共産党規約は自己批判の義務づけ(強要)を禁止している

 日本共産党の活動用語として「自己批判」というのがあります。

 党外の人にこの言葉を使ったことがありますが、「あの、ジコヒハンって何ですか?」と聞かれました。

 一応、一般の辞書の見出し語としてあります。「自分で自分を分析して批判すること」(『精選版 日本国語大辞典』)「自分の言動の誤りを、自分で批判すること」(デジタル大辞泉)。なんとなくわかりますかね。

 簡単に言えば「反省」のことです。

 自分のあそこが間違ってたなー、とか、ああいう言動はよくなかった、とか、「自己の過去の言動についての可否、善悪などを考えること。自分の行為をかえりみること」(『精選版 日本国語大辞典』)です。

 さて、日本共産党の規約では、この自己批判はどう規定されているかと言いますと……実は今の規約には「自己批判」という言葉では規定がありません。

 ただ、規約第5条(五)では

党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。

と定められています。

 朱で強調した部分がポイントですが、日本共産党規約では「保留の権利」が認められています。

 「自分の意見を保留する」とは、どういうことでしょう。

 自分の元の意見があり、否決されたり、多数意見にならなかったり、上級の決定とくいちがうことがあります。

 その場合、元の自分の意見を捨てずに持っておいてもよい、ということです。しかし、決定は実行してくださいね、というのが規約の建てつけです。

 例えば、「福岡市で行われる世界水泳大会の開催に賛成すべきだ」という意見をAさんは持っているとします。共産党市議団の政策をそのように変えるべきだと意見を会議で言ったとします。しかし、多数にはなりませんでした。

 Aさんは「世界水泳大会反対」というみんなの意見を聞いて、「なるほど、ああいう電通丸投げの巨大イベントを今やるのはおかしいな」と元の自分の意見を捨てて賛成することももちろんあるでしょう。

 しかし、Aさんが頑として「いや、やっぱり賛成すべきだ」という意見を持ち続けることは一向に構わないのです。多数で「反対」に決まったからと言って、Aさん個人の意見や内心を変える必要はないのです。これが規約が定める「自分の意見を保留することができる」という意味です。(ただし、Aさんが個人的に内心でどう思っていようと、決定は実行しないといけません。Aさんは議会では「反対」の立場で行動しますし、党の宣伝行動などで「世界水泳賛成!」と演説したり、そういうビラを撒いてはいけません。)

 「自分の意見を保留する」ことは権利として定めているので、多数派や上級機関などがこの権利を侵害することは許されません。規約違反となります。「世界水泳に賛成したことは私の間違いでございました、と言え!」とか「なぜ世界水泳に反対と思えなかったのかという自分の誤りを見つめる反省文を書いてこい」とか、そういうことをしてはいけないのです。

 このように、意見の保留の権利を認めることで、採用されなかった意見、自分の元の意見を強制的に「反省」させる・放棄させる行為を禁じているのがわかると思います。

 これは内心の自由に立ち入らないということでもあります。

 元の意見をどうして自分は持ってしまったのか、そんな意見や考えを持ってしまった自分は間違っており、それを批判する……そんなことを義務づけたり強要したりしてはいけないのです。もちろん「保留することができる」という規定ですから、保留しなくてもいいんです。しかし、元の意見を持ち続けたいと思ったとき、元の意見を放棄させて元の意見を持っていた自分を批判しろと強要することはできません。

 つまり、日本共産党規約は、自己批判の義務づけ(強要)を禁止しているのです。

 自己批判を義務づける、とはどういう行為でしょうか。

 例えば、「自己批判せよ」と命令したり指示したりすることはそれに含まれるでしょう。

 あるいは、「自己批判をすること」などと決定にしてしまい、それによって迫ることもその一つです。

 「決定の実行」は党員の義務ですから、まさに「義務づけ」になってしまいます。自己批判しないと処分する、あるいは処分や除籍につながるよ、と脅すことも「義務づけ」にあたるでしょう。というか、まさにそれは強要ですよね。特に、専従者など除名・除籍や役員罷免などの処分が自分の生活と直結している人はなおさらでしょう。

 もう一度言います。

 日本共産党規約は、自己批判の義務づけ(強要)を禁止しています。

 つまり、共産党の規約は外面に現れる行為を統一することだけが求められていて、内面・内心に立ち入ってそれを改造し、無理やり同化させてしまうようなやり方は禁止されているのです。

 もっと平たく言えば、「本人の意に反して反省文などを書かせてはいけない」ということです。

 

 この記事で言いたいことは基本的にこれだけです。あとは補足です。

 

「自己批判をするのは当たり前じゃないか」という人へ

 古い世代の人の中には「自己批判するのは当たり前ではないか」「自己批判を決定することの何が悪いのだ」と思っている人がいるかもしれません。

 これまで処分になるような規約違反を問われたケースのほとんどは、本人も認めている「悪さ」をしたことがほとんどでした。例えば、補助金の詐欺をしたとか、女子高生のスカートの中を盗撮したとかです。だから、自己批判を求めたら自己批判をする例がほとんどだったのです。

