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市川米十郎 (4代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
よだいめ いちかわ よねじゅうろう
四代目 市川 米十郎
本名 齋藤 秀男(さいとう ひでお)
別名義 市川 米松(いちかわ よねまつ)
生年月日 (1901-07-04) 1901年7月4日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市(現在の東京都
職業 俳優歌舞伎役者
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1910年代 - 1938年
主な作品
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四代目 市川 米十郎(よだいめ いちかわ よねじゅうろう、1901年7月4日 - 没年不詳)は、日本の俳優歌舞伎役者である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名は不詳とする資料も在る[1][2][4]が、齋藤 秀男(さいとう ひでお)である[3][12][13]。旧芸名市川 米松(いちかわ よねまつ)[3][12]

人物・来歴

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1901年(明治34年)7月4日東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2][3][4][12][13]

旧制小学校を卒業後、俳優を志して六代目尾上菊五郎(1885年 - 1949年)に入門し、「市川 米松」を名乗って初舞台を踏む[1][2][3][4][12]。1924年(大正13年)11月、現在の東京都中央区銀座にある歌舞伎座での名題試験に合格し、坂東鶴升三代目嵐市太郎尾上斧蔵らと共に昇級[14]。1928年(昭和3年)5月、新橋演舞場での公演にて「市川米十郎」を襲名、名題に昇進した[15]。この「市川米十郎」の名は、四代目市川小團次(1812年 – 1866年)が初代という名跡で、『歌舞伎人名事典』によれば、この米十郎は四代目に当たるという[1]

歌舞伎界での将来を嘱望されていたが、映画界に興味を持ち、同年9月、牧野省三に招聘されて京都に御室撮影所をもつマキノ・プロダクション阪東三右衛門実川芦雁らと共に入社する[1][2][4]。入社第1回作品として、『』(監督押本七之助)に主演、同作は同年8月30日に公開されている[2]。これに先行して同年3月14日に公開された『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(監督マキノ省三)に出演しているとされ、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵する同作のオープニングクレジットには、米十郎の名が「神崎興五朗」役で記録されている[11]。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、米十郎は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[16]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)6月、同社解散により退社した[2]。記録に残る同社での最後の出演作は、1931年(昭和6年)4月17日に公開された『三日月次郎吉』(監督吉野二郎)で、同作は同社にとっても最終作品であった[7][8]

マキノ・プロダクション解散の半年後の同年10月、同社元専務・内藤富吉が設立した内藤プロダクションでは、『涙の故郷』(監督久保為義)に出演、同作は同年11月8日に公開された[8]。その後は、当時新興キネマと配給提携していた嵐寛寿郎プロダクションで、同年12月13日に公開された『柳生十兵衛』(監督仁科熊彦)に出演、徳川家光役を演じている[7]。翌1932年(昭和7年)2月には、高村正次立花良介が御室撮影所に設立した正映マキノキネマに参加、『二番手赤穂浪士』(監督マキノ正博)に出演し、小山田庄左衛門役を演じた[2][7][8][10][17]。同社解散後は、同年11月に高村正次が再び設立した宝塚キネマ興行に参加し、1933年(昭和8年)3月26日に公開された『孝子五郎』に出演した記録が残っているが[11]、同社も1934年(昭和9年)2月には解散に追い込まれている[17]

宝塚キネマ解散後は再び歌舞伎に戻ったが、この間にも1937年(昭和12年)に製作・公開されたとされる『出世太閤記 第一篇』(監督西藤八耕石塚大造、製作・配給極東キネマ)という題のサイレント映画が現存しており、同作の上映用プリント等を所蔵する東京国立近代美術館フィルムセンターによれば、同作に米十郎も出演しているという[11][18]。その後、翌1938年(昭和13年)ころまで活動記録が確認できるが、以降の消息は伝えられておらず、時代は第二次世界大戦に突入している[13]没年不詳

フィルモグラフィ

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クレジットはすべて「出演」である[7][8]。公開日の右側には役名[7][8]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][19]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

マキノプロダクション御室撮影所

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製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[7][8]

嵐寛寿郎プロダクションほか

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すべてサイレント映画である[7][8]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 野島[1988], p.116.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m キネマ旬報社[1979], p.58.
  3. ^ a b c d e 文芸協会[1915], p.40.
  4. ^ a b c d e 映画世界社[1929], p.5.
  5. ^ a b c 管家紅葉氏談話立命館大学、2013年5月28日閲覧。
  6. ^ 市川米十郎jlogos.com, エア、2013年5月28日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 市川米十郎日本映画データベース、2013年5月28日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 市川米十郎、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月28日閲覧。
  9. ^ a b 市川米十郎allcinema, 2013年5月28日閲覧。
  10. ^ a b c d 市川米十郎日活データベース、2013年5月28日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n 市川米十郎東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月28日閲覧。
  12. ^ a b c d 明治教育社[1914], p.271.
  13. ^ a b c 同盟通信社[1938], p.537.
  14. ^ 中央公論社[1936], p.576.
  15. ^ 中央公論社[1936], p.637.
  16. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年5月28日閲覧。
  17. ^ a b 御室撮影所、立命館大学、2013年5月28日閲覧。
  18. ^ 出世太閤記 第一篇、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月28日閲覧。
  19. ^ a b c 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月28日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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