新サクラ大戦

「サクラ大戦」は1996年に1作目が出て
2005年に5作目が出たのち、これまで続編が出ていなかったが
14年ぶりに続編が発売された。
タイトルは『新サクラ大戦』だが舞台背景は同じで
中身も、たしかにあの『サクラ大戦』だと感じさせる。


『新サクラ大戦』は前作から作中で10年ほど経過しており
登場人物の多くも一新している。
ゲームとしては、戦闘部分がターン制で仲間全機を順に動かすSRPGから
主人公機と僚機を切り替えながら戦うアクションに変更されている。
全体は複数の話に区切られ、前半で仲間との交流と事件の発端が描かれ
後半は戦闘パートで敵を倒して勝利、次回へ続くという流れは同じ。
主人公を除く仲間はみな「攻略」対象であるヒロインであり
その構造はなんとも古めかしい、べたべたの「ギャルゲー」である。


あの単純でひねりのない「サクラ大戦」を今出して果たして面白がれるのか。
そこが『新サクラ』の注目点だったが、
戦闘部分こそ時代相応に変わっているものの、
旧「サクラ大戦」シリーズが他の「ギャルゲー」と比較して傑出していた、
ただヒロインを「攻略」することが「ゲーム」の面白さでなく
そのばかばかしくも愛すべき舞台世界に浸れる「ゲーム」である、
自身の美点をきちんと理解した、真に正統な続編といえる出来ばえである。
懐かしい。


ただ、14年ぶりだから懐かしいだけであって、
旧を知らないひとが遊んで面白いのかはわからない。
旧シリーズのヒロインもお話の主要登場人物として登場し
『新サクラ1』のお話も旧シリーズの影を追うもの。
14年途切れたとはいえ前を一切無視するわけにはいかない、
といって新規に遊んでくれる層にも
面白さをわかってもらえるものでなければならない。
一作ごと完結しながら舞台設定を共通するシリーズ続編の難しさは
これぞ正しいやり方、というものが無いように思う。
「逆転裁判」シリーズなども同じ難題に突き当たったものであり、
『サクラ大戦5』でシリーズが一端途絶えたのも同じことで、
一作ごとの評価に、続編としての収まりようが含まれてしまうことから
逃れ得ない難しさは、
過去の評価を頼みにできること以上に利益対効果の見通しを暗くする。


それでも今、例えば「アイドルマスター」シリーズなどが
「ゲーム」としてある中に
旧「サクラ大戦」の面白さを正しくなぞる『新サクラ』が
どのようにどう受け入れられるのかは興味深いところ。

 

 


旧「サクラ大戦」は当時、何があれだけ受け入れられたのだろうか。
何しろ1996年、23年前の当時であるからして、
そのころの他作品とひとつづつ比較しなければ正しい評価をしようがなく
現在思うところを並べたてても捏造でしかない。
またその要素は当然ひとつではないだろう。
ゲームとして、今見れば古く凡庸であるように見えても
当時の市場において他と比較し優れていた面がなかったはずがない。
例えば初代『ときめきメモリアル』の発売が1994年。
そこではゲームとして目新しさがあった。良くできていた。
上手く時宜を得た。売り方が上手かった。
商業的にみて9年間に5作品が出るほど成功したという結果だけは間違いない。
同時に、それだけ人気があったのになぜそこで途絶えたかの理由も、
同じくひとつで言えることではない。
他と比較して埋もれてしまう内容だった。出来が悪かった。
新しさがなくなった。売り方がまずかった。出し過ぎて飽きられた。
やはり14年前に立たなければ、その当時なぜに答えは得られない。


しかしながらこんにち、『新サクラ』を遊んでみて、
懐かしさと共にゲームとしての面白さも
ふるびてかすれてすりきれきってはいないことに気付く。
現在からみると古い。他で見たことのないような新らしさはない。
何が「サクラ大戦」の面白さなのだろうか。

 

 

ゲームたる部分を見ると、
先に書いたように「アドベンチャー」部分と「SRPG」な戦闘部分でできている。
ヒロインのいる場所を選び、会話イベントで好感高まる選択肢を選ぶ。
仲良くなれば戦闘部分で能力値にプラス効果がある。
それが「アドベンチャーゲーム」であったが
この「戦闘ユニットと仲良くなることで能力を高めるゲーム」を
どれだけ「ゲーム」として他と差別化できるだろうか。


イベント発生の期間や機会を制限する。
正解だったのかの判定や効果をわかりづらくする。
正解を選ぶこと自体の難度を上げる。
多くの「アドベンチャーゲーム」製作者が、
この現在もこの限られた選択肢のゲームを使って新しいゲームを作りたいと
意欲表明しているのを目にするが
果たして「アドベンチャーゲーム」の新規性ある選択が
ゲームの評価につながった例がどれくらいあるだろうか。
多くはお話の筋書きや、それを演出する表現への評価であって、
この「ゲーム」に求められているのは、
正しく正解を選べたという評価への納得感にしかないように思う。
ミステリなどでは、それこそが「ゲーム」意義であるかもしれないが
「ゲーム」のに流れる時間の速さや量がミステリに向いているとはとても思えない。


