【用賀】東条英機の自殺未遂事件~用賀の芸能人・著名人の自宅を探訪~世田谷区岡本界隈散策番外編:大川栄策の自宅/荏原の地名/東京35区/高橋治之元IOC組織委員会理事の自宅/品川区立荏原文化センター/荏原図書館
- 2023/12/22
- 07:51
「芸能人・著名人の自宅を探訪しながら世田谷区岡本散策シリーズ」(6回にわたり掲載)の番外編として、岡本に隣接する用賀に住む芸能人・著名人の自宅(大川栄策の自宅、石橋貴明の自宅、勝俣州和の自宅、高橋治之元IOC組織委員会理事の自宅)を探訪しながら用賀散策をし、荏原の地名についても考察します。
なお本記事以外の番外編としては、以下の3つの記事があります。
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(※)他の芸能人・著名人関係の記事については、「芸能人・著名人関連のカテゴリ」がありますので、ご関心のある方はこちらを御覧ください。
(※)その他のカテゴリとしては以下のものがあります(投資関係を除く)。
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本ブログ掲載の写真が、他サイトで出典を明記せず無断引用される事例が多発していますが、本ブログ掲載の写真は(出典が明記されているものを除いて)全て私が現地に赴いて撮影したオリジナルの写真です。
(東條英機の旧宅と自殺未遂事件)
【東条英機の自宅跡】
用賀には東条英機の旧宅跡があります(本来の表記は「東條英機」ですが、「東条英機」と新字体で書かれることが多いで、本記事では「東条英機」で統一します)。
東条英機の邸宅は現在は取り壊され「東条英機邸跡」の碑が置かれているだけです(世田谷区用賀1-10-24)。
下の写真は、東京裁判における東条英機を主役として描いた映画「プライド・運命の瞬間」での東条英機邸の場面です(GHQが逮捕に来た場面で、この直後に東条英機は拳銃自殺を図ります)。この映画は時代考証がしっかりしているのでおそらくこのような邸宅だったと思われます。
(出典:「プライド・運命の瞬間」(東映))
この映画「プライド・運命の瞬間」での東条英機は津川雅彦が演じました。
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【東条英機の自殺未遂事件】
東条英機は戦勝国となった連合国によって逮捕拘束されることになった昭和20年(1945年)9月11日に、この自宅で拳銃自殺を図りましたが未遂に終わりました。
Wikipediaの「東条英機自殺未遂事件」を読むと、「隣家の(日本人)医師」の記述が2ヶ所あります。
「東條は隣家の医師に頼んで心臓の位置を教えてもらい、心臓部分に墨で黒い印をつけてもらっていたが自決には踏み切っていなかった」
「(4時50分ごろ、隣家の日本人医師が呼ばれた。5時15分、現れた日本人医師は「(治療しても)2時間はもつまい」といって積極的な治療を行わず傷口を包帯で押えることしかしなかった」
隣家の日本人医師は「積極的な治療を行わず傷口を包帯で押さえることしかしなかった」とWikipediaに書かれていますが、東条英機の心情を慮って敢えて積極的な治療をしなかった可能性もあると私は考えています。
この(日本人)医師が経営していた病院が用賀駅近くに現在でもあります(下の写真)。現在は子孫の方が経営しているようです。用賀地域の歴史や魅力の発信活動を行っている「大山みちおこし委員会」の方から伺った情報ですが、貴重な情報なのでご紹介します。
東条英機はGHQによって救命措置がなされ、九死に一生を得ました。
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(荏原について:由緒ある地名の喪失)
東条英機を治療した病院名が「荏原病院」となっていますが、この名称から古い歴史のある病院であることが覗えます。
「荏原」は室町時代からあった由緒ある地名で、現在の品川区・目黒区・大田区・世田谷区の東半分、川崎市の東側を含む大きな地域が「荏原郡」としてありました。下の写真の色付けされている地域が荏原郡です(昭和4年の古地図)。
(出典:世田谷デジタルミュージアム)
現在は大田区の狭い地区に「荏原」の地名が残っているのみですが、旧荏原郡があった地域を散策していると、上記の「荏原病院」のように「荏原」を冠した施設を時々見かけます。
荏原郡は、昭和7年(1932年)東京市に編入され、荏原区・品川区・目黒区・大森区・蒲田区・世田谷区の6区となり、荏原の地名は「荏原区」に継承されました。
下の写真は品川区中延にある「品川区立荏原文化センター・荏原図書館」(「荏原区」の区役所があった場所)で、ここには「荏原」についての詳しい解説版が置かれています。詳しくは『「荏原」の地名に思いを馳せる:地名の栄枯盛衰~西小山→荏原町散策(3)』をご覧ください。
