日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年4月8日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

 

此表様子為可聞届、飛脚付置之由、尤悦被思食候、先書*1如被仰遣、去月廿七日至三枚橋*2被成御着座、翌日ニ山中・韮山*3躰被及御覧、廿九日ニ山中城中納言*4被仰付、即時ニ被責崩、城主松田兵衛大夫*5を始、千余被打捕候、依之箱根・足柄*6、①其外所〻出城数十ヶ所退散候条、付入*7ニ小田原*8ニ押寄、五町十町*9取巻候、一方ハ海手警*10船を寄詰候、三方以多人数取廻、則②堀・土手・塀・柵以下被仰付置候、北条*11首可刎事、不可有幾程候、是猶*12様子者不可気遣候、次③韮山城も付城堀・塀・柵出来候、是又可被干殺*13候、委細長束大蔵大夫*14可申候也、

 

    四月八日*15  朱印

 

      加藤主計頭とのへ*16

(四、3022号)
 
 
(書き下し文)
 
 
この表の様子聞き届くべきため、飛脚付け置くの由、もっともに悦ばしく思し食され候、先書仰せ遣わさるごとく、去る月廿七日三枚橋に至りご着座なされ、翌日に山中・韮山の躰御覧に及ばれ、廿九日に山中城中納言に仰せ付けられ、即時に責め崩され、城主松田兵衛大夫をはじめ、千余打ち捕られ候、これにより箱根・足柄、①そのほか所〻の出城数十ヶ所退散候条、付け入るに小田原に押し寄せ、五町十町取り巻き候、一方は海手警固船を寄せ詰め候、三方は多人数をもって取り廻し、すなわち②堀・土手・塀・柵以下仰せ付け置かれ候、北条の首刎ねるべきこと、いくほどあるべらず候、様子においては気遣いすべからず候、次いで韮山城も③付城・堀・塀・柵出来候、これまた干殺さるべく候、委細長束大蔵大夫申すべく候なり、
 
 
(大意)
 
こちらの戦況を知っておきたいということで飛脚を用意したこと、実に嬉しく思う。先書で述べたとおり3月27日三枚橋に着陣し、翌日山中・韮山両城の様子をうかがい、29日には秀次に山中城を責め落とすよう命じたところすぐさま落城させた。城主の松田康長はじめ、千余名の者を討ち取った。この戦果により①箱根や足柄、そのほかあちらこちらにある出城数十ヶ所も恐れをなして兵士たちが逃亡したので、このまま小田原城へ押し寄せて、あと5~10町のところまでに迫り包囲した。海沿いは警固船が守りを固めており、残る三方は大勢で包囲している。②堀、土手、塀。柵などをつくらせたので氏直の首を刎ねるのも間もなくのことであろう。こちらの戦況を心配するには及ばない。つづいて韮山城にも③付城、堀、塀、柵などを巡らして兵粮攻めにするつもりである。なお詳しくは長束正家が口頭で申す。
 
 

 

図1. 山中城・韮山城・小田原城ほか北条氏領国関係図

        横浜市歴史博物館『特別展 秀吉襲来』図録54頁の図より作成

 

 

本文書においても尊敬の助動詞「被」や「御」が付けられているのは秀吉の行為であるが、一ヶ所だけ「責め崩され」と秀次の行為にも「被」が添えられている。

 

 

清正へ書き送った内容は3月29日に山中城を落とし、城主松田康長はじめ1000名以上を討ち取ったこと。箱根や足柄などの数十ヶ所の出城も兵士たちが逃亡したので、小田原城まで5~10間のところまで迫り、海上を封鎖し、陸上も堀や柵などを巡らした。韮山城も同様なので氏直の首を取るのも間近であろうということである。

 

下線部①から分かるのは出城の存在が戦術上重要な役割を果たしていたということである。軍事史には疎いのでそれ以上は踏み込まないが、北条氏側は各出城からゲリラ戦術を行っていたのだろう。

 

