秋山皐二郎
秋山皐二郎 あきやま こうじろう | |
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生年月日 | 1910年2月22日 |
没年月日 | 2007年9月28日(97歳没) |
称号 |
従四位 勲三等旭日中綬章 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1969年11月16日 - 1989年11月16日 |
当選回数 | 3回 |
当選回数 | 2回 |
秋山 皐二郎(あきやま こうじろう、1910年(明治43年)2月22日 - 2007年(平成19年)9月28日)は、日本の政治家。第13〜17代八戸市長。
来歴
[編集]湊村(現八戸市)で網元を営む秋山家の四男として生まれた。2歳で父與吉を亡くし、叔父秀之助に漁業の手解きを受けた。
湊尋常高等小学校、八戸中学校(現八戸高等学校)を経て、1936年(昭和11年)中央大学法学部卒業。合同油脂株式会社に入社後、二度召集を受ける。21年8月帰還を果たす[1]。
1952年(昭和27年)に八戸市議会議員に当選し2期、さらに青森県議会議員を3期務めた。1969年(昭和44年)に中村拓道を破って八戸市長に当選し、5期務めて史上最長任期となった。青森県市長会会長、全国市長会副会長などを務めた。1990年(平成2年)秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章(勲六等より昇叙)[2]。1996年(平成8年)に八戸市名誉市民。
2007年(平成19年)9月28日、心不全のため死去、97歳。死没日をもって従七位から従四位に叙される[3]。
政策
[編集]秋山は市長就任後、以下の3つの政策方針をあげて市政に取り組んだ。
- 市民所得を全国並みに引き上げること
- 生活関連の環境整備
- 教育施設の整備充実
その後東北新幹線の太平洋回りルート獲得に向けて尽力した。また八戸大橋やJR八戸線の高架化、八戸市公会堂の建設に取り組んだ。
教育・文化
[編集]三条中学校、轟木小学校、多賀台小学校、下長小学校を防音校舎化し、建替え後の廃材を地元の集会所建設に活用した。
また、1970年(昭和45年)6月に八戸市民大学講座をスタートさせた。八戸市民大学講座の講師に来ていた女優の杉村春子に「八戸市での『女の一生』公演時に会場での雨音が大きくて舞台が台無しになった」と秋山に話したことがきっかけとなり、八戸市公会堂の建設へとつながる。このほか八戸市民大学講座では石森延男、三浦哲郎、小林茂、高坂正堯、松下正寿、小井田幸哉が講師になっている[4]。
夢の大橋建設
[編集]市長岩岡徳兵衛の時代からの懸案であったが、新産業都市の港湾道路の建設と位置づけ、八戸大橋・八太郎大橋の建設費を国が負担することとし、八戸市の負担金をゼロにすることにこぎつけた。
東北新幹線太平洋回りルート獲得
[編集]1971年(昭和46年)頃から盛岡以北の東北新幹線のルートをめぐり、誘致合戦が活発化した。当時秋山は「万が一、太平洋回りが実現しなかったら市長は辞任する」と公言していた。当時の首相である田中角栄の自宅にも何度も陳情に訪れるなど、様々な誘致活動を行った。
こうした誘致活動が実を結び、1973年(昭和48年)に国鉄と日本鉄道建設公団が太平洋回りルートの優位性を認め、誘致合戦に事実上の決着がついた。
関連人物
[編集]脚注
[編集]- ^ “八戸の先人/秋山 皐二郎”. 八戸市教育委員会 社会教育課 文化財グループ (2023年2月10日). 2024年8月23日閲覧。
- ^ 『官報』第140号17頁 平成3年11月5日号
- ^ 『官報』第4703号10頁 平成19年11月16日号
- ^ 新編八戸市史通史編Ⅲ近現代(八戸市)
参考文献
[編集]- 「雨洗風磨 秋山皐二郎回顧録」1990年、東奥日報社
外部リンク
[編集]- 太平洋回りに懸けて 「荒谷新幹線」日記から(2013年3月のアーカイブ、秋山が行った東北新幹線の誘致活動についての八戸市職員OB回顧録)