「荏原区」は人口・経済力で圧倒的な力のあった「品川区」に吸収合併されましたが(※)、荏原区の旧区役所があった「品川区立荏原文化センター・荏原図書館」で、細々ではありますが「荏原」の名を後世に伝えています。
「荏原」はスーパーマーケットでよく見かける「えごま油」の「エゴマ(荏胡麻)」に関係があり、「荏胡麻の原」が「荏原」となりました。
なお、砧公園を南北に貫く古道が荏原郡と北多摩郡の郡境であることは「コウケンテツ、渡辺キャスターの自宅、松任谷由実の旧宅を探訪~世田谷区岡本散策(3)」でご紹介しました。
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(※)【品川区による荏原区の吸収合併:東京35区から23区へ】
太平洋戦争による都心部の人口の激減により各区の運営が厳しくなってきたため、昭和22年(1947年)に東京35区が現在の23区に再編成されましたが、この時、多くの区では対等合併の形式を採りました。
例えば、大森区と蒲田区が合併した時はそれぞれの名前の一部を合成して「大田区」とし、赤坂区・麻布区・芝区は合併して新たな呼称である「港区」としました、
しかし、荏原区と品川区の合併に際しては「品川区」のみの呼称とし、品川区が荏原区を吸収合併する形となり「荏原」の名称は全くなくなってしまいました。荏原区の人々は悔しい思いをしたのではないかと思います。
このような目で旧荏原区役所であった「品川区立荏原文化センター」に置かれた荏原の解説版を見ると、また違った感慨が湧いてきます。
東京35区から23区への再編についての詳しい内容は「田園調布界隈を歩く(2)」を参照ください。下の写真は雑誌「東京人」が東京35区を特集した時の表紙の写真。東京35区が載っています。
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(用賀の地名の由来はヨガだった)
用賀の地名の由来については『「用賀のお洒落なレストラン」と「用賀の由来はヨガだった!!」』で書いたように
鎌倉時代の初期にユガ(梵語)の道場が開設され、その地が真福寺の所有となったことから「ヨガ→用賀」になったという嘘のようなホントの話があります。
その真福寺です(下の写真。世田谷区用賀4-14-4)。
山門には山号である「瑜伽山」(ゆがさん)と書かれています。
その山門には、ヨガにちなんで「寺ヨガ」の張り紙がありました。
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(用賀の芸能人・著名人の自宅)
その世田谷区用賀にある芸能人・著名人の自宅を探訪してみましょう。
(石橋貴明、勝俣州和の自宅)
世田谷区用賀にある石橋貴明の自宅、勝俣州和の自宅については、
「【用賀】石橋貴明、勝俣州和の自宅を探訪しながら桜新町・深沢・用賀を散策(5)」で詳しく書きましたので、この記事をご覧ください。
下の写真は石橋貴明(当時は石橋貴明・鈴木保奈美夫妻)の自宅写真。
同じく勝俣州和の自宅写真と表札。
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(大川栄策の自宅)
同じく用賀には演歌歌手・大川栄策(本名:荒巻 逸造(あらまき いつぞう))の自宅兼事務所があります(下の写真)。
入口には
本名である「荒巻」の表札がありました。
大川栄策の出身地は福岡県大川市で、芸名の「大川栄策」は出身地の「大川」を「栄」させる対「策」だそうです。
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(他の演歌歌手の自宅に関する記事)
他の演歌歌手の自宅に関する記事としては、以下の記事があります。
小林幸子の新旧2つの自宅は道を挟んで建っています(下の写真)。詳しくは上記記事をご覧ください。
下の写真は八代亜紀(本名:増田明代)のインターフォンに書かれている本名の「Masuda」の表示。
(3)藤あや子、坂本冬美:「タモリなど芸能人の自宅を探訪~八雲・東が丘・駒沢散策(4)」
下の写真は坂本冬美の自宅の表札。
下の写真は前川清の自宅の表札。
下の写真は瀬川瑛子(本名:清水瑛子)の自宅の表札。本名である「清水」と書かれています。
(※)他の芸能人・著名人関係の記事については、「芸能人・著名人関連のカテゴリ」がありますので、ご関心のある方はこちらを御覧ください。
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(高橋治之元IOC組織委員会理事の自宅)
世田谷区用賀には電通元顧問・専務、元IOC組織委員会理事で東京五論を巡る受託収賄容疑で逮捕された、高橋治之(たかはし はるゆき)元理事の自宅があります。入口の奥には話題になったメルセデス・マイバッハもあるようです。
下の写真は逮捕当時の写真ですが、自宅前には多くの報道関係者が押しかけていました。
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