②、③では戦況が有利になるに従い、包囲網を堅固にするため大規模な工事を繰り返している。木材や人足を大量に必要するはずだが、どう確保したのだろうか。

 

ひとつの仮説として禁制を公布した駿河や伊豆など東海道近国の郷村から人足を徴発したことが考えられる。国単位の禁制を大量に発した意図もそこにあったのだろう。「安全保障」*17と引き替えに陣夫役を負担させたということではないだろうか。

 

「干殺し」させることは兵員の損害を最小限度に抑える点では優れているが、堀や柵、塀などを巡らせるために膨大な資材と労働力を必要とする。決して経済的な戦争とは言えず、むしろ浪費的というべきである。それを負担するのは大名でありかつ百姓である。豊臣政権の特徴のひとつに「際限なき軍役」負担が挙げられる所以である。

 

ところで籠城する側からは豊臣軍がどのように見えたのか

 

『雑兵物語』*18では雑兵たちに次のように語らせている。

 

 

 

敵地へは踏み込むと、あんでも*19目に見ゑ、手にひっかゝり次第にひつ*20拾うべい。とにかくに陣中は飢饉だと思うて、喰らわれべい草木の実は云うにや及ばない、根菜に至るまで馬に引っ付けろ。松皮は煮くさらかして、粥にして喰らったもよい。

 

 

 

 

これは籠城している側ではなく、城を攻めている側の状況(「敵地へ踏み込むと」)であり、兵粮を「現地調達」するための心得を説いたものである。

 

中近世移行期は慢性的な飢餓状態にあったが、戦地ではさらに酷かったようである。兵站・輜重はそれほど機能していなかったので、いきおい「現地調達」に走らざるを得ない。商人が出入りしていれば購入することも可能だが、そうでなければ上述のように「視界に入る、手の届く物はすべて拾い」、木の皮を剥がして煮込み「粥」にして食べることで生き残るしか術はなかったのである。

 

 

 

この点は次回松田康長の書状を採り上げて探ってみたい。

 

*1:4月1日付朱印状写、3005号

*2:駿河国駿東郡、下図参照

*3:伊豆国田方郡、下図参照

*4:豊臣秀次

*5:康長

*6:相模国西郡、「西郡」は後北条氏が足柄上下郡を西郡に再編成した

*7:敵に追い討ちをかけて城内に攻め込むこと

*8:相模国西郡

*9:「町」を城下町の「○○町」と解釈できなくもないが、他の文書では小田原城への距離として用いているから、小田原城まであと「5~10町」(545~1090メートル)の距離まで迫ったと読んだ方が適切であろう

*10:固脱カ

*11:氏直

*12:於の誤りカ

*13:兵粮攻め

*14:正家

*15:天正18年、グレゴリオ暦1590年5月11日、ユリウス暦同年同月1日

*16:清正

*17:豊臣軍兵士に掠奪をさせないといった程度の消極的安全保障に過ぎないが

*18:岩波文庫、79頁

*19:何でも

*20:必ず

元和4年11月29日雑賀関戸勝介宛野上原野村孫二郎人身売買証文

 

今回は毛色の変わった文書を採り上げる。大坂落城から3年後の元和4年のものである。

 

 

   定

 

一、我等之子とらと申者六ツノとしより、銀子拾弐匁ニうり渡し御年貢ニ仕候間、如何様共末代*1御つかひ可被成候、若御代官衆*2御給人衆*3又ハいつ方よりもゆか*4と申かけ候ハヽ、我等申わけ*5可仕候、少もかまひ*6無之様に可仕候、若此子走*7候ハヽ人代*8ヲたて可申候、縦天下一同之御徳政行、又ハ如何やうの儀*9御座候共相違有間敷候、仍状如件、

 

  元和四年霜月廿九日*10     のかみ原野村*11

                     孫二郎(略印)

 

    雑賀関戸*12

     勝介様参

 

(『和歌山県史 近世史料三』468頁)
 
(書き下し文)
 
 

   定

 

