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赤間文三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤間 文三
あかま ぶんぞう
生年月日 1899年5月31日
出生地 日本の旗 日本 福岡県宗像郡津屋崎町(現・福津市
没年月日 (1973-05-02) 1973年5月2日(73歳没)
出身校 東京帝国大学法学部独法科
前職 大阪府知事
所属政党 自由民主党
称号 正三位
勲一等瑞宝章
勲一等旭日大綬章
紺綬褒章

選挙区 大阪選挙区
当選回数 3回
在任期間 1959年 - 1973年

日本の旗 第24代法務大臣
内閣 第2次佐藤第1次改造内閣
在任期間 1967年11月25日 - 1968年11月30日

大阪府の旗 初-3代 大阪府知事
当選回数 3回
在任期間 1947年4月12日 - 1959年4月22日
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赤間 文三(あかま ぶんぞう、1899年5月31日 - 1973年5月2日[1])は、日本政治家位階正三位

大阪府知事(公選初代)、法務大臣24代)。大阪府知事時代は東京都知事安井誠一郎とともに、1950年代における都道府県知事のボス的存在として君臨し、赤間天皇の異名で呼ばれた。

経歴・人物

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赤間岩吉の三男として[1]福岡県宗像郡津屋崎町(現在の福津市)に生まれる。福岡県立中学修猷館旧制山口高等学校を経て、1925年3月東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業する[1][2]

1926年2月内務省に入省。岡山県[3]。同年11月高等試験行政科試験に合格。1935年10月大阪府都市計画課長、1939年4月徳島県経済部長まで務めた後、商工省に転じ、1941年11月大臣官房会計課長。商工省が再編され軍需省となると、1944年4月燃料局醗酵工業部長、1945年6月石炭局長、同年11月近畿地方商工処理部長、1946年1月同地方商工局商工部長、同年3月同局長を歴任[1]。商工省会計課長時代、当時は賀屋興宣の邸宅だった、大蔵大臣邸の勝手口から品薄の砂糖袋をかついで上がり込み、予算獲得の談判をしたという逸話が、赤間の強心臓ぶりを表すエピソードとして伝わっている。

1947年4月、第1回大阪府知事選挙に立候補し、当初優勢が伝えられた社会党公認候補である香月保(修猷館の同級生でもある)を下して当選。3期12年務めたが[1]、在任中はそれこそ土曜日曜も無い精勤振りであったという。1950年ジェーン台風が大阪を襲来し、赤間は毎日ボートで被災地を視察しながら被害状況に心を痛めていた。その後9年掛けて大阪湾防波堤を完成させ、赤間府政のモニュメントとなった。その他、府営上水道網の整備や住宅建設計画に尽力し、1958年には千里ニュータウン建設を決定した。一方、大阪府営の公営競馬競輪については、早くから廃止の意向を持っており、1955年には開催中止を表明した。

赤間は、大阪市域の拡大に対してかなり厳しい態度を採った。1955年に実施された大阪市第3次市域拡張に際し、大阪市への合併を望んでいた庄内町、および賛同していた大阪市に対し、昭和27年付けでそれを認めない反対案を府議会へ提出した一方、豊中市への合併に関しては積極的に動き、当時の町民感情を無視してまで合併案を府議会へ提出、可決させている。[4]この背景には、大阪市が提案した特別市設置運動があり、大阪府が対案として「大阪産業都建設に関する決議」を発表した事に起因している。大阪府と大阪市の対立は、大阪維新の会が大阪市会・大阪府議会における与党となるまで続くことになる。

なお、知事時代は、中央に陳情に出向いた時など「天皇」の異名に相応しく高姿勢な態度で臨み、一部の政界有力者の不興を買ったといわれている。また、大阪の清風中学校・高等学校を運営する清風学園の名は、幕末の長州藩の藩政改革者村田清風にちなんで1949年に赤間が命名したものである。

1959年6月、第5回参議院議員通常選挙に、自由民主党公認で大阪選挙区より立候補し当選。以後当選3回[1]。参院では重宗雄三率いる「清新クラブ」に所属する。1962年、参議院商工常任委員長、1967年2月、参議院外務委員長を経て、1967年11月、第2次佐藤第1次改造内閣法務大臣として入閣[5]。在任中は死刑執行の決済を求められると「勘弁してくれ。今度、俺にお迎えがきたらどうする」などと理由をつけて命令書に署名せず、死刑の執行が一件も無かった。

1959年12月、大阪府社会福祉事業資金として10万円寄付により1960年3月30日紺綬褒章受章[6]1969年秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲四等からの昇叙)[7]1973年5月2日心筋梗塞で73歳で死去[8]。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、正五位から正三位に叙される[9]

エピソード

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  • 知事時代のある日、帰宅するやいなや「おい、きょうの野球は巨人ジャイアンツのどっちが勝った?」と大真面目に尋ね、家人を爆笑させたことがある。

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 秦郁彦 2002.
  2. ^ 赤間文三 大阪府知事から法務大臣 - ふくおか先人金印記念館
  3. ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、257頁
  4. ^ 大阪市行政局 編『六ケ町村合併記念誌』,大阪市,1957
  5. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 15頁。
  6. ^ 『官報』号外第24号12-13頁 昭和35年3月31日号
  7. ^ 『官報』号外第146号2頁 昭和44年11月4日号
  8. ^ 赤間文三 | 参議院議員 | 国会議員白書
  9. ^ 『官報』第13907号13-14頁 昭和48年5月8日号

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。ISBN 978-4-13030-120-6 8頁
公職
先代
田中伊三次
日本の旗 法務大臣
第24代:1967年 - 1968年
次代
西郷吉之助
先代
新設
大阪府の旗 大阪府知事
公選初代 - 第3代:1947年 - 1959年
次代
左藤義詮
議会
先代
木内四郎
日本の旗 参議院外務委員長
1967年
次代
三木與吉郎
先代
武藤常介
日本の旗 参議院商工委員長
1962年 - 1963年
次代
前田久吉