信長の野望 新生

 

『新九郎、奔る! 』を読んで
何年振り何回目かの戦国時代(日本)の波が自分の中に来たので
『太閤立志伝5DX』を遊んでみた。
『信長の野望』とどちらにするか迷ったが値段には勝てなかった。
『太閤立志伝5』はその発売が2004年と20年も前の作品だが
2022年に「DX版」が出ているのでそちらを購入。
デジタルトランスフォーメーションですねわかります。


結果、駄目じゃないけどコレジャナイ。
20年の間になんだかんだゲームも進歩しているのだなあ、
ということがよくわかりました。
20年前の20年前のゲームを思えば、当たり前と言えば当たり前ではある。
20年前の20年前と比べて20年前と現在では見た目はあまり変わっていない気もするが、
横に並べてみればだいぶ違うのだろう。たぶん。


で結局『信長の野望新生PK』を購入して
元を取るくらいは遊んだので感想を書いていきたい。
なお『太閤立志伝5DX』も札4桁越えくらいまでは遊んだので
両方買うことになったことに悔いはなく、
十分戦国時代の波を乗りこなし終えたと考えております。
お気に入り名所は鹿島神宮、政策は堕女神のライトニングマーチこと鎮守将軍の旗。
北条氏康は大倉都子並みのゲームシステム破壊神。

 

 

 

『信長の野望 新生』はシリーズ16作目。
初代から数えてシリーズ40周年記念作品らしい。
ちなみに30周年は14作目。最近は1本つくるのもの大変なのですね。
40年の歴史があるので、シリーズの何作目と何作目を遊んで
その特徴はどうでこう違った、などと管理できる量と数ではない。
書いている人の記憶力が減退しているだけが理由ではなく。
全作の特徴を詳細に比較出来るひともいるのだろうと思うが
他にも遊びたいゲームはたくさんあり
ゲームにかけられる時間も有限なのだからいたしかたないことよ。
すくなくとも15作目の『大志』は遊んでいないので
以下は14作目の『創造』とそこまでのシリーズとと
比べることとなることをご了解いただきたい。
ここが新しいと以下書いていることが
『大志』で既に実現させていることであることも多々あるのかもしれないが気にしない。

 


本作でまず目新しい大きな変化は、輸送が出来なくなったことである。
こまかく言うと出来ないことはないのだが
能動的にここからここへ無期限に移動させる、という指定はできない。
お金は移動させなくても勢力、また細かくは軍団ごと共有でどこでも使えるが
兵士や彼らに食べさせるお米は城ごとの所轄となり
他のお城へ移動させて活用することができないのである。武将は移動できる。


シリーズ従来作でもコーエー『三國志』シリーズでも
他勢力と接しない攻め込まれない後方の生産国から
兵士や食料やお金をごっそり最前線に輸送する、
これが共通してゲーム中盤以降の基本戦略だった。
『信長』も『三國志』も基本1人用ゲームであり
「対戦相手」であるコンピュータ操作勢力は
この、後方をからっぽにして前線に資源を集中するという戦略をとらないことが
中盤以降はどの勢力で遊んでもすること同じの作業なので最初だけが面白い、
というコーエー歴史シミュレーションすべてに共通する評価へ
直結してきたゆえんである。


囲碁や将棋を見るに、コンピュータの「頭の良さ」、
計算の速さ正確さを「ゲーム」に応用する手段と技術が
人間を超える段階へ達しているのは明らかであるのに
なぜ2022年発売のシミュレーションゲームでも
物資と人材資源を要所に投入するという明快な運用を採ることに
大きな制限を掛けられたままに甘んじているのかといえば、
基本1人用ゲームで「対戦相手」を務めるコンピュータは
その目的が勝つことになく、
「対戦相手」を勝たせて楽しんでもらうことにあるからに他ならない。
対戦相手が対戦ゲームを遊んでいるつもりでない限り、それは正解でもある。
互角の勝負を楽しみたいのではなく、戦国武将の活躍を見たいのだ。
そしてゲームでもそうでなくとも勝つ方が楽しいのだ。
中盤以降はどの勢力でもおなじことの繰り返しの
お仕事のような数字管理作業になるとしても、
作業の結果には確実な勝利という成果が待つ。
何をどうしても負けることがわかっているゲームより確実に楽しい。


如何に手を抜いているさまを感じさせることなくプレイヤーを接待するか。
本作の、兵士を後方から前線へ能動的には輸送できなくする、というのは
今後のシリーズ、1人用シミュレーションゲームすべてに影響あるひとつの解として
有効なものだと思う。