一、我等の子とらと申す者六ツの歳より、銀子12匁に売り渡し御年貢に仕り候あいだ、いかようとも末代御使いなさるべく候、もし御代官衆・御給人衆または何方よりもゆかと申し懸け候ハヽ、我等申し訳け仕るべく候、すこしも構いこれなきように仕るべく候、もしこの子走り候ハヽ人代を立て申すべく候、たとい天下一同の御徳政行われ、または如何ようの儀御座候とも相違あるまじく候、よって状くだんのごとし、

 

 

(大意)
 
   定
 
一、我が子とらと申す者、6歳の時に銀12匁で貴殿に売り渡し年貢を皆済することができましたので、いかなる種類の労働にも末代まで譜代下人としてお使いください。もし代官や給人たちやそのほかの者たちがとやかく言うような場合は、われわれが弁明に立ち、そなた様に少しも御迷惑にならないように致します。もしとらが欠落したならば代人を立てます。たとえ天下一同の徳政や代替わり、国替えなどがありましてもこの約束を反故にするようなことは致しません。以上です。
 
 
 

 

 

数え年わずか6歳*13の娘を銀12匁で「末代」に「売り渡し」たとあるように人身売買証文であることが明らかである。非熟練労働であろうと6歳の子が即戦力になるわけではないので数年間は養育することになる。売主には「口べらし」になる。

 

また「たとい天下一同の御徳政」云々の文言は徳政担保文言といい、中世後半から近世にかけて常套句となっていた。

 

 

図1. 紀伊国雑賀庄・野上庄周辺図

                    『日本歷史地名大系 和歌山県』より作成

またこの時期の雑賀庄内の各村高は下表の通りで、関戸村が宗教的紐帯の中心をなしていた。

表1. 雑賀庄内各村高

表2. 関戸村人身売買証文一覧

 


上表2によれば日高郡、牟婁郡など紀伊国一国規模で人身売買を行っていたことがわかる。これらの文書は同じ家に伝わっているので、名宛人は同一人物か直系卑属であろう。

 

図3. 紀伊国略図

                     「紀伊国」(『国史大辞典』より作成)

『和歌山県史』は「身分的な奉公契約から債権的な雇傭契約への労働関係の推移をみることができて貴重である」*14と評価する。

 

奉公人請状には次のような付帯条項が記されているのが一般的である*15。

 

  • 奉公人が欠落した場合当方で探し出す。
  • 欠落した者を見つけられなかった場合は代人を出す。
  • 領主の国替えや徳政令が発令されるなど「世直り」のような出来事が起きても異議申し立てをしない。
  • 奉公人が損失を与えた場合すべて弁済する。
  • 奉公人をどのように使役しても構わない。また折檻の上怪我をしても申し分はない。
  • ハンセン病などの病を患っていることが75日以内に判明したら契約を解く。

 

遊女奉公の場合はさらに付帯条項が追加され、請人は無限責任を負っていた。


幕府は以下のように人身売買禁令を発していたが、脱法的な形式を取る者があとを絶たず、新田開発に伴う水害が多発したことで元禄11年には事実上解禁し、その法的慣習は1955年最高裁の前借金無効判決まで続いた。昭和恐慌時の「娘の身売り」は教科書でもおなじみだが、こうした歴史的な背景があったことは踏まえておきたい。

 

表3. 徳川幕府人身売買禁令年表

             牧英正『近世日本の人身売買の系譜』1970年、創文社より作成

 

元和偃武といってもそれはあくまでも「徳川の平和」に過ぎず、普遍的な意味における平和を意味するものではなかった点に注意したい。

 

 