何のために選択させているのか。
アクションゲームのように、
臨機応変状況に応じた効果的操作ができたかで判定するのは評価基準が明確だ。
対戦ゲームであればアクション要素がなくとも選択肢の結果に納得できる。
「アドベンチャー」ではどうか。
そこまでに提示された様々な要素から、
例えば、話しかけたキャラクタがその状況でどのような応えが返ってくることを
話しかけられたキャラクタに求めているかが、答えを見て納得できるかどうか。
それが一応の基準と思える。
しかし「ゲーム」では、お話にとって必要な展開へと導かれる応えでなければ
答えとして評価しない場合も求められる。
納得できないが必要だ。現実でも納得できないことには慣れているではないか。
それが日常ではない冒険というものなのだ。
しかしそこにアクションや対戦ゲームのような「ゲーム」である意義はない。
「ゲーム」として必要なことは納得できても、
正解のない選択肢を選ぶことがゲームなのかという失望だけが残る。

 

話し戻して、「サクラ大戦」の「アドベンチャーゲーム」は、
正解の選択を選ぶことは容易な種のゲームである。
選択した結果ごと異なるヒロインの反応を楽しむためのものである。
ヒロインの好感度合が最も下がる、つまり誤った選択肢を常に選び続けたとしても
戦闘部分がクリア不可能になるわけではない。
つまりヒロインを「攻略」する必要がない。それで話が行き詰ってしまうことはない。
ヒロインを「攻略」して仲良くなることが目的の「恋愛シミュレーション」と
その点異なるのだと言えないこともないかもしれないが、していることは同じである。
「サクラ大戦」はヒロインと仲良くなるのが目的ではない、とは断じて言えない。

 

戦闘部分はいわゆるSRPG。行動順が回ってきたら移動して攻撃。
RPGとして能力育成の要素はなく、「アドベンチャー」での選択肢結果による補正のみ。
敵と仲間との位置取りと、回数や発動に制限ある必殺技を効果的に撃てるかどうか。
アニメーションや演出では高速で空中を駆け回ったりするが
「ゲーム」としては妄想で補うしかない。
地道に単対多の状況をつくるよう立ち回ることの繰り返しで
最高に能力が高まっていれば一撃で敵を灰燼に帰さしめるような波乱はない。


ここでしいて、「サクラ大戦」が特徴的である点を挙げるならば、
RPGな育成要素がないところとなるだろう。
仲間との交流による能力補正と、育成成長能力の個性付けは何ら矛盾しないことは
多くのゲームが採用していることから証明されている。
能力成長そのものがないことで各機の戦闘能力個性に着目する機会がなく、
ひるがえってはヒロイン個性演出機会も潰していないか。
煩雑さを避けて脇の経験値稼ぎのみが目的となる機会を設けなかったとしても
戦闘評価による能力補正もないのはなぜなのか。

 

現在から見れば、
「サクラ大戦」のゲームとしての仕組みはSRPGを中心として良くあるものである。
基本無料でアイテム課金ゲームにもあふれるほどあるものでもある。
仲間の紹介と事件の演出部分に、ゲームたるバトルシミュレーション。
当時としては、仲間が全員攻略対象であるヒロインであることが
重大な他との差別点であったろうが、現在ではいうまでもない。

 


先に書いたように、20年以上前の当時なぜ「サクラ大戦」が売れたのかではない。
今遊んで何が面白いのか。


仕組は目新しくなく良くあるゲーム。
簡単で詰まるようなところはない。
上手く操作する必要は低い。成長要素なく単純である。
お話部分はあまりできが良いとは思えない。
伏線あるいはミスリードかと思わせるような台詞になんの意味もなかったり、
敵はわかりやすく悪で、味方が思い悩む理由もいかにも浅い。
話の規模は壮大なはずなのに、限られた登場人物しか戦っている描写がなく、
なんともからっぽでやすいつくりである。


