梶ピエールのブログ

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「人間の条件」とアジアにおける「公共圏」:劉暁波氏のノーベル平和賞受賞をどう考えるか

 来月に劉暁波氏のノーベル平和賞授賞式を控え、参加しない国はどことどこだ、ということでまた関心が高まっているようだ。あまりフォローはしていないのだが、受賞以来、日本でも僕自身の予想以上に詳しく劉氏とその思想的な背景についての報道がなされたようで、長らく絶版になっていた劉氏の『現代中国知識人批判』までがすぐに復刊された。この本を開いてみればわかることだが、劉暁波が欧米かぶれの近代主義者だというようなレッテル貼りはまったくの誤りで、むしろアジアにおける「抵抗する知識人」の系譜に連なる人物であることがよくわかる。

現代中国知識人批判

現代中国知識人批判

 さて、授賞式にあたっては中国政府は劉氏の妻の出席も認めなかっただけでなく、諸外国に対しても欠席を呼びかけるなど、終始強硬な姿勢で臨んでいる。こういった中国側の姿勢からも、このような問題については、「西洋の価値観」対「アジアの価値観」ならびに「内政干渉への批判」と「普遍的な価値の重視」という二項対立的な見方がなされがちだ。しかしそうやって図式的にとらえることによって抜け落ちてしまうことはないのだろうか?

 個人的な立場を言うならば、劉氏へのノーベル平和賞授与ならびにそれを支持し、劉氏の釈放を求める諸外国によるメッセージは、単なる西洋の価値観を超えた普遍的な意義を持つものであり、それを内政への干渉として切り捨てることには道理がない、と考えている。しかしながら、僕は一部のアンチ中国論者のように、その立場を自明のこと、とはとらえていない。言い換えれば、なぜ、そのようなメッセージを発することには普遍的な意義があるのか、ということ自体改めて論じられるべきだと考えている。
 以下では、そのことを「改めて」論じるために、以前のエントリーで少しだけ触れたような問題、具体的には「政治」をめぐるアレントの議論にもう一度立ち戻ることにしてみたい。

 ここで「アレントの議論に立ち戻る」とはどういうことか。それは一言でいうなら、狭義の「政治」あるいは「公共性」の問題と「社会問題」とを切り分けて論じるということである。そうすることによって、一口に「内政干渉」といっても、それが中国国内の「社会問題」について干渉するのか、「社会問題」に関する政府の方針に異議申し立てを行う者に対する国家の姿勢に対して介入するのか、この二つの行為の違いがあらためて浮き彫りになるだろう。そして、結論を先取りするならば、劉氏のような政府に対して異議申し立てを行う知識人に対する弾圧に対して抗議することは、むしろ国際社会が、中国国内の「社会問題」に介入する事態を防ぐためにこそ必要とされる、というのが僕の考えである。

 さて、ここでいう「社会問題」とは、広い意味で「生存権」「社会権」といった「パンの問題」にかかわる問題であり、より具体的にいえば国内における所得分配をどうするか、ということに直接かかわる問題である。また、当事者でもないのに国外から「チベット独立」とか「東トルキスタン独立」などのスローガンを叫ぶ、という行為も、広い意味で「社会問題」への介入に含まれるであろう。

 アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチといったより伝統的な人権NGOは、こういった社会問題の解決に直接かかわることを慎重に避け、自由権の侵害への批判に活動を絞っていることは周知の通りである。なぜ、このような国際的な人権団体は、各国における生存権や社会権の問題への取り組みに慎重になる必要があるのか?それは、それが現実に大きな問題を引き起こす可能性が高いからである。

 「社会問題」について、当事者以外の人間が口を挟むことが問題含みなのは、結局それが「ポリス的な政治」、つまり人間の複数性を相互に尊重した政治によっては解決することができない問題だからである。ベンヤミンの議論にならえば、それが「政治」によっては解決されないものだからこそ、警察に代表される「法」を維持するための「暴力」によって秩序づけられなければならない。ベンヤミンは、そのような社会問題を秩序づけるために機能している暴力を「神話的暴力」と名付けたのだと考えられる。

 だとするなら、他国の「社会問題」について介入することは、結局のところ、現政権とは別な形で「社会問題」の解決をはかるための「暴力」に加担することを意味するはずである。その新たな「暴力」が、現政権による「暴力」よりもましなものであるという保証はない。いや、イラク戦争の例が示すように、現政権の圧制からの人々の開放を口実をした暴力的介入は、より悲惨な結果をもたらすというのが歴史の教訓である。その「暴力」の行使によって自身は決して傷つかない、とわかっているときには、人間が他者に対していくらでも暴力的になれるからだ。

 しかし、現地に生きる人々が社会問題の解決のために政治に参加しようとする行為を、現政権が暴力的に弾圧している場合はどうなのか?こういった事態に関しても、国際社会は手をこまねいてただ見ているべきなのだろうか?もし、そのような介入も行われるべきではない、とするならば、自国においてそのような言論圧力が行われた場合にも、なんら国際的な支援も期待できない、ということになってしまうだろう。つまり、この問題は、中国の「社会問題」への直接の干渉ではなくグローバル社会における「公共圏」を確立するか、ということに直接かかわっており、それゆえに「社会問題」への直接介入とはまったく逆に、肯定的にとらえられるべきなのである。

 今回の劉氏のノーベル賞受賞によって改めて提起されたのは、グローバル化した国際政治の「公共圏」とはどこにあるか、その線引きの必要性ではないか、と思う。言い換えれば、ある国の「社会問題」について、国際社会が直接に介入しなくてもよいようにするためにこそ、「社会問題」に対する国内の言論に対する自由権の問題には、むしろ積極的に国際社会からの介入が必要になるのではないか、というのが僕の考えである。

 日本は尖閣の問題で、中国が法の支配が存在しないことにより自国民が直接危害を受けるリスクにさらされていることを経験した。このことはとりもなおさず、中国と日本との関係を含め、東アジアにはいまだ「公共圏」が形成される兆しさえないことを意味している。われわれは、「東アジア共同体」といった内容の空疎な概念の実現を論じる前に、まず人権問題を軸とした公共権の形成を目指すべきなのではないだろうか。

 もちろん、そのことは自国における公共圏のあり方、たとえばそれはマイノリティを排除するものになっていないか、それを改善することが可能か、等という問題について考えることとセットになっているはずだ。その意味では。中国の人権問題について議論をすることは、東アジアに生きる者が「人間」として生きるための条件である、と言っても過言ではないように思う。