日本の標高水準点を見学~見どころの多い中央区新川を散策(5):於岩稲荷田宮神社/霊岸島水位観測所/江戸湊の碑
- 2021/05/16
- 10:16
前回の「四谷怪談のお岩の伝承・於岩稲荷田宮神社を参拝~見どころの多い中央区新川を散策(4)」では、四谷怪談のお岩の伝承の元となった於岩稲荷田宮神社まで歩きました。
今回は、この「於岩稲荷田宮神社」についてさらに詳しくご説明するとともに、日本の標高水準点などを見学してみます。
☆☆☆
(参考:今までの日本橋地区の散策記事)
日本橋散策については、今までに以下の4つのサブシリーズを掲載してきました。
①「日本橋堀留町・小舟町散策サブシリーズ」:江戸時代に大変賑わい、浅草寺の大提灯にその名を今でも残している「日本橋堀留町・小舟町」散策(3回にわたり掲載)、
②「日本橋人形町二丁目・富沢町散策サブシリーズ」:花街や遊郭の名残を残す「日本橋二丁目・富沢町」散策(3回にわたり掲載)
③「日本橋蛎殻町サブシリーズ」:水天宮や、東京シティエアーターミナルがある「日本橋蛎殻町」散策(2回にわたり掲載)
④「橋梁としての日本橋サブシリーズ」:橋としての日本橋を様々な視点から見た散策(3回にわたり掲載)
今回は、番外編として日本橋地区に隣接する「新川」を散策するシリーズになります。
まず、今回散策するエリアの地図を掲載します。緑色の部分が散策エリアです(下の写真は「新川跡の碑」付近に置かれた地図に筆者が加工したもの)。
★★★
★★★
(お岩さんと田宮家:鶴屋南北の真逆の創作)
前回の記事で訪れた「於岩稲荷田宮神社」(おいわいなりたみやじんじゃ)ですが(中央区新川2丁目25-11)、
江戸時代初期、四谷の地には御先手組同心・田宮家の屋敷があり、
そこに住んでいたお岩とその夫・田宮伊左衛門が「東海道四谷怪談」のモデルになりました。
お岩は屋敷にあった屋敷社を厚く信仰し、また二人は近所も羨む仲睦まじい夫婦で、「東海道四谷怪談」のようなオドロオドロシイことはなかったそうで、
後に、鶴屋南北が、2人の没後190年経って怪談として創作したのが現在まで伝わる「東海道四谷怪談」です。
江戸時代には下の写真のような恐ろしい姿の浮世絵が描かれましたが、真逆の物語を作られて、お岩さんもその夫もいい迷惑だったと思います。
(出典:Wikipediaにある歌川国芳の浮世絵)
★★★
★★★
(なぜ、四谷ではなく、新川の地に「於岩稲荷田宮神社」があるのか?)
真逆の創作が作られたおかげで後世にまで「お岩さん」の名前が残ったとも言えますが、やはり迷惑ですね。
ここで疑問に思うのが、四谷に住んでいた「お岩さん」の神社がなぜ新川にあるのかということです。
四谷にあったお岩さんが信仰していた屋敷社は、「お岩稲荷」と呼ばれるようになり演劇関係者の参拝が多く、多くの役者から崇敬されるよになりました(この点では、「東海道四谷怪談」のおかげで田宮家も恩恵に浴したことにはなりますが)。
しかし、この屋敷社は明治12年(1879年)に大火により焼失してしまいます。
これに救いの手を差し伸べたのが、歌舞伎役者の市川左団次で、新川にあった私有地を提供、田宮神社を再興し、新川の地で現在に続いています(下の写真)。
このため、現在は四谷ではなく芝居小屋に近かった新川の地に「於岩稲荷田宮神社」があるわけです。
(注)田宮家と関係がない陽明寺が、四谷に「於岩稲荷神社」を建てたため、これに対抗して、昭和27年(1952年)に田宮家が、元あった場所に「於岩稲荷田宮神社」を建立したことについては、前回の記事をお読みください。
★★★
★★★
(中央大橋)
「於岩稲荷田宮神社」を訪れた後、新川と月島を結ぶ「中央大橋」に行ってみます。
「中央大橋」は隅田川とフランスのセーヌ川が友好河川を提携している関係から、フランスのデザイン会社が設計しました。
主塔及び欄干部分に日本の「兜」をモチーフにしたデザインが施されています(下の写真)。
また、橋の袂には、橋名とともに、東京都のシンボルマークの「銀杏」とパリ市の紋章の一部を模した「帆船」のマークが描かれています。
さらに、上流部の中央橋脚部には当時のパリ市長であったジャック・シラクから友好の印として「彫像」が置かれています。この彫像は川側を向いていますので、正面は水上バスからしか見ることができません。
★★★
★★★
(日本の標高水準点)
この「中央大橋」の近くには、日本の標高の基準となる一等水準点「公無号」があります(中央区新川2丁目32-4)。
説明板の解説が専門的で大変分かりにくいのですが、
要は、日本の高さの基準となった東京湾の平均海面(標高0メートル)の決定後に、堅固な水準点として設置され、数度の変遷後に現在地に置かれるようになったもののようです。
★★★
★★★
(霊岸島水位観測所)
一等水準点「公無号」の少し先には、日本の水準原点を生んだ「霊岸島水位観測所」を記念したシンボル柱があります。
東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響で正確な観測ができなくなったため、現在では、水位観測所の機能は神奈川県三浦半島油壷に置かれているそうです。
いずれにしても、日本の水位や標高の決定が最初に行われた歴史的な経緯を、この新川の地で改めて見ることができます。
また、ここからは下の写真のような、対岸の月島を臨む絶景を見ることができます。
★★★
★★★
(江戸湊の碑)
下の写真は、「霊岸島水位観測所」脇に置かれている散策マップです(「霊岸島水位観測所」脇に置かれている散策マップを筆者が加工したもの)。
「江戸湊の碑」です。
「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた」との説明が書かれています。
☆☆☆
次回の記事では、「新川散策シリーズ」の最終回として、堀部安兵衛の碑まで歩きます。
★★★
★★★
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