ばかばかしい。でも面白さがあるのだ。
勧善懲悪、因果応報、破邪顕正。お話はとても単純。悪人は悪い、味方は正義。
世界を救うため少数の犠牲はやむを得ないか。断じて否。全員救ってこそ正義。
仲間との信頼。敗北からの再起恢復復活。そう、悪を蹴散らし正義を示すのだ。
いってみれば時代劇や子供向けヒーローもののお約束で出来ている。
時間内に事件が起こり、展開し、悪を懲らしめ、日常に戻る。
その形式は単純で驚きがないが、だからこそ安心安全に見ていられる。
絶体絶命の危機には、必ず最高のタイミングで味方が助けに現れる。
これを、展開がわかっているのに何が面白いのか、と非難するのはできない。
そうなることがわかっていても面白いからだ。
勝つのがわかっているのに戦うことになんの意味があるのか。
勝つことが気持ち良いからだ。正義は心地良いからだ。
一切後ろめたくなく罪の意識にさいなまれることのない善などあり得ない。
しかし善と正義の概念は矛盾しない。娯楽の場に勧善懲悪の心地良さは否定できない。
「サクラ大戦」はゲーム作品として極めて稀に、
そいうばかばかしい子供じみた裏表のない作品形式を、その形式の持ち味を、
自覚してわかってあえて採用しているのが、他にない特長である。


そしてもう一点評価すべきは、ゲームの仕組みからみてもお話のありかたからみても
これが最初、1996年発売の『サクラ大戦』から変わっていないことだ。
単純なゲームである。成長要素もない。だから戦闘で良い評価を得る必要もない。
ヒロインの関心を得るのも極めて容易。お話が詰まることも無い。
だからときにあえて間違っていると判っている選択ができる余裕もある。
遊ぶことができる。
ひとつひとつの要素は現在から見て、目新しくなく手が掛かっているわけでもなく
技術的にすごくもなく、質が高いものでもない。
しかし、できる範囲でどれを選ぶかの選択においては確固たる軸があり誤っていない。
それが23年前の最初から出来ていることが素晴らしい。
初代から確固として完成している。
ゲームの基礎構造は未だ単純だが、しかしここをこうすればという点はない。
欠点はない。ゲームとしては最初から出来上がっているのだ。
そして継続して23年後も出来ていることが評価できる。
わかって出来ているんだなと思える。
次を作ろうとするとき、仕事をした証明として誰もが新しく何かを付け加えようとして
全体を損ねる例は枚挙に暇がない。ゲーム以外でも日常あまりにありふれて
人間は全体の退化、ごく一部の改善による進化が当たり前ですらないかと思うなかで、
無駄なもの、他であたりまえでも「サクラ大戦」では邪魔なものを峻別できている。
だから面白がることができる。

 


『新サクラ』では、時代に合わせみためも大きく作り直されている。
ヒロインたちの表情は、声だけでなくみためからも読み取ることができるようになったが
これが同時代の他と比較して、優れていると言うことはできない。
イベントシーンでいまだ一枚絵に頼る場面が多数あり、その出来もよろしくない。
予算の都合か声のついていないイベントも少なくない。
歩き回れる範囲は広くなく、個々の舞台背景の演出も不足している。
SRPGからアクションへの変更で、話を盛り上げる効果演出の一面は強化されたが、
作品主題として不可欠な全員で力を合わせ戦っていると感じさせる面は失われている。
「サクラ大戦」として上手い操作をすることの必要はないとしても、
理想の華々しい格好良い動きはまだまだ妄想で補う他ないだろう。
同時代の、現在の他のゲームと比べて、総合的に良い出来か否か。
すごく劣ってもいないが、傑出して良いところもない。
5点満点なら4点、10点満点なら8点くらいのゲーム。
それが『新サクラ大戦』である。


でも「サクラ大戦」自体は現在遊んでも面白い。
他にこういうばかばかしく単純で面白いゲームがないからで、
ばかばかしさを楽しむことを邪魔する要素がない点で良くできているからだ。
ゲームとしてこの他に様式を代えがたく完成している。
器の中身、お話やみためはいくらも正すべきべきところはある。
しかしゲームとしては簡素でも必要十分にできている。

 

 

www.youtube.com

ゲーム外でも広く有名な主題歌の流れるオープニング。
懐かしい。そしてなんとも古い。でも遊んでみればそれが良いのだ。
エンディングでもやはり歌が流れる。20年前と異なりありふれた演出だ。
過去のエンディングもみな一度しか聴いていないはずなのに
印象深い歌だったなと十数年ぶりに思い出す。


過去シリーズを遊んだのはそれぞれ一周のみ。関連商品も一切購入したことがなく、
シリーズの、「サクラ大戦」という作品のファンではない自分でもそう思わせる。
音楽の良し悪しなどわからない。
一度聴いたら耳に残るものが良いのか、
耳に残らずとも雰囲気を盛り立てるものが良いのか。
しかしゲームと共にある劇伴において「サクラ大戦」のそれは印象深いものであり
その作品を思い起こす時、良く懐かしさを喚起するものであるのは確かなことだ。

ゲームとして同時代に置いて傑出していなくとも

その位置をよく理解し作られ、そこにいつまでも浸っていたい心地良い世界。
そういう十年後、二十年後に懐かしく思い出せるだろう作品が
現在も遊べたことは喜ばしいことだ。

 

 

 

 

 

Â