監督に交代の合図を送った。私がマウンドで手を頭にやったら続投、後ろ手に組んだら交代、腕組みをしたら監督の判断に任せる、という取り決めだった。

交代となって、鈴木が出てくる。マウンドを降りていく星野。ここで彼の態度が一変するのである。憤然とベンチに向かったかと思うとグラブを地面にたたきつけた。納得の交代ではなかったのか。おまけに鈴木が打たれて追いつかれたのがまずかった。無念を示した星野のパフォーマンスに興奮していたファンから、「なぜ星野を代えた」と野次の集中砲火を浴びて、こちらもほとんど火だるま状態になってしまった。

翌日星野を問い詰めた。「おい、昨日の態度は何だ。あれじゃまるで無理やり代えたみたいじゃないか」。その答えがふるっていた。
「稲尾さんはまだ名古屋にきたばかりで知らんでしょうが、私は燃える男といわれとるんです。どんな状況でも弱気なところは見せられんのです」

『神様、仏様、稲尾様―私の履歴書』 (日経ビジネス人文庫, 2004年)より

稲尾氏は、1978年から80年まで中日の投手コーチを務め、在任中の79年には藤沢公也が新人王に輝き、速球王・小松辰雄が抑えの切り札としてデビューするなど手腕を発揮したが、1980年には一転して中日投手陣が軒並み不振に陥ってチームは最下位に落ち、この年限りで中日を退団した。1984年にはロッテの監督に就任、1年目にいきなりチームを2位に押し上げ、翌85年も2位と健闘したが、86年に4位に落ちてこの年限りでユニフォームを脱いだ。ロッテ監督在任中の85年、86年には現中日監督の落合博満が2年連続三冠王に輝いたが、稲尾監督が退任した年のオフに、落合は1対4の大型トレードで中日に移籍した。落合の移籍以後、中日はAクラス常連球団になったが、これは星野仙一の中日監督就任と同じタイミングである。

稲尾と落合は相性が良かったと思われているが、稲尾と星野については、コーチと選手という間柄にあった時期がありながら、あまり語られなかった。稲尾和久の「私の履歴書」が日経新聞に掲載されたのは、2001年7月、コイズミ人気の絶頂期にして、星野仙一が中日の監督を務めていた最後のシーズンの最中だった。私は当時日経新聞を購読していたので、紙面で稲尾による星野評を興味深く読んだ記憶がある。