四谷怪談のお岩の伝承・於岩稲荷田宮神社を参拝~見どころの多い中央区新川を散策(4):越前堀公園/於岩稲荷田宮神社/田宮稲荷神社
- 2021/04/28
- 08:22
前回の「新川跡をたどる(暗渠散歩)~見どころの多い中央区新川を散策(3)」では、新川の地名の由来となった新川跡をたどりました。
今回は、新川跡を前回に引き続き散策した後、四谷怪談のお岩の伝承の元となった於岩稲荷田宮神社まで歩いてみます。
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(参考:今までの日本橋地区の散策記事)
日本橋散策については、今までに以下の4つのサブシリーズを掲載してきました。
①「日本橋堀留町・小舟町散策サブシリーズ」:江戸時代に大変賑わい、浅草寺の大提灯にその名を今でも残している「日本橋堀留町・小舟町」散策(3回にわたり掲載)、
②「日本橋人形町二丁目・富沢町散策サブシリーズ」:花街や遊郭の名残を残す「日本橋二丁目・富沢町」散策(3回にわたり掲載)
③「日本橋蛎殻町サブシリーズ」:水天宮や、東京シティエアーターミナルがある「日本橋蛎殻町」散策(2回にわたり掲載)
④「橋梁としての日本橋サブシリーズ」:橋としての日本橋を様々な視点から見た散策(3回にわたり掲載)
今回は、番外編として日本橋地区に隣接する「新川」を散策するシリーズになります。
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(「新川津々井」と「旭ビル」)
まず、今回歩く主な場所を地図で示してみます(「新川之跡」近くにある地図を筆者が加工したもの)。
前回の記事で訪れた「新川大神宮」を更に進むと、
『「中央区新川の洋食屋」と「江戸酒問屋と平成バブルの名残を探索」』でご紹介した洋食屋「新川津々井」があります(下の写真)。
私が、「新川津々井」にランチに行ったときは気が付かなかったのですが、この「新川津々井」はまさに「新川跡」に立地していたのでした。
下の写真は、「新川津々井」の真向かいにある「旭ビル」ですが、この「旭ビル」の幅が「新川」の幅になります(【追記】堀の両脇には「河岸地」があったので、新川の実際の幅はこれよりやや狭かったと考えられます)。
古地図で見ると下の写真のようになります。「一の橋」のところです。
(出典: 光村推古書院 「東京時代MAP」48ページを筆者が加工したもの)
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(明正通り方向に歩く)
この「旭ビル」から先はビルに阻まれ痕跡を追うことができないので、「新川津々井」に面している通りを左に行きます。
しばらく歩くと「霊岸島交差点」があります。江戸時代、この地の名称であった「霊岸島」の名前が残されている場所です(「【新川】江戸時代の埋蔵金を発見!!~見どころの多い中央区新川を散策(1)」を参照)。
この交差点には、嘉永3年(1850年)創業の老舗和菓子店「梅花亭」本店があります。
また、さらに先には『「「銀ブラ発祥の喫茶店」と「銀巴里跡」』でご紹介した「カフェーパウリスタ」の配送センターがあります(中央区新川2丁目2−12)。
「カフェーパウリスタ」のコーヒーを全国の喫茶店に配送している場所で、小売もしています。
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(酒井書店)
この「霊岸島交差点」を左折し、「明正通り」を歩きます。
しばらく歩くと左手に「酒井古書店」があります。
文庫・新書専門の古書店で、
「たばこ」も店内で販売している珍しい古書店です。
昼休み時には、近くのサラリーマンがよく立ち寄っています。
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(越前堀公園)
さらに進むと、「越前堀公園」があります。
江戸時代、このあたりには越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。
屋敷は、下の写真のように、三方が入堀に囲まれ、この入堀が「越前堀」と通称されていました。
(出典: 光村推古書院 「東京時代MAP」48ページを筆者が加工したもの)
現在ではすべて埋め立てられましたが、建設工事などの際に護岸の石垣が出土することがあり、この石垣の石が公園に展示されています。
また、ここには、霊岸島の由来の説明板も置かれています。
公園に置かれている石(下の写真)も石垣の石を利用したものと思われます。
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(四谷怪談のお岩の伝承:於岩稲荷田宮神社)
さらに「明正通り」を進み、「鍛冶橋通り」を渡り、右手の奥に行くと、
昔ながらの住宅街の中に、「於岩稲荷田宮神社」(おいわいなりたみやじんじゃ)があります(中央区新川2丁目25−11)。
その名の通り、四代目鶴屋南北の戯曲で「東海道四谷怪談」の主人公お岩の伝承を持つ神社です。
中央区教育委員会による説明版にこのことが書かれています。
亨保2年(1717年)にお岩の住居であった四谷左門町に祭られ、明治12年(1879年)の火事で消失し、現在地に移転しました。
役者や芸姑の参詣が多く、明治から大正年間にかけて門前に茶店も出て賑わったそうですが、今は訪れる人も少なくひっそりと佇んでいます。
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(新宿区四谷にあるお岩ゆかりの2つの神社について)
この「於岩稲荷田宮神社」については、話が少しややこしくなるのですが、
お岩さんの住居があった(新宿区の)四谷左門町には、現在、「田宮稲荷神社」と「陽明寺の於岩稲荷神社」が道を挟んで向き合っていて、本家争いの様相を呈しています。
結論から言えば、「田宮稲荷神社」が本家です(下の写真。新宿区左門町17)。
四谷にある「田宮稲荷神社」は、上述した新川の「於岩稲荷田宮神社」が本社で、「田宮稲荷神社の旧地」に昭和27年(1952年)に再建されたものです(おそらく、陽明寺の「於岩稲荷神社」に対抗して建てられたものです)。
「田宮稲荷神社」が四谷に再建された経緯について、東京都教育委員会による説明がキチンと書かれています。
一方の、陽明寺は戦後建てられた日蓮宗の寺院で、「お岩さん」の田宮家と関係はなく((※)を参照)、
「於岩稲荷神社」の人気にあやかり、観光客を呼び込むために建立された神社と考えられます(下の写真)。
(※)実在のお岩さんは実在していましたが、「四谷怪談」のオドロオドロシイお岩さんとは全く異なり、夫の伊右エ門とは仲睦まじく、献身的に夫を支えて田宮家の復興に貢献した人物だったそうです。お岩さんの没後に鶴屋南北の書いた「東海道四谷怪談」で恐ろしい人物に描かれ、さぞかし迷惑なことだったろうと思います。
詳しくは次回の記事でご説明します。
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次回は、日本の標高水準点や霊岸島水位観測所を見学します。
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