梶ピエールのブログ

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烏坎村の村民自治と中国における「公共性」(前編)


 「両会」を間近に控えた中国に関しては、習近平氏の訪米や、重慶における薄熙来の去就をめぐる権力闘争、そしてチベットにおいて相次ぐ僧侶の焼身自殺を初め、注目を集めている問題はあまりに多く、相変わらず重要トピックを把握するだけで精一杯の状況です。ここではとりあえず、先日神奈川大のシンポジウムでお話ししたこととも関連する話題として、昨年末より海外でも大きく取り上げられてきた、広東省烏坎村における村民自治の問題を、中国「公共性」概念考えをまとめておきたいと思います。

 さて、烏坎村の村民自治をめぐってはすでにいろいろな記事が書かれているが、中文ウィキペディアの記述を参照すれば事件の概要と経緯はほぼつかむことができる。日本における紹介記事の多くもこのウィキペディアの記述をかなり参考にしていると思われる。

 比較的新しい日本語の記事としては、以下のフィナンシャルタイムズの翻訳記事が参考になるだろう。

「民主選挙に沸く烏坎村、それでも中国は変わらない」

 また、中国史の専門家である平野聡氏は、ウェッジのウェブ連載記事でこの問題を正面から論じている。

「中国が中国である限り真の民主はありえない(前篇)(後編)」

 僕はこの平野氏の議論を読んだときに、その烏坎村の「自治」をめぐる評価には基本的に同意するものの、タイトルの「真の民主」という表現(これについては、chinaniews21氏が的確な突っ込みを入れている)を含め、若干の違和感を抱いたのも事実だ。以下の議論を読んでもらえれば、僕の抱いた違和感がどの辺にあるのか何となくわかってもらえるのではないかと思う。

 さて、中国における「公共性」という観点から見た烏坎村の争議をめぐる問題の特徴は、次のようにまとめられるだろう。第一に、「民主化」それ自体が目的ではなく、農地非転用にかかわるレントの分配という「経済問題」の解決として「民主」を要請したものであるという点。第二に、「社会権」「基本的人権」といった個人に保証された権利概念に訴えるというより、「貪官」の「自私」により「村全体」の権利が侵されることに反発しているという点。第三に、インターネット、香港・海外メディアなどを通じた「公共空間」への訴えと、 「貪官」の「自私」を誅する存在としての党中央への信頼が共存しているという点である。

 このうち、第三の点に関しては、上記のフィナンシャル・タイムスの記事でも以下のような形で触れられている。

 もしかしたら烏坎の物語は、中央当局が哀れな村民たちを地元幹部の支配下から救ったという話として受け入れられることになるかもしれない。
 実際、村で沸き起こった掛け声の1つは、「中央政府なしでは我々は何も解決できない」というものだった。これは中国政府を狼狽させそうなスローガンではない。

また、RFAの記事に掲載された写真に見られる、村民達が掲げた「汪洋書記、この村を助けて下さい」という垂れ幕の文字は、「貪官」を誅する「公共」の理念を体現した存在としての党中央への信頼を雄弁に物語っているといえよう。また、村民はメディアに対し、村民は「我々は土地問題について貪官に抗議しているだけだ。我々の中には党員・団員もいる」とそれが共産党の統治に意義をはさむものではないことを再三強調していたとも伝えられている。

 では、このような党中央に対する全面的な信頼に支えられた烏坎村の村民自治は、現在の共産党の支配を強化するものにしか過ぎない、と片付けられるべきものだろうか?

 僕は、烏坎村一連の自治の動きを一部の欧米メディアのように、中国の民主化に直結する「コミューン」として過大に評価することにはもとより批判的だが、一方で、それを「真の民主」とは全く無縁のものとして通り過ぎることも出来ないのではないか、と思っている。少なくとも、そこからは中国社会を歴史的に貫く「民主」あるいは「公共性」のあり方を考える重要な手がかりが得られるのではないだろうか(続く)。