*1:「代々」つまり「譜代」として

*2:紀州徳川家の直轄地を管轄する代官

*3:地方知行を受けている給人、「地頭」とも呼ぶ

*4:「瑜瑕」=珠と瑕。良し悪し。ここでは自分の娘であるとか許嫁であるとか難癖を付けてくること

*5:弁明

*6:構い=差し支え、支障

*7:欠落すること

*8:代わりになる者

*9:代替わりや領主の国替えなど「画期」をなすもの

*10:グレゴリオ暦1619年1月14日、ユリウス暦同年同月4日

*11:紀伊国那賀郡野上庄野原村、下図参照

*12:紀伊国海部郡雑賀庄関戸村、下図参照

*13:満年齢で4~5歳

*14:「解説」1002頁、強調は引用者

*15:『概説古文書学 近世編』299~300頁、1989年、吉川弘文館

天正18年4月4日九鬼島兵粮奉行宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

急度*1被仰出候、

 

一、御兵粮*2つミ*3候舟共*4為迎、梶原弥介*5披遣候、彼者*6申次第、舟共も早〻可出候、於油断者可為曲事事、

 

一、右御兵粮賃*7舟ニもつミ*8、運賃之儀ハ弥介申通可遣之事、

 

一、御兵粮米何方之舟ニても*9可預ケ置*10と申候者*11、九鬼*12為留主居いか程も預り可置*13事、

 

  右旨、委曲*14梶原弥介可申渡候也、

 

   卯月四日*15 (朱印)

 

   九鬼島*16ニ在之御兵粮米

           奉行共かたへ

(四、3014号)
 
(書き下し文)
 

きっと仰せ出され候、

 

一、御兵粮積み候舟ども迎えとして、梶原弥介遣わされ候、彼の者申し次第、舟どもも早〻出だすべく候、油断においては曲事たるべきこと、

 

一、右御兵粮賃舟にも積み、運賃の儀は弥介申す通りこれを遣すべきこと、

 

一、御兵粮米いずかたの舟にても預け置くべしと申しそうらわば、九鬼留主居としていかほども預り置くべきこと、

 

  右の旨、委曲梶原弥介申し渡すべく候なり、

 

 

   九鬼島にこれある御兵粮米奉行ども方へ

 

(大意)
 
関白殿下が以下のことを仰せになった。
 
一、兵粮を積む船の迎えとして梶原弥介を遣わした。梶原が申すように出帆させるように。油断があった場合は曲事とする。
 
一、右の兵粮船に運送賃も積み込み、弥介が申すとおりに船賃を支払うこと。
 
一、兵粮米はどこの船であろうと弥介に託すように彼が申したなら、嘉隆は留主居の責任において何艘でも船を駆り出すこと。
 
右の趣旨、詳しくは梶原弥介が口頭で申す。
 
九鬼島に滞在している兵粮米奉行たちへ

 

 

本文書で「仰せ出され候」、「遣わされ候」のように尊敬の助動詞「被」が添えられている動詞の主語が秀吉で、ない場合は梶原弥介や九鬼嘉隆などである。

 

九鬼島がどこの島を指すのかは不明だが、九鬼嘉隆の本拠とする志摩国鳥羽周辺であろう。あるいは志摩国を「島」と呼ぶ例もあるので*17、九鬼の領国志摩を漠然と指している可能性もある。いずれにしろ伊勢湾に面した志摩は東国への大動脈の起点だった。

 

図1. 志摩国鳥羽周辺図

                 『日本歷史地名大辞典 三重県』より作成

天正17年12月5日船手人数定は表1の通りである。

 

表1. 船手人数

 

横道に逸れるが、石高に比例して軍役を負担するとは具体的にいかなる負担を諸大名が負うことになるのか。知行高を経済力と単純に置き換え、衣食住や武装など必需品と軍役負担の支出合計、予算制約などを図示すれば下図のように負担に耐えきれない大名となんとか耐えうる大名に分かれる。

 

 

図2. 軍役負担と知行高



むろんそうした負担を最終的に負うのは百姓らである。朝鮮出兵前の天正20年(文禄1年)1月豊臣秀次は吉川広家、小早川隆景、浅野長吉らに以下のような朱印状を発した。

 

 

