幣原喜重郎と平野文書から見る憲法草案作成と世田谷区岡本~明治期以降の政財界の大物が構えた邸宅・別邸跡を探訪~世田谷区岡本散策番外編(1):松方正義と岩崎家/聖ドミニコ学園/玉川幼稚園/静嘉堂文庫/高橋是清
- 2023/10/16
- 13:48
「芸能人・著名人の自宅を探訪しながら世田谷区岡本散策シリーズ」(6回にわたり掲載)の番外編として、以下の4つの記事がありますが、
(1)「明治期以降の政財界の大物が構えた邸宅・別邸跡を探訪~世田谷区岡本界隈散策番外編」(3回にわたって掲載)
今回は、番外編(1)「明治以降の政財界人の大物が構えた邸宅・別邸跡」の第一回目の記事となります。
幣原喜重郎が日本国憲法草案にあたって自宅とした地が世田谷区岡本であった事実が「平野文書」から浮かび上がってきました。
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(あまり知られていない高級住宅地「岡本」:明治以降の政財界人の要人が居を構えた世田谷区岡本)
Wikipediaで「世田谷区岡本」を調べると、「隣接する瀬田と共に高級住宅地となっている」との記述があり
その背景として、
「国分寺崖線の風光明媚な高台があることから、明治時代末期から政財界人や著名人たちが邸宅や邸宅・別荘を構え、現在では高級住宅街として知られる」(太字は筆者)と書かれています。
このように世田谷区岡本は、現在では岡田准一、国分太一や松任谷由実(ユーミン)などの有名人や資産家が住んでいる地域になっていますが、
終戦直後に首相に就任した幣原喜重郎が、世田谷区岡本に居を構えながら新憲法草案の作成に尽力していたように、政財界の大物がこの地で日本の大きな方針を打ち出したこともあった地区でもあります。
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(全体図)
これから政財界人の邸宅・別荘などを記述していきますが、全体図を掲載します。まず、「世田谷区文化財調査報告集-4-」に掲載されている地図です(一部を筆者が加工)。
(出典:「世田谷区文化財調査報告集-4-」を筆者が加工)
主要部分を拡大したものです。
(出典:世田谷区文化財調査報告集-4-)
さらに、(一部表示されていない邸宅・別荘がありますが)分かりやすい地図として「岡本民家園企画展」で使用された地図を掲載します(一部を筆者が加工)。
(出典:「岡本民家園企画展」資料を筆者が加工)
今回の「「明治期以降の政財界の大物が構えた邸宅・別邸跡を探訪~世田谷区岡本界隈散策番外編」シリーズでご紹介する政財界の要人達は
東京市内に本宅を所有し、岡本にある邸宅を週末などに別宅として利用していましたが、関東大震災や第二次世界大戦の空襲により東京市内から離れ本宅として使用するようになる事例が多くありました。
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(政財界人の邸宅・邸宅・別荘①:高橋是清⇒玉川幼稚園)
岡本3丁目には、軍部予算の縮小を図ったために軍部の恨みを買い、二・二六事件で暗殺された高橋是清元首相(暗殺当時は蔵相)の別邸がありました。
現在は「玉川幼稚園」となっています(下の写真。世田谷区岡本3-35-10)。
高橋是清の別邸は玉川幼稚園の園舎として利用されていましたが、平成6年(1994年)に取り壊され、現在では当時の面影は全くありません。
なお、高橋是清(1854~1936)が暗殺された自宅は港区赤坂にあり、現在は「高橋是清翁記念公園」となっています(港区赤坂7-3-39)。
下の写真は「高橋是清翁記念公園」内にある高橋是清の像(詳しくは『赤坂の「坂」を散策(最終回)』を参照ください)。
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(政財界人の邸宅・別荘②:松方正義、三菱財閥・岩崎家、幣原喜重郎⇒聖ドミニコ学園)
「世田谷区文化財調査報告集-4-」によれば
聖ドミニコ学園(下の写真)の敷地は、周辺の人の話では、明治期の日本において内閣総理大臣を2度務めた松方正義(1835~1924)の別邸があったと言われています。
この「松方別邸」とされていた場所に昭和2,3年になって三菱財閥の岩崎家(※)が別邸を建設し使用していました。
また、第二次大戦後には、戦災で焼け出された幣原喜重郎が妻(※※)の縁を頼って、昭和26年(1951年)に亡くなるまで、ここに居住しました。
(※)松方正義の次男の妻は岩崎弥之助(三菱財閥2代目)の長女
(※※)岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)の娘(四女)
以上からこの別邸(現・聖ドミニコ学園)は三菱財閥の岩崎家を軸にして使用されたことが分かります。
