【世田谷区野沢】小林幸子の自宅を探訪しながら、碑文谷・柿の木坂・野沢を散策(最終回):小林幸子/野沢水車橋
- 2020/12/22
- 07:35
柿の木坂から環七を渡り世田谷区野沢に入り、野沢地区を散策しながら野口五郎・三井ゆり夫妻の自宅を探訪しました。
今回は、「芸能人の自宅を探訪しながらの碑文谷・柿の木・野沢坂散策」シリーズの最終回として、野沢地区をさらに散策し、小林幸子の自宅を探訪します。
(※)他の芸能人関係の記事については、「芸能人・著名人関連のカテゴリ」がありますので、ご関心のある方はこちらをご覧ください。
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本ブログ掲載の写真が他サイトで出典を明記せず無断引用される事例が多発していますが、本ブログ掲載の写真は(出典が明記されているものを除いて)全て私が現地に赴いて撮影したオリジナルの写真です。
(野沢水車橋)
野沢3丁目には「水車橋」という名のバス停があります。
また、このバス停の前には「水車橋クリニック」という病院があります。
このような場所に「なぜ水車が?」と違和感を感じたのですが、その説明版がバス停近くにありました。
かつて水車(野沢水車)があった野沢家の方が手書きで書いた説明版がありますが、
手作り感満載の説明版です(^^
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そこで、野沢家の方に説明をお願いしたところ快く引き受けていただきました。
庭の中にある当時の「石臼」、野沢水神の棚にある「木製の歯車」を見せていただき、
奥にある「野沢正徳寺」(下の写真)の由緒の説明もしていただきました。
野沢水車建設中に7体の遺骨が発掘され、根岸家の当主の方が日蓮宗の高僧を招き、大供養をしたのだそうです。
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下の写真は、「野沢正徳寺」の中にある野沢水車の絵ですが、
水輪の直径が5メートルという2階建ての家ぐらいの巨大な水車で、石臼6個、品川用水から分水を引いて、精米・製粉を行っていました(明治16年から大正末まで)。
(参考記事)ここ(世田谷区野沢)を流れていた「品川用水」はさらに下流の品川区まで流れていました。品川区における「品川用水」については、『「品川用水跡」と「帝銀事件」~武蔵小山散策(3)』で詳しく書きましたので、ご関心のある方は参照ください。
なお、この品川用水跡と現在の環七の分岐点には二本の松があり、そこに「道標」が置かれていたのですが、
(出典:「今昔マップon the web」の1896年~1909年地図を筆者が加工)
何らかの事情で(環七の拡張工事か?)、野沢龍雲寺に移されていることは前回の記事で書いた通りです。
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(野沢園)
また、「野沢園」という植物園のような一角があります(世田谷区野沢3-29-23)。
明治7年(1874年)創業の老舗で、2000坪の大型農場を有し、様々な植物を常時保管・生産しているそうで、
オフィスなどへの植物のレンタル、テレビ番組の植木の取り扱いをしている会社です。
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(おしゃれな建物)
野沢地区を散策していると、下の写真のようなおしゃれな家が点在しています。
このような野沢地区の界隈に小林幸子の自宅があります。
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(小林幸子の自宅)
本ブログ掲載の写真が他サイトで出典を明記せず無断引用される事例が多発していますが、本ブログ掲載の写真は(出典が明記されているものを除いて)全て私が現地に赴いて撮影したオリジナルの写真です。
演歌ファンのみならず、最近は若者にも支持層を広げている歌手の小林幸子の、世田谷区野沢にある自宅は道路を挟んで2つが建っています。
以前からある自宅は、下の写真のような意匠を凝らした円形の茶色の家ですが、
最近、新しい家を以前からある自宅前の道路を挟んだ真向かいに建てました(下の写真)。
この2つの家は下の写真のような位置関係で建っています。この写真は他サイトで無断引用されていますが、下記写真がオリジナルです。
以前からある茶色の家は小林幸子が一人で住むために建てた家ですが、衣装が多くて手狭になっていたため、結婚後、ちょうど空いた向かいの土地に2軒目を建てたそうです。
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これで、「【碑文谷】伊勢谷友介の自宅マンションを探訪しながら、碑文谷・柿の木坂・野沢を散策(1):香取慎吾/伊勢谷友介/長澤まさみ/すずめのお宿緑地公園/関根勤」から7回にわたって掲載した「芸能人の自宅を探訪しながらの碑文谷・柿の木・野沢散策」シリーズを終了します。
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