私は通俗小説をバカにしているわけではない。

 私は通俗小説とか娯楽ものをバカにしているわけではなくて、常に、巧みなストオリイテリングで楽しませてもらいたいと思って読み始めて、失望するということが多いのである。
 藤村の『破戒』というのはあれはストーリーテリングが巧みなのである。ところが藤村自身は、それ以後、二度とああいう手腕を見せなかった。中村光夫は、そのことを言えばいいのに、社会性がどうとか言ったために、以後の批評を歪めてしまったのである。
 今日、ストーリーテリングの巧みさを言われることが多いのは、漫画や映画やドラマである。『めぞん一刻』後半の巧みさは誰も言うところで、例のお墓のエピソードなど、当時みな讃嘆したところである。ただ結局それが「漫画」という、いくらか荒唐無稽でも許されるジャンルだからであることは、重要で、だからあの漫画は映画化しても成功はしない。
 ここに厄介なのは、ストーリーの巧みさは、パターンがいく通りかに決まっているので、読者の側からいえば、年齢を重ねるにつれて、あまり感心しなくなり、文学史的にも、時代が下るにつれて変わってくることで、『ジェイン・エア』が、二十世紀に書かれたら誰も純文学扱いしないだろう、というのはそういうことである。つまりそれは、『レベッカ』になってしまうわけだ。
 今日ストーリーテリングが上手いというと、市川森一とか山田太一、ないしは山田洋次といったシナリオ作家があげられる。これも、娯楽映画(ドラマ)という枠内なればこそで、『淋しいのはお前だけじゃない』だって、小説だったらあのラストはありえない。「怪獣使いと少年」も上手いけれど、あれもウルトラマンという枠の中でだからありえるものだ。
 樋口一葉では「大つごもり」が一番その意味では上手いが、これはだから通俗と言われる。夏目漱石では『坊っちゃん』であろうが、これはストーリーというより、語り口が上手いのだ。菊池寛の『受難華』は、小林秀雄もそのストーリーに感嘆したものである。その意味では『真珠夫人』などよりずっとうまいのに、なぜか文庫などで復刊しない。源氏鶏太の『御身』も巧みである。
 私は中学生の時に、中野実の『花嫁設計図』を夢中で徹夜して読んだが、あのパターンはよく使われるもので、ジェイン・オースティン以来のものだが、赤川次郎の『ヴァージン・ロード』は、これを時代的にぎりぎりのところで再現したものである。『風と共に去りぬ』は、これを基本にしていろいろ組み合わせて大成したもので、うまいのは言うまでもない。シェイクスピアなどは、それまでの作品から自由自在に剽窃して巧みなストーリーを作り上げるのだが、『アントニーとクレオパトラ』などは、ストーリーとしてはまったくの失敗作である。
 『足ながおじさん』は実は大してうまくないのだが、『キャンディ・キャンディ』はその枠を使って大成功を収めている。ストーリーの巧みなものは、うまくすれば国際的な成功を収める。
 芥川賞や直木賞が、ストーリーの巧みなものに冷淡なのはよく知られていて、それでとうとう受賞できなかったのが、山川方夫である。芥川賞史上で最もストーリーが巧みなのは、もちろん松本清張である。だが松本も、長くなればなるほど失敗する。『砂の器』の原作はかなり変なのだが、映画版では変なところを削ぎ落として成功した。長くなるとストーリーが壊れるということはよくあることで、吉川英治も、『宮本武蔵』は、別にうまくはない。司馬遼太郎は、あれで存外ストーリーが下手であることは、『梟の城』を見れば分かる。筒井康隆は実はストーリーが上手いことは、『馬の首風雲録』を読めば分かる。浦沢直樹の『20世紀少年』などは、実はそれほどうまくないのを、引き伸ばしたからさらに破綻を来したもので、永井豪も『デビルマン』で見せた巧みさは、その後の長い作品では二度と達成できなかった。
 直木賞受賞作を私は全部読んでいないのだが、ストーリーが上手いといえば、「蒼ざめた馬を見よ」『私が殺した少女』『恵比寿屋喜兵衛手控え』あたりか。ただ、ミステリーの場合、うまいと見えても、別種の興味で引っ張っているから、ストーリーが上手いというのと違う観点が必要になってくる。『刑事コロンボ』は初期のシナリオは優秀だが、あれはストーリーではない。
 先にあげたオースティン、『めぞん一刻』『御身』『受難華』『ヴァージン・ロード』などは、しかし実は、結婚するまでセックスはしないという社会通念の下でのみ通用するストーリーで、処女性というものがどこで失われるかという興味でストーリーを作り上げている。『なんて素敵にジャパネスク』なども、それほど上手くないが、その一種である。『ガラスの仮面』は、入れ子構造で美内すずえのストーリーテラーとしての才能を遺憾なく発揮したものだが、その大枠が、北島マヤのみならず、紫織さんまでが処女であるという前提に支えられていることが、今回はっきりしたわけで、『ヴァージン・ロード』(一九八三)が時代的にぎりぎりの線であったというのは、そういうことである。
 処女性をめぐる攻防がストーリーの基本線となるのは、リチャードソンの『パミラ』以来のことで、驚くべきことに、『南総里見八犬伝』の全体の枠はストーリーとして優れたものだが、これまた処女性をめぐるものである。九〇年代以降、その前提が崩れたために、ストーリーの巧みな物語というのが成立しにくくなった。さほどストーリーが巧みではない『ローマの休日』だって、それより巧みな『北北西に進路をとれ』だって、ヒロインが処女である、ないしは、処女か否かということが軸になっているのである。
 それで難しいことになったのが、東野圭吾の『秘密』で、これは一見ストーリーが巧みだが、いったい十五、六の娘のいる夫婦があんなに仲がいいなんてことがあるものか、と大人なら思うわけである。
 しかし山本周五郎って大衆作家だったんだろうか。『青べか物語』とか『季節のない街』とか、純文学
じゃないのか。

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水原紫苑さんの新刊。小説です。がんばって水原さん。