 しかし、規約違反かどうかがあいまいな場合はどうでしょう。

 少なくとも規約違反に問われている人と組織側との間で、その行為が規約違反かどうか、大きな意見の違い・争いがあった場合などです。違反の容疑をかけられている側は露ほどにも自分が悪いとは思っていないというようなケースです。

 共産党が分裂した「五〇年問題」のとき、宮本顕治などが味わった悲哀はこういうことでしょう。宮本の行為は「分派行為」と中央多数派から批判されましたが、宮本は敢然と反論しました。

 もし正当な手続きでその人の「規約違反」が認定されたとしましょう。

 そのときでも、その人は、自己批判しなければならないでしょうか。

 もちろん、してもかまいません。会議でのみんなの議論を聞いて自分の考えを変えることはありうるからです。

 しかし、議論を聞いてもまったく納得できない。でも自分の規約違反の認定はされて、処分が決められてしまった——そういう場合、自己批判はする義務はありません。

 なぜなら「規約違反・処分」という決定に対して、少数だった自分の意見は保留する権利があるからです。ただし、違反の認定と処分は実行されます。そして、自分では納得していない、決定された多数派の規約解釈には、納得していなくても、従う義務は課せられます。あくまで「納得した」と表明する義務がないという意味です。

カツオは自己批判したことがあるのか…

 もう一つは、古い世代の人は、単なる自己批判じゃなくて、自己批判を強要する(義務づける)ことさえ当たり前だという文化で育っているのですが、これは新しい規約で明確に許されなくなりました。

 これは十分に注意が必要です。うっかり前の文化でやると、自己批判を強要してしまい、それ自体が規約違反になってしまいます。また、内心の自由に踏み込んで圧迫を加えることになりますから、ハラスメントにもつながります。

 確かに昔は自己批判を強制するような党活動が当たり前のようにありました。

 かつては自己批判を義務づける条項が規約にあったんですね。

 2000年に改定される前の党規約の前文には次のような一文がありました。

…党と人民の歴史的事業をなしとげるためには、党はその活動の成果を正しく評価するとともに、欠陥と誤りを軽視せず、批判と自己批判によってそれを克服し、党と人民の教訓としなくてはならない。(旧規約)

 また、第2条では次のように定められていました。

党員の義務は、つぎのとおりである。…

(五)批判と自己批判によって、自己のくわわった党活動の成果とともに欠陥と誤りをあきらかにし、成果をのばし欠陥をなくし、誤りをあらため、党活動の改善と向上につとめる。(旧規約)

 しかし、開かれた党となるために2000年に新しい規約となり、自己批判を義務づけていたこれらの条文(前文・第2条)は全て削除されました。

 他方で、意見を保留する権利は新規約に明確に定められています。

 さらにジェンダーや人権についてこれまでのようなやり方は許されなりました。

 旧規約での自己批判義務の削除、新規約での保留の権利の保障——自己批判の義務付け・強要を禁止した規約改定の意図は明確ですね。

 ジャニーズ事務所の性加害は実に半世紀以上にわたって行われ、つい最近まで「よくある通過儀礼」だとされてきました。それは今や絶対に許されない行為であったことが満天下に明らかとなりました。昔の通りの感覚で、自己改革せずに党活動を惰性でやってしまうと、恐るべき過ちを犯すことになります。

 

自己批判は教育的な働きかけの中で自発的に行われるもの

 では自己批判そのものが禁止されたのかといえば、そんなことはありません。

 市田忠義副委員長が『日本共産党の規約と党建設教室』(新日本出版社、2022年)の中で、

批判と自己批判に強い幹部集団にならなければなりません。(p.303)

と述べているように、自分のやったことを分析し、必要なら反省して、見直す、つまり自分を批判することは、とても大事な精神の営みです。

 しかしそれだけに、自己批判を外から強要してはならないのです。

 消極的な意味では、本人の内心の自由を破壊し、保留の権利を認めた党規約に違反するからです。

 積極的な意味では、本人の自覚が自発的に育つようにしむけなければ、つまり丁寧に教育的に行わねば、本当の「自己批判」ではないし、そうしないと真の思想になりません。

 これは社会の当たり前のルールでもあります。

 浅野秀之さんという弁護士の方は、一般の会社について

始末書(いわゆる反省文)の提出を、懲戒処分による脅しをもって強要するのは、適切な労務管理とはいえません

たとえ会社と労働者の関係といえど、意思や気持ちといった内心まで強要されはしません

と述べています。

 これが今の世間標準のルールです。

 このような新しい状況を理解せずに、自分の昔の感覚で「自己批判」を考えたら、およそ新しい世代の党員を迎え、定着させることはできません。

 第28回党大会8中総ではジェンダーやハラスメントの問題を党活動のなかでも「重視する」とされ、「人権意識のゆがみや立ち遅れ」が党内に残されていることを指摘し、それらと「向き合って、つねに自己改革する努力」を呼びかけています。

この間、残念ながら、これに逆行する言動が党員を深く傷つけ、その成長を妨げ、党組織の民主的運営と団結を損なう事態が、一部に生まれています。

 自己批判を「決定」などによって強要する行為があれば、それ自体が党規約違反であるとともに、まさに8中総が警告したハラスメンを組織が行なってしまうことになります。