なぜ輸送できないのか。
それは兵士が数字でなく、ある土地で生活している人間だからである。
鹿児島にあるお城の募兵に応じてみたら勤務地はなんと四国でした。
食べ物はもらえますが、顔絵と能力付き存在への昇格はないし休みもないし、
ケガしたら温泉に放り込まれてすみやかな復帰を求められ、
逃亡するか戦死するか全国制覇のその日まで、退職することはできません。
というのが従来の一般兵士さんの暗黒雇用環境だったが
今回は、徴兵されたお城から四国までつれていかれて戦うことは同じでも
持ってきた食料が無くなればその時点で現地解散、故郷へ帰ってこれるのである。
鹿児島から吉野川の河口まで連れてくのは効率悪いなとお上が判断すれば
いずれ軍務解放の可能性も開けているのである。


というように
戦国時代の日本をみたことはないけれど
いくらなんでもこれまでの形式より
本作の形式のほうがまだ実際に近かったのではないか、と思えるので
歴史シミュレーションゲームとして説得力が明らかにある。
ゲーム機能として輸送できないのは大きな制限だが
実際どうだったかと想像するに、輸送できないほうが現実的なのでは、と言われれば
遊んでいるほうも喜んで納得するのだ。
囲碁や将棋のような戦争シミュレーションゲームではなく
日本の戦国時代が舞台であることに大きな意味と価値がある、
シミュレーションゲームを遊びたくて遊んでいるのだから。


このように、実際はそうだっただろうからというような
題材の持つ設定を理由にコンピュータ側に制限を掛ける、という視点から
ゲームの仕組みを見るという発想は
これまでの計算機性能上からの限界とは異なる、
ゲーム制作作法として新しい見方と感じる。
ゲーム制作側がどう思って作っているかは作ったことが無いので知らないけれども。

 

 


輸送できないのが舞台に即した表現として、ゲームとしてそれで面白くなったのか。
それを助けて印象的なのが合戦の仕組みである。
合戦は複数の部隊がひとつの戦場に会し、互いに連携し合いながら勝負する形式で
単に兵士数とその質と指揮官能力値という数字比べだけではない
ゲームらしさと戦争シミュレーションらしさ双方表現の華といえるもの。
もちろん従来作でも数字比べだけでない複数部隊の連携をゲーム内で実現したい意欲は
それこそ40年前から、シリーズ全作で意識されてきたと思うが
本作のそれは、もちろん完璧には遥かに遠いとはいえ、
従来に比べて格段にあるべき理想を思い起こさせてくれる。

 

ひとつには、輸送ができないことが
複数部隊を敵勢力地へ集結して進軍させる誘因となっていること。
従来はひとりの武将が率いられる上限数まで
兵士をひとかたまりの部隊として運用できる形だった。
そうすると最有能の武将ひとりに率いさせた方が、
同じ兵数を複数の無名武将に分けて率いさせるより強そうである。
実際も兵士総数同じなら、ぼんくら武将3部隊と名将1部隊なら
名将に率いさせるほうを選ぶだろう。
部下を上手く活用してどのようにでも対処できるから名将で
できないからぼんくらなのだし。
ところがゲームではそんな臨機応変は許されない。
1部隊で出撃したら帰ってくるか全滅するまで1部隊なのだ。
そうするといくら名将でも1人では、
ぼんくら3人に囲まれてタコ殴りされると負けるのでは?
それをゲームとしてどのように表現すればいいのだろうか?
部隊を分割したり合流したりできるようにする?その場合の個々の能力値は?
どれくらいの名将度合から分割合流出来て良いことにする?


そこを本作では、1人に率いられる人数に上限を設けるのでなく
ひとつの拠点、城ごとに、出撃したら分割も合流もできない一部隊としたのである。
これなら再序盤から最終版まで複数の部隊が常に連携するさまを表現できる。
なぜ1人の最優秀武将に率いさせないのかという疑問も無い。
離れた城の部隊まで指揮できないのだから。
従来、そうあるべきなのでそうようにしか表現できなかったのに対し
城ごとに兵士数の上限があり、城ごとに一部隊であり、
複数の城をそれぞれの将に率いさせなければならないほうが、確かに当然に自然である。
逆の意味でそうあるべきで、そういうように表現できるようになった。
よって戦場には互いに複数の部隊が会することになる。
そこに今まで無かった当然さ、自然さ無理のなさ、納得がある。


