渡部温
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樋口雄彦 (2021-03-31). “沼津兵学校資業生 成澤知行とその資料”. 沼津市博物館紀要 (沼津市歴史民俗資料館・沼津市明治史料館) (45): 1-2.
渡部 温 | |
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誕生 |
渡部 銈一郎 1837年7月22日(天保8年6月20日) 江戸 |
別名 | 一郎 |
死没 | 1898年8月7日(61歳没) |
墓地 | 谷中霊園(東京都台東区) |
職業 | 英学者、教育者、実業家 |
国籍 | 日本 |
代表作 |
『通俗 伊蘇普物語』(1873年) 『標註 訂正康煕字典』(1887年) |
子供 | 朔(長男)、康三(次男) |
渡部 温 | |
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選挙区 | 牛込区 |
在任期間 | 1882年11月 - 1896年11月 |
選挙区 | 牛込区 |
在任期間 | 1889年6月 - 1892年6月 |
在任期間 |
1889年 - 1892年 1895年 - 1896年 |
牛込区会議員[4] | |
在任期間 | 1889年11月 - 1896年11月28日 |
渡部 温(わたなべ おん、天保8年6月20日(1837年7月22日) - 明治31年(1898年)8月7日)は江戸時代末期から明治時代にかけての日本の英学者、教育者、実業家。旧名一郎。姓は渡辺とも表記される[5]。
経歴・人物
[編集]幕臣で漢学者の渡部重三郎の子として江戸に生まれた。銈一郎と名づけられたが、元服時に一郎と改めた。幕臣の父の転勤に従って長崎と下田に住み、洋学を学んだ[6]。幕府の洋書調所(後に開成所)で英語を教え、大政奉還の後は幕臣を中心として開かれ、西周を頭取(校長)とする沼津兵学校の教授となった(この頃までは旧名「一郎」を用い、維新後に「温」を名乗る)。
廃藩置県後に東京に戻り、新政府に出仕、大蔵省などを経て東京外国語学校校長などを務めた後、漢学の世界に戻って「康煕字典」の校訂をほとんど独力で成し遂げた。
その後、実業界に転じ、渋沢栄一等と共に東京製綱株式会社の設立に参画、同社の初代社長となる。また東京瓦斯(都市ガス普及以前の時代であるが、ガス灯の需要が大きかった)や横浜船渠の開業にも関係している。
生涯に一度も欧米の土を踏んだことがないにもかかわらず、その語学力は群を抜いており、多くの分野での翻訳実績を作った。地学、軍事、経済(アダム・スミスに最初に言及した一人と言われる)などの多方面に及んでいるが、もっとも知られているのが、イソップ物語を翻訳した「通俗伊蘇普物語」であり、これがベストセラーとなり、修身の教育にも採り上げられたために、「イソップで蔵が建った」と噂されるほどの財を築いた。
多彩な姻戚関係と沼津兵学校の人脈
[編集]- 明治初年の実質4年足らずの短期間であったが、渡部温は沼津兵学校の教授として幕臣人脈の中心にいた。この時、彼は妻の貞(旧姓・成澤)の一家を沼津に呼び寄せ、自邸に住まわせて、自らの長男渡部朔と併せて学問の手ほどきをした。沼津に帯同したのは、貞の父、成澤良作(知恒、元幕府の工兵指図役)、良作の長男(貞の弟)の成澤知行(甚平)(成沢知行)、その弟の鋠(しん)(後の山口鋠)というのが従来の通説であった。しかし近年の研究では良作だけは新政府に出仕し、東京に残っていた事が分かっている[7]。
- 年長の知行(甚平、1848-1929 維新時20歳)は慶應年間に柳河春三の「中外新聞」のスタッフの一人として活動した後、沼津兵学校に学び、後に陸軍中佐となった。
- 児童であった渡部朔は兵学校の付属小学校に学び、まず農芸化学者としてドイツ留学、お雇い外国人マックス・フェスカの「肥培論」を翻訳の傍ら欧州の農協・信用組合の金融機能(ライファイゼン型)に注目し、政府への提言なども行なうが、後に父を継いで東京瓦斯の役員となり、資産家として名高い。
- 最年少の鋠は沼津時代は学齢以前だったが、後に東京外国語学校(フランス語)から陸軍士官学校、陸軍戸山学校に学び、陸軍少佐。養子に出たため姓が「山口」となる。1902年の「八甲田雪中行軍遭難事件」の大隊長として責任を問われた「山口少佐」とは、この山口鋠のことである。
- 渡部・成澤両家が東京に戻った後に生れた温の次男、渡部康三は、東京音楽学校に学び、1901年3月の、瀧廉太郎留学の送別演奏会で、当日唯一人の管楽器奏者としてコルネットを演奏した。また1903年にケーベル博士らの指導で行なわれた日本人最初のオペラ公演、グルック作曲「オルフェウス」の実現を、主に裏方から支えた。この上演の費用は、実際にはほとんど渡部朔(温の没後、康三にとっては父親代りの存在)が出している。さらに台本の翻訳スタッフだった乙骨三郎は、渡部温の沼津での同僚、乙骨太郎乙の息子であり、二代にわたっての幕臣人脈のつながりが見られる。しかし康三は音楽家としては大成せず、後に造船業に転じている。なお卒業演奏でヴィクトル・ネスラーのオペラ「ゼッキンゲンの喇叭手」からの一部を採り上げているが、その全幕上演は2006年の瀧井敬子企画による山形県長井市まで実現されなかった。(→cf.瀧井敬子「漱石が聴いたベートーヴェン」中公新書1735)
