カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.12.20 土地は誰のものか ②

「〈はじめに〉

司馬遼太郎の警告

土地のあり方が、人々の生活や行動に大きく影響を与えることはもちろんであるが、

それだけでなく国家のあり方や存亡に関わるということを、…危機感をもって警告したのが、

あの国民的作家司馬遼太郎であった。…

旧土地基本制定の背景となった田中角栄の「日本列島改造論」とその後のバブルなどによる

「地価高騰」の影響を目の当たりにしながら、政府の無策とそれによる人心の荒廃は

「私は、太平洋戦争を起こし、負けて降伏したあの事態よりももっと深刻なのではないか、

日本は再び敗戦を迎えたのではないか…」

…

空き家は…実は全国に850万戸もあり、間もなく1000万戸になるという。…

「不明土地」が九州全土の広さを超えて、間もなく北海道全域ぐらいの面積に広がる…

マンション、これまでの全国675万戸が建設されている

…

 

〈土地所有権問題の根本原因〉

(原則としては)自分で利用しない場合には、他人に売却するなり賃貸することができれば、

不明土地や空き地・空き家は発生しない。…

(いまや)個々人の「管理」に基礎を置く対策だけでは対処不能

(根本には、「少子高齢化社会」がある)」

 

     


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〈はじめに〉に、著者が述べようとされていることが凝縮されていると感じた。

 

具体的な中身で痛感したことは次回にして、今日は私自身が若い頃からずっと

気になっている「私的所有」ということについて書きます。

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昔から「私的所有」はおかしい、不自然だと直感していた。

(「私的所有」といっても個人の持ち物などではなく土地という不動産。

大規模な自然変動、災害がない限り不変の土地。ごく一部であっても地球そのもの)

 

「私的所有」というと、私は産業革命期の「囲い込み」を連想する。

大航海時代の新大陸発見による「植民地化」、「開拓」も。

(「開拓」にはアメリカ西部開拓や日本の北海道開拓のように先住民の追い出しもあった)

 

それら私有地化の特色、本質は、土地獲得競争で勝つこと。

他人よりいち早く取り、「この土地はわしのもの!」と宣言すること。

(獲得した土地はもともと共有地《誰の所有でもないから誰の所有でもある》だった。

それを他人より早く獲得し、そのことを宣言した者が「地主」《土地所有者》になる)

 

基本的に同じような似たような経緯で共有だったものが分割され、

人間社会の不平等は始まった(と思う)。

産業革命期の「囲い込み」、大航海時代の「植民地」だけではなく、

もっと以前の古代や中世に王族、貴族など支配・管理する者が生まれた(と思う。

 

生産力が低かった原始共同体の社会はみんなが実質的に平等だった。

しかし、過酷な自然を味方につけ、利用し、みんながいきてていくためには、能力が高く

人望の篤い人を首長、リーダー、指導者に推して政治の芽生えのようなものが生まれた。

そいう人への感謝、お礼の気もちの物質的な現われが寄進や寄付であり、それらが元で

「私的所有」が始まった。

もちろん、そのうち欲も生まれ、他の集団、部族との富《主に領地という名の土地》獲得競争、

戦争が、あたかも人間の本能であるかのように起きたこともあると思う)

 

そうだとするなら、時代を超え共通しているのは土地など資産のある人たちの

いちばん初めの先祖は(善悪を超えて)才覚者だったに違いない(と思う。

 

「私的所有」といっても時代や社会によりさまざまな違い、バージョンの差はあったが、

社会の基本制度として親から子、子から孫へと《当然、断絶というものもあっただろう》、

それが自然なあり方、当然な行いのように受け継がれてきたのではなかろうか)

 

   


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ところで「私的所有」を広く考えてみると、「自分の有して(持って)いるもの」

であり、土地などの財産・資産など外のことだけではなく、個人の性格・性質、

身体や頭脳、能力すべてにいえると思った。

(つまり「私的所有」は、社会制度のような次元を超えて人間そのものに当てはまる)

 

そう思い考えると人の誕生は、「親ガチャ」(どんな親のもと、家に生まれてくるか

わからない「運不運」「偶然」の問題)「社会(国)ガチャ」いう環境(外)と、

同時に自分という人間の個性(内)という、こちらも「運不運」「偶然」の問題

であることに気づく。

(「誕生」という出発点だけではなく、人生そのものが「運不運」「偶然」。

事故に遭ったり、不治の病に罹ったり、ウクライナやパレスチナ、シリアなど紛争、戦争の地に

生まれたことをどう受け入れればよいだろう)

 

     


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「私的所有」という話が、「運不運」「偶然」の話になってしまった。

 

運が「ある、良い」、反対に「ない、悪い」つまり不運という話自体は

「私的所有」とは次元の違うものだけど、私としてはこれ(いまから述べること)が

「結論」めいたことです。

 

・土地の「私的所有」は不平等社会の大元なのでやっぱりおかしい、不自然。

(いつか、土地の「私的所有」制度は廃止されなければならないと考える)

・「運不運」という二元論的な考え方や発想をし、「偶然」に任せる(「思考停止」と

似たりよったり)のではなく、想像力を駆使し、「だったかもしれない」という

「偶有性」的な考え方や発想が大事だと思う。

 

(「文明社会」《=「資本主義社会」》においては土地の「私的所有」は当然視されているが、

「原始平等社会」「非文明社会」では存在しなかった《存在していない》。

 

「科学技術」という「文明」が単純に信じられたこれまでの人類史。

「それは常識 それは前提」と当然視しているものを疑ってみなければならない時代に

私たちは生きている)

 

 

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                              ちりとてちん

時雨傘 開きたしかめ 貸しにけり 松本たかし

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