御陣へ召し連れ候百姓の田畠のこと、その郷中として作毛仕りこれを遣わすべし、もし荒れ置くにいたらばその郷中御成敗なさるべき旨のこと、付けたり郷中として作毛ならざる仕合わせこれあるにおいては、かねて奉行へ相理るべきこと

 

(吉川家文書124号)

 

 

従軍させた百姓の田畠を郷中が責任を持って「惣作」*18し、けっして荒廃させることのないよう命じている。貴重な労働力が従軍により奪われるので、その労働力不足を共同体の連帯責任として転嫁したわけである。現実には秀次の不安は的中し、各地で荒廃田が出現することになる。

 

本文に戻ろう。船手が「船頭」を意味するならば、乗組員の総員はこれを大きく上回り、乗組員の総員を意味するなら水軍の規模となる。もちろん秀吉と水軍を率いる諸大名とのあいだに「船手」をめぐる解釈のズレが生じることもありうる。また水軍のうち輜重兵的な役割を担う者もいたはずである。本文書は兵粮米運送を担う輜重兵のような存在を「船手」と呼んだのであろう。

 

 

近代の軍制とは異なり、軍人(serviceman/officer)と民間人(civilian)、武官と文官の区別はなく、また交戦規程もなかったので戦闘員も非戦闘員も戦場に駆り出され、あるいは戦闘に巻き込まれることも少なくなかった。老若男女を問わず武装し、武力行使していた自力救済の時代であるから当然といえば当然である。

 

 

ところで本文書2条によれば、船賃に相当する銭か米などを積み、支払うように命じている。これが船主に利益をもたらすのか、それとも雀の涙ほどのものだったかは明らかでないものの、「対価」らしきものを支払うよう命じている点で「徴発」でないという形を装っていたといえる。もっとも朝鮮出兵時の最初の越冬時に船頭や水主の過半数が病死し、津々浦々から新たな漕ぎ手をかき集めているのでこの姿勢が終始一貫しているわけではない*19。中野等『太閤検地』*20が太閤検地は試行錯誤的に行われたと指摘するように、ある程度の政策基調はあるにしても、常に一貫した姿勢ではなく試行錯誤の連続だったのは軍制でも同じだったろう。

 

 

本文書は兵粮米の輸送を促すため梶原弥介を志摩に派遣したことを示している。それは前線への兵粮米の輸送が滞っていたということであろう。

 

 

 

*1:「必ず」という意味だが、ここでは強調をあらわす言葉でとくに意味はない。「せしむ」に使役の意味がないのと同様語調を整えるため

*2:「兵粮」に「御」が付いているのは秀吉の所有物であることを示す

*3:積

*4:「共」は複数形、「子共」などと同様

*5:秀吉の水軍船手。船頭を「船手頭」、乗組員を「船手」と呼ぶが、船手頭を単に「船手」と呼ぶことも多いのでここでは船頭クラス

*6:梶原弥介

*7:兵粮を運ぶ船賃

*8:積

*9:どこの舟であろうと

*10:人や物を託す、寄託する

*11:「申す」の主語は梶原弥介

*12:嘉隆

*13:「預り置く」の主語は九鬼嘉隆

*14:詳細は

*15:天正18年4月。グレゴリオ暦1590年5月7日、ユリウス暦同年4月27日

*16:志摩国のいずれかの島、下図参照

*17:2834~2835号

*18:共同耕作

*19:文禄2年2月5日島津義久/吉川広家宛秀吉朱印状。六、4406~4407号

*20:中公新書、2019年

天正18年3月28日池田照政宛豊臣秀吉朱印状

 

しばらく秀吉発給文書から離れていたが、視点を再び秀吉側に戻してみよう。

 

 

路次*1仁残し置*2候其方人数千人之事、木曽江*3召寄*4、材木山出*5可仕候、猶奉行*6共*7可申候也、

 

    三月廿三日*8 (朱印)

 

       羽柴岐阜侍従とのへ*9

 

 

(四、2994号)
 
 
(書き下し文)
 

路次に残し置き候その方人数千人のこと、木曽へ召し寄せ、材木山出し仕るべく候、なお奉行ども申すべく候なり、

 