- なお、渡部温の妻・貞の妹を通じての義兄弟に羽賀可伝(前島密の助手として国際郵便制度に貢献するも夭折)、娘婿には高松豊吉(化学)、野坂嘗治(経済学・貿易論)などがいる。
著作
[編集]- 訳書
- 『陸軍 士官必携』 無尽蔵、1867年(慶応3年・全10冊)
- Patrick Leonard MacDougall. The Theory of War. の翻訳。
- Aesop, James Thomas, 渡部温『通俗伊蘇普物語』渡部温、1875年。 NCID BN08347200。全国書誌番号:41015688。
- Thomas James. Aesop's Fables, 1848. および George Fyler Townsend. Aesop's Fables, 1868. の抄訳。
- 『改正増補 通俗伊蘇普物語』 渡部温、1888年12月
- 吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第十四巻 翻訳文芸篇』 日本評論社、1927年10月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第二十二巻 翻訳文芸篇』 日本評論社、1967年11月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第十五巻 翻訳文芸篇』 日本評論社、1992年10月、ISBN 4-535-04255-1
- 海後宗臣編纂 『日本教科書大系 近代編第一巻 修身(一)』 講談社、1961年11月
- 谷川恵一解説 『通俗伊蘇普物語』 平凡社〈東洋文庫693〉、2001年9月、ISBN 4-582-80693-7
- 編書
- 『標註 訂正康煕字典』 無尽蔵書房、1887年4月(全17冊)
- 『標註訂正 康煕字典』 講談社、1977年11月、ISBN 4061210335
- 『康煕字典考異正誤』 渡部温、1887年9月(上下巻)
- 『康煕字典考異正誤』 井田書店、1943年7月
脚注
[編集]- ^ 『東京府史 府会篇 第一巻』 東京府、1929年7月、184頁。
- ^ 東京市会事務局編輯 『東京市会史 第一巻』 東京市会事務局、1932年8月、131-133頁、343-344頁。
- ^ 『牛込区史』 東京市牛込区役所、1930年3月、214頁。
- ^ 前掲東京市牛込区役所、214-217頁。
- ^ 戸籍および谷中霊園の墓碑銘は「渡部」だが、沼津時代のいくつかの記録、また次男康三の東京音楽学校関連の資料のかなりの部分が「渡部」ではなく「渡邊」と表記されている。この「渡邊」表記を踏襲している研究文献も見られるが(例えば山川出版社刊『日本史小辞典』の中外新聞の項には、執筆者の一人として「渡辺一郎」と表記されている)、実際に通称として通っていたものかどうかは不明である。
- ^ 戸塚武比古、「渡部温略伝 -初期一英学者の歩んだ道」『英学史研究』 1983年 1984巻 16号 p.33-50, doi:10.5024/jeigakushi.1984.33, 日本英学史学会。
- ^ 樋口雄彦 (2021-03-31). “沼津兵学校資業生 成澤知行とその資料”. 沼津市博物館紀要 (沼津市歴史民俗資料館・沼津市明治史料館) (45): 1-2.
参考文献
[編集]- 片桐芳雄「幕末明治の洋学者・渡部温(一郎)覚え書(1)」『愛知教育大学研究報告 教育科学』第32号、愛知教育大学、1983年1月、61-79頁、ISSN 0587260X、NAID 120002381633。
- 片桐芳雄「幕末明治の洋学者・渡部温(一郎)覚え書(2)」『愛知教育大学研究報告 教育科学』第33号、愛知教育大学、1984年1月、41-54頁、ISSN 0587260X、NAID 120002381635。
- 片桐芳雄「幕末明治の洋学者・渡部温(一郎)覚え書(3)」『愛知教育大学研究報告 教育科学』第34号、愛知教育大学、1985年2月、33-47頁、ISSN 0587260X、NAID 120002381636。
- 樋口雄彦著 『沼津兵学校の研究』 吉川弘文館、2007年10月、ISBN 978-4-642-037808
関連文献
[編集]- 松崎実 「通俗伊蘇普物語解題」(前掲 『明治文化全集 第十四巻 翻訳文芸篇』)
- 堤美智子 「旧幕府御家人渡部温の出版 : 英文及び和訳『伊蘇普物語』について」『花園大学文学部研究紀要』第45号、2013年3月、p.69-87, NAID 110009574879)
外部リンク
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公職 | ||
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先代 広運学校長 植村長 |
長崎英語学校長 1874年 - 1875年 長崎外国語学校長 1874年 広運学校長 1874年 |
次代 水野遵 |
先代 (新設) |
長崎師範学校長 1874年 - 1875年 |
次代 小川駒橘 |