コンテンツにスキップ

村上義忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
村上 義忠
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
官位 掃部助?、掃部頭[1]
主君 大内義興義隆
氏族 清和源氏定国流村上氏能島村上氏
父母 父:村上隆勝[1]、母:不詳
兄弟 義雅[1]義忠隆重[1]
平岡左近将監の娘
武吉[1]
テンプレートを表示

村上 義忠(むらかみ よしただ)は、戦国時代武士村上隆勝の次男で、村上武吉の父。兄に村上義雅、弟に村上隆重がいる。

生涯

[編集]

村上武吉の父

[編集]

村上義忠について「閥閲録(巻22村上図書)」では、義雅早世後の義益と武吉の家督争いについて触れる中で、武吉を「掃部頭義忠カ子、義忠ハ義雅カ弟也」と記しているが、これ以外の情報は無い。「閥閲録」より後に編纂された「譜録(村上図書)」においても、武吉を義忠の子としているが、家督争いでは武吉の叔父・隆重(義忠の弟)が幼い武吉の代わりに軍を率いたとしている[2]

なお、義忠の子・武吉は、天文5年(1536年)に生まれている[注釈 1]

村上掃部助

[編集]

天文10年(1541年)頃、能島村上氏大内氏と敵対しており、同年1月に厳島沖で大内水軍と交戦し、6月から7月にかけては逆に能島など芸予諸島の拠点に攻め込まれていた[4]

そんな中、大内氏に味方する「村上掃部助」という人物が史料にみえる。天文11年(1542年)4月、杉隆宣青景隆著弘中隆兼ら大内氏奉行人は神代兼任に対して、敵方の攻撃を受けている伊予国中島の棚林要害への加勢を指示。渡海の段取りは、小原隆名[注釈 2]と村上掃部助に相談して進めるよう伝えている。この掃部助を、義忠に比定する説がある[5][注釈 3]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「譜録(村上図書)」には武吉は慶長9年(1604年8月22日に72歳で死去したと記載されており、逆算すると天文2年(1533年)生まれとなる[3]が、元亀2年(1571年)8月に武吉が光林寺灯篭を寄進した際に記した祈願状(『光林寺文書』)では自らの生年の干支を「丙申」と記しているため、これに従うと天文5年(1536年)生まれとなる。
  2. ^ 小原隆名は大内氏家臣。天文10年(1541年)の芸予諸島攻撃では、白井房胤らを率いて指揮官を務めた。
  3. ^ 義忠の子の武吉、武吉の子の元吉はいずれも「掃部頭」を名乗っており、義忠も「閥閲録(巻22村上図書)」では「掃部頭」を名乗っている。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e 今井尭ほか編 1984, p. 351.
  2. ^ 山内譲 『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998年 p.127
  3. ^ 山内譲 『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』 講談社 2005年 p.45
  4. ^ 山内譲 『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998年 p.129
  5. ^ 山内譲 『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998年 p.130

参考文献

[編集]
  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 
  • 山内譲 「海賊衆の成立」(山内譲 『中世瀬戸内海地域史の研究』 法政大学出版局 1998年 ISBN 4-588-25046-9
  • 山内譲 『瀬戸内の海賊 村上武吉の戦い』 講談社 2005年 ISBN 4-06-258322-4