 
(大意)
 
小田原までの途上で残してきた兵士千人の件について。木曽へ呼び寄せ材木の山出しをさせなさい。詳しくは使者が口頭で申す。
 
 

 

天正17年月日未詳の「山中城取巻衆書上」*10によれば、当初伊豆国田方郡の山中城を包囲する軍勢は以下のように家康が総員67,800人の44パーセントを占める30,000人を、池田照政は3.7パーセントに当たる2,500人を動員する予定だった。同時に包囲する同郡韮山城には44,100人を割り当てていた*11。

 

 

表1. 山中城取巻衆

 

 

図1. 同内訳



しかし、本文書によると「路次に残し置き候その方人数千人」とあるように、戦地に何らかの理由で送ることができず「途中に千人ほどの軍勢を残留させてしまった」ようである。

 

大軍の輸送は陸路と水路に分けたとしても輸送能力を超えてしまえば「渋滞」してしまう。近世ヨーロッパの軍勢が「移動する大都会」であるという指摘を踏まえれば、大軍が戦線各地で「都市問題」を引き起こすことは必然である。都市問題とは都市の収容能力を人口が超えた際、食糧や宿の確保(住宅不足)、交通渋滞、塵芥や排泄物などの衛生問題(公害)、感染症の流行(エピデミック)などが生じるがこれら諸問題の総称である。軍のインフラストラクチャ(社会基盤)である兵站や輜重が完備されていなければこうした問題は「現地調達」か戦線の縮小のいずれかを選択しなければならない。

 

池田照政の軍勢はほんの数パーセントに過ぎず「焼け石に水」の感なきにしもあらずといったところだが、秀吉はこの問題に戦線縮小を選んだようだ。

 

 

図2. 信濃国木曽郡周辺図

                 「信濃国」(『国史大辞典』)より作成

秀吉は織田信雄・徳川家康領国内の留守居を以下のように定めた。

 

図3. 尾張三河周辺図

 

                    『日本歷史地名大辞典 愛知県』より作成

表2. 織田信雄・徳川家康領国内留守居衆

 

 

 

このとき星崎城留守居中にあててこう書き送っている。

 

 

当城留守居として吉川(広家)差し遣わされ候、すなわち入れ置くべく候、それについて奉公人妻子これある家ども陣取り*12相除*13くべき旨、堅く仰せ付けられ候、

 

(2970号)

 

 

星崎城の留守居に吉川広家を派遣したので、城内に入れるように。その件について奉公人(家臣)の妻子が住んでいる家屋敷に陣を構えることを禁じた、という内容である。

 

つまりこうした禁令を出さねばならないほど、出征している家臣団の家屋敷に「陣を構える」、寝床を確保する行為が行われていたということになる。もちろん「空き家に宿を確保せよ」という意味もあろう。いずれにしろ武装した集団が入城し、都市の収容能力を超えればこうした問題は当然生じる。

 

こうした行為を防ぐには人口を分散する、ガス抜きするのが早道である。そこで本文書のように木曽へ派遣することを命じたのではないか。

 

もちろんこのようなケースは本文書以外見ていないのでこれをもって一般化することは避けるべきである。ただ行軍中に生じる物理的な問題を追究することは必要であろう、「腹が減っては軍は出来ぬ」の喩え通り。

 

 

 

*1:道中、途中

*2:伴わずにもとの場所に留めておくこと

*3:信濃国筑摩郡/木曽郡

*4:目上の者が目下の者を呼び集める

*5:山から木材を運び出すためかり集めた人足

*6:「上位者の命令を奉じて行う」の意。転じてその役職を務める者

*7:通常使者の名前を記すが、本文書では単に「奉行」とのみ記されている

*8:天正18年カ、グレゴリオ暦1590年4月27日、ユリウス暦同年同月17日

*9:池田照政。美濃国岐阜城主

*10:2912号

*11:2911号

*12:陣を構える

*13:よ。遠ざける、避ける

天正18年1月4日海老名五郎右衛門宛北条氏規印判状写

 