もうひとつは戦場が開けた平原ばかりではないということ。
1800年前の大陸ではどうだか知らないが
日本で数万人同士がぶつかりあえる広さを持ち、
河川や湿地がなく丘陵による高低差もなく雑木林で視界が遮られることも無い平地が
どれだけあるかと考えれば
戦場が碁盤の升目のようにどこへでも同じく移動できないほうが自然である。
これをゲームのみための向上によって
そういえばそうだと思い起こさせる段階に達しているために
戦場の進軍経路の制限にも説得力を持たせている。
武田軍に如何に有能な武将がそろっていても
飛騨木曽明石山脈を無視して進軍はできないように、
合戦場も大陸のそれとは違い、日本では大きな制限があったはずと思い起こし
『創造』のときの「大会戦」の形式より、
『新生』の進軍路が限られているからこその挟撃や待ち伏せの有効さに納得できるのだ。
沖田畷や上田合戦を再現できない?
そこはどんなゲームもいまのところそうだし……(震え声)


最後に、勝った時のご褒美が極端に大きいこと。
ゲームの仕組みとして拠点はお城であり、
敵に勝つには敵城を包囲して降服させるか落城殲滅しなければならない。
城塞は囲まれることに備えた防御陣地なので攻撃側の被害も大きいし
被害をいたずらに増やしたくなければ攻略に時間も要する。
ところが本作では、合戦で大勝利した場合は、単に敵軍が敗走するだけでなく
付近の敵勢力のお城も領地もまるごと寝返るというかたちで
攻城戦を経たり領地を占領して回ることなくいちどきに自勢力のものにできるのである。
影響範囲はかなり広めで普通に4つくらいの城がまとめてひっくり返ったりする。
影響度合いは合戦開始時の敵の部隊数が多いほど大きいので
敵ができるだけ多くの城から出撃せざるを得ない、
全軍をかけてぶつかりあわざるを得ない状況を作るのが大切。
互いの勢力の命運を掛け全城から出撃、城に籠る事なく平地でぶつかりあい、
ひとたびの会戦で敵勢力の大多数を壊滅せしめ
複数の城と広大な領地がごっそり自軍にひっくり返るという大戦果が得られるありようは
ご褒美として嬉しいだけでなく準備してきた甲斐を心地良く得られ
ゲームとして合戦自体が面白いかどうかを越え、
歴史シミュレーションゲームの合戦の再現としてとても効果的なものになっている。


本作の合戦は、やはりコンピュータが
気持ち良くプレイヤーを勝たせるための仕組みに他ならない。
囲碁や将棋や、セガの『大戦』シリーズのような
対人対戦を楽しめる戦争シミュレーションゲームとは目指すところの異なるもので
遊ぶこちら側が望んだときしか開催されないし、合戦の敵部隊の動きも人工無能のそれ。
プレイヤーに有利すぎる仕組で、コンピュータ側が自由に合戦を行えたならば
他が全てそのままでも
『信長の野望 新生』はとんでもない駄作、という評価におちいるだろう。
しかし歴史シミュレーションゲームとしては、『三國志』も含め、
もっとも楽しい会戦、合戦と感じられる。これで正しいのだ。
山県昌景や毛利元就が笑えるほど強くて凄い、とかそういうところではなく
ご褒美が大きいこと、日本の戦国時代の戦争としてそれっぽさの納得感があること、
そして兵士輸送ができないという大枠の仕組みと合致した運用がなされていること。


従来は敵は戦力を全地域に配置し、自軍は最前線にのみ集中する形だった。
だから最序盤を除けば常に兵力で上回り、また人材の活用にも差があった。
本作では、こちらも戦力を最前線に偏らせることはできない。
しかし人材の配置は自在であり、
そして前線地だけでなく、後方地との戦力の柔軟な活用も
人間プレイヤーのみに許された自由となっている。
前線と後方の一体として活用する方が良いことを明確に表現しているのが
本作における合戦なのだ。


大名が参戦していなければ行うことはできず、
委任軍団は数値の大小で削り合うことしかしないしできないという
制限かつ優遇のありかたも
製作側がその美点と欠点をよく理解して、
あるべくしてある良さが感じられる優れた設計と言える。

 