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この邸宅は「日本館」(下の写真)として聖ドミニコ学園の先生の宿泊や生徒の教育に使われていましたが、世田谷区教育委員会による調査後の平成4年(1992年)に取り壊されました。
(出典:世田谷区文化財調査報告集-4-)
参考記事:ドミニコ学園の前にあるレストランについて書いた記事として『「松任谷由実など芸能人・著名人の自宅」と「リゾートのような雰囲気の中で蕎麦を堪能」』があります。
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(平野文書:幣原喜重郎と世田谷区岡本)
幣原喜重郎(1872~1951)は、終戦後の昭和20年(1945年)10月に首相に就任し、新憲法草案などをめぐりGHQとの交渉に当たりましたが、この岡本の邸宅(現・聖ドミニコ学園)に住みながら、戦後の基礎を作った新憲法草案作業をしていました。
下の写真は総理在任時の幣原(1945年秋頃)。
(出典:Wikipedia)
幣原喜重郎の秘書をしていた元衆議院議員・平野三郎が、幣原喜重郎が亡くなる直前に戦争放棄条項などが生まれた事情について聴取した、いわゆる「平野文書」があります。
この「平野文書」の中には幣原喜重郎が世田谷岡本に住んでいたことを示す重要な記述がありますので以下引用します。
「私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。」(太字は筆者)
新憲法草案を考えながら幣原喜重郎がこの岡本界隈を歩いていたかもしれないと考えると感慨深いものがあります。
また、当時衆議院議長を務めていた幣原喜重郎が風邪をこじらせて、78歳で亡くなった場所もこの邸宅でした(2011年5月14日付け日本経済新聞)。
現在の聖ドミニコ学園がある土地に関し、世田谷区教育委員会作成の地図では「旧岩崎別邸(松方別邸)」、民家園企画展の地図では「岩崎久彌邸」と記載され、幣原喜重郎の名前が出てきません。
これは幣原喜重郎の妻の縁を頼って居住した(おそらく借りていた)ためと思われますが、
戦後憲法が大いに議論されている現代の観点から見れば、幣原喜重郎が首相としてここに住んでいたことはもっと知られてもいいことだと思います。
参考記事:港区六本木にある「日本国憲法草案審議の地」碑(下の写真)については「麻布・我善坊谷を散策」をご覧ください。
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(政財界人の邸宅・別荘③;岩崎久彌⇒静嘉堂文庫・玉川廟)
聖ドミニコ学園から谷戸川を挟んだ丘の向こう側には、別邸ではありませんが、三菱財閥の玉川廟と静嘉堂文庫があります。
三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の弟である岩崎彌之助(1851~1908)が明治41年(1908年)に亡くなると、玉川八景の一つである岡本紅葉が丘に玉川廟が建設され、そこに葬られました(下の写真)(※)
また、玉川廟の近くには関東大震災後、岩崎家の高輪本宅にあった文庫を移転し、静嘉堂文庫と名付けた洋館を建設しました(下の写真。東京都指定歴史的建造物)。
さらに、敷地内には曜変天目が収蔵されていることで知られる静嘉堂文庫美術館がありましたが、この静嘉堂美術館は東京丸の内に移転しました。
静嘉堂文庫の敷地は樹木が多く、武蔵野の面影をとどめている場所なのですが、
静嘉堂文庫美術館の移転に伴い、残念ながら敷地内に入る門が時々閉じられるようになり行けば必ず中に入れるということができなくなりました。
(※)「岡本のもみじ」は、静嘉堂文庫の近くにある「岡本もみじが丘」というバス停の名称に残されています。
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(松方正義と岩崎家)
静嘉堂文庫敷地内の霊廟の傍らには「男爵岩崎君墓碑」と刻まれた巨大な石碑があります。
松方正義が三菱財閥二代目の岩﨑彌之助を偲んで建てたもので、「松方正義」の名が刻まれています。
上の「政財界人の邸宅・別荘②:松方正義、三菱財閥・岩崎家、幣原喜重郎⇒聖ドミニコ学園」の項目で、
『「松方別邸」とされていた場所に昭和2,3年になって三菱財閥の岩崎家が別邸を建設し』と書きましたが、邸宅の引継ぎ、石碑の建立は松方正義と岩崎家が親密だったことを覗わせる興味深いエピソードです。
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次回の記事は、「明治期以降の政財界の大物が構えた邸宅・別邸跡を探訪」シリーズの第2回目となります。
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