 

 

    北条氏規印判状写

 

        陣触

 

此方*1為被官者ハ、御崎*2・小田原*3ニ被為移候間、妻子・郎党・兵粮・荷物以下、小田原御講*4ニ入、小屋懸ニ而致御用等*5、可走廻*6者也、仍如件、

 

   寅正月四日*7(氏規朱印「真実」)

                        長谷川*8奉

 

       海老名五郎右衛門殿*9

 

(『静岡県史 資料編8 中世4』972頁)

 

 

(書き下し文)

 

   北条氏規印判状写

 

        陣触

 

この方被官たる者は、御崎・小田原に移らせられ候あいだ、妻子・郎党・兵粮・荷物以下、小田原御構いに入れ、小屋懸にて御用などを致し、走り廻るべきものなり、よってくだんのごとし、

 

   寅正月四日(氏規朱印「真実」)

                        長谷川奉る

 

       海老名五郎右衛門殿

 

(大意)

 

  北条氏規印判状の写

 

     陣触

 

私の被官である者は三崎城や小田原城に移動させたので、妻子や郎党、兵粮や荷物などを小田原惣構の中へ運び入れ、仮小屋などを懸けて御用を勤め、奔走すべきである。以上。

 

                長谷川九郎左衛門尉が本文書を承った。

 

     海老名五郎右衛門殿

 

 

 

 

本文書は「寅」のみであるが小田原北条氏宗家の発給文書は「年号月日」ではなく「干支月日」で発せられることが多い。漢字文化圏において太陰太陽暦であることは共通していても、王朝や政権により年号や閏月は異なっていた。そこで年号を用いず十干十二支で年代を記せば閏月はともかくとしても、対外貿易など「国際的」に通用する。実際小田原北条氏は中国との貿易を盛んに行っていた。ちなみに下表のように天正10年、北条氏は「閏12月」を採用した。暦はきわめて政治的・宗教的である*10と同時に農耕などにおいて極めて実用的な意味をもっていた。したがって太陽暦が採用されても1980年代まで多くの地方の年中行事は旧暦にもとづいて行われていた。1966年「丙午」の出生率が大幅に減少したこともそうした点から考えれば十分に納得できるだろう。

 

表1. 天正10年「閏12月」か天正11年「閏1月」か、発給人別通数



ところで小田原城の惣構を山の上から一望した経験をお持ちの方々は、その規模の大きさに驚かれたことと思う。かくいう自身も惣構を俯瞰した時の印象は強烈である。小田原市教育委員会のサイトから画像を引用する。

 

図1. 小田原城惣構

 

           小田原市教育委員会編『小田原城総構 -戦国最大の城郭ー』より 

図2. GooleMapより見た小田原城惣構の規模

                       GoogleMapより作成

図3. 小田原城と三崎城の位置

                      『日本歴史地名大系 神奈川県』より作成

 

 

宿場町のみならず郷村をも囲い込む規模である。籠城戦に備えて要塞を大規模化し守りを固めた、あるいは領民を中に収容するスペースを設けて「保護」したという側面もあろう。しかしそれだけ町や郷村が戦場となる可能性が高くなり、近現代の「市街戦」*11のような凄惨な結果を招きやすいことも確かである。戦争は領国内外の人々を否応なく巻き込んでゆくものであることを忘れてはなるまい*12。

 

大久保桂子「戦争と女性・女性と軍隊」*13は16世紀ヨーロッパの軍事力が10万を超えるようになるが、それは常備軍などではなく「企業体」の集合によって行われていたと指摘し以下のように述べる。

 

                                     

「常備軍」の内実は、戦争を商売とする事業家が、社会の底辺で生活を維持できずにいる労働者を雇い、戦利品を主な利益として期待する、いささかギャンブル的な企業体の連合であり、「国家」はこの企業体に戦争という「業務」を委託し、最低限の保証金を支払ったにすぎない。