最後に特徴として感じるのが、部下が進言してくれなければ出来ないことが多いところ。
輸送もそうだし、兵士が行軍する街道の新規整備も自由にはできない。
本作では敵城への謀略、ニンジャをつかって兵糧焼いたり城防備を崩したり
敵将にケガを負わせて能力低下させたりといった行動も強力なのだが
これも自分で指示して実施するより、部下の進言で行った方が成功度合が高い。
また内政面でも、領地に赴任した部下それぞれが
富国強兵のためにどの手段をとるかは、
大名の居城を除いては直接指示することはできないようになっている。
大名居城でも指示しないと動かないわけではなく自動で活動していて
それに加えて追加の指示を出すときにだけ、
勢力全体の行動回数制限とお金を消費しなければならない、という仕組みになっている。
また大名居城以外の城の内政活動はすべて無料。
つまり掛かる費用をあらかじめ除いた収入だけが算出計上される。
一言で言えば、内政は部下を領地に赴任させておけば全て自動で、
掛かる費用を考える必要も無く行われるのだ。


これらの制限、自勢力を強くするために
どのように国力を高めていくかの手段の自動化と単純化は
もちろんゲームとして「しなけれならない」煩雑さが
合戦に勝って武将を活躍させて全国制覇、という主たる楽しさを脅かさないために在る。
しなければならないことは少ないほど良く、
一方で良い結果に至るために選べる手段は幅広いほど良い。
しかし、作中での経過時間と費用さえついやせばどんなことでもできるのでは
部下の存在する意味が薄まり、武将を活躍させる楽しさを損ねる。
また全ての政務を自身1人が判断するのも煩雑になり
効率を求めてもそうでなくとも楽しくないし
そして歴史シミュレーションとしてそれっぽくない。
どこまで自動化してどこまで可能とするかの制限について、
ゲームの楽しさの面から見て、そして日本の戦国時代という舞台のそれらしさから見て
どのような塩梅にまとめるか。
この調整度合が優れている点が、他にもまして本作全体を通し、
遊んでいて楽しいかどうかに大きく影響を与えていると感じる。

 


遊び始めてまず思うのが、
地形が昔と比べるとだいぶそれっぽくなった、ということ。
自分のよく知っている範囲をみて、もちろんまだまだ全然違うのだが、
それでも一作ごとに現実の地形に近づいていて、
そこに山があり、川が流れて街がありお城があって、
それを結ぶ街道が全国隅々を形作っている。
そこに楽しさ、喜びがある。知ったるその場所に立って領土をひとつずつ拡げていく。
それが日本の戦国時代を題材にする意義なのだ。


地形のそれっぽさ同様、他の要素もまだまだ発展の余地は大きく感じる。
外交における強制力や、騎馬や鉄砲の扱い、茶器が高価値であることの意味付けなど
現実とかけ離れた要素や、旧作にあって本作で表現できていない要素もある。
合戦でコンピュータがまともに動くことを許可されたらどうなるか。
領地全体で武将を柔軟に配置することを許されたらどうなるか。
ゲームとしては自然でも、つらいだけで楽しく無いし、
そして日本の戦国時代らしくもなくなるだろう。
人は機械のように効率良くは働かないものなのだから。


40年前には、訪れたことのない場所の地形は
本屋で地図を購入し想像してみるしかなかったが
今はネットでそこから見た景色すらも比較対照できる。
武将の数はどんどん増えているが、半世紀以上の期間とはいえ
もはや県会議員どころか村会議員段階まで
武将化対象が広がっているのではないかと思える。
資料に何をしたとしか書かれていない人物まで
ゲーム化する必要があるのかと思う一方で
多数の創作で多面的に描かれる有名な人物に
ゲーム内でどのような価値を与えるかも難しい。
日本の戦国時代がどういうものだったか知るほどに
その奥行きが狭まって、器の枠が見えてきてしまうのは避けがたいことだろう。


序盤の国力の小ささゆえに採れる手段の少なさ、掛かってしまう時間の長さと
後半の怒涛の侵攻、戦力勢力の急拡大への転換は
1560年ごろと1590年ごろの実際の「戦国時代」の移り変わりを
ゲーム内で上手くなぞっていて楽しいが
それでもまだ歴史イベントの力を借りなければならない。
豊臣家の関東征伐や関ヶ原、大坂の陣を『信長の野望』シリーズで再現するには
新しい手段が必要だろうが、それはそこが必然の行き付く先という
舞台を狭める行為でもある。


『信長の野望』シリーズはゲーム機性能の向上と、ゲーム制作作法の向上、
日本の戦国時代への研究深化と、どれもの要素をその質の向上に変えて
長く続けることが出来てきた稀有な作品と言える。
1人用歴史シミュレーションとは、
何が遊んでいて楽しくて、そのためにどうするべきか、
何ができるようにし出来ないようにするのか。
その選択が時に誤りもありつつも総じて優れていたからこそ現在の位置がある。
次の10年、20年、40年後も、
歴史シミュレーションゲームの進化を見せてくれるだろうことを期待できる作品だ。

 

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