 

 このような企業体が数万の大軍を構成して戦地を進軍すれば(中略)食糧はもちろん、寝る場所の確保さえ困難をきわめ、略奪が横行する。ある程度組織化された軍隊であれば、食糧や武器をはじめとする必要物資の確保は私的な請負業者に依存しており、このような請負業者は、軍隊とともに移動し、進軍先で物資を調達することになっていた。しかし大都市の住民に匹敵する数の軍に毎日食糧を供給することが、容易であったはずがない。軍隊は地域依存型の資源搾取によって、かろうじてその存在を支えていたにすぎない*14

 

 

 

このような軍隊を大久保氏は「移動する大都会」と呼んでいる。豊臣軍はまさにこの意味において「移動する大都会」であり、迎え撃つ小田原北条氏の惣構もまた「城郭都市」と呼ぶにふさわしい規模を誇る*15。

 

この大久保氏の指摘を踏まえて本文書を読んでみよう。

 

 

氏規の被官はすべて三崎城と小田原城に移ったので、そなたも妻子・郎党、兵粮・荷物などを惣構の中に運び込み、仮小屋住まいであったとしても北条氏のために奉公せよ、という趣旨である。

 

「兵粮・荷物」とあるからこれらが自弁であったことがわかる。また郎党は直接の戦力になるが、妻子もまた兵站や輜重兵を担う「キャンプ・フォロア」(非戦闘従軍者)として必要欠くべからざる存在だった。

 

北条軍も豊臣軍も大名や領主、国人などの軍隊の集合体であり、軍律で見たように統率力に欠けていた。その点で近世ヨーロッパの軍事事情とよく似ていたといえる。

 

最後に大河ドラマなどの多くの映像作品が中近世移行期の戦争の実態をはき違えていることを指摘しておく。落城寸前の城主が女装して落ち延び、敵兵のチェックを免れる演出をよく目にするが、これはありえない。身ぐるみ剥がれた上、女性であると分かるとレイプに及ぶことが「習い」となっていた。さらに男女問わず奴隷として生け捕られた。林英夫氏は「戦場になれば敵人より暴姦に会うもの」が武家社会の「常識」として記憶され、幕末ペリー来航時にこの記憶が呼び覚まされ、民衆にまで広まっていたと指摘している*16。一方で籠城戦において女性が軍事行動で大活躍したという記録もしばしば見られる。

 

 

*1:氏規

*2:相模国三浦郡三崎城、下図参照。本文書発給者氏規は三崎城主であるとともに伊豆国韮山城主。三崎は北条水軍の根拠地で湊町だった。その規模は「黒船千艘繋ぐとも狭からず、およそ唐国にもあるべからず」といわれるほどで中国との貿易が盛んだった

*3:相模国西郡/足柄下郡。下図参照

*4:「構」の誤りカ。城下町どころか周辺郷村をも要塞化した小田原城惣構のこと。現在の小田原市中心部をほぼ網羅する規模を誇る

*5:仮小屋で御用を勤め。「御用」は北条氏のために尽くすこと

*6:「馳走」と同じで奮戦する意

*7:天正18年。グレゴリオ暦1590年2月8日、ユリウス暦同年1月29日

*8:氏規の奉者長谷川九郎左衛門尉

*9:未詳

*10:フランス革命暦=共和暦など古今東西見られる現象である

*11:日本はアジア太平洋戦争の前半まで戦場は国外で「銃後」と明確に区別されていた。また後半も空爆のみで明治以降市街戦を経験していない

*12:大河ドラマをはじめとする戦国・幕末期の映像作品の戦争シーンにはこの視点が欠けている

*13:『岩波講座世界歴史』25,1997年

*14:213頁、下線は引用者

*15:2024年現在の小田原市の人口はおよそ19万人である。数十万人規模の軍隊がどれほど「大きな都市」であるか実感できるであろう

*16:「戦のならい」立教大学『史苑』49-1、1989年。なお林氏は1920年生まれで戦争を経験している