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川井巌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川井 巌
生誕 1896年明治29年)9月2日
日本の旗 日本山形県東置賜郡宮内町(現:南陽市
死没 (1972-05-15) 1972年5月15日(75歳没)
日本の旗 日本東京都大田区[1]
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1920年(大正9年) - 1945年(昭和20年)
最終階級 海軍少将
除隊後 第二復員省 人事局長(公職)
復員庁 第二復員局 人事部長〈人事課長を兼任〉(公職)
厚生省引揚援護庁 第二復員局 残務処理部長(公職)
東京光学機械株式会社(現:トプコン) 営業部長
東光物産株式会社 社長
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川井 巌(かわい いわお、1896年明治29年)9月2日 - 1972年昭和47年)5月15日)は、日本海軍軍人実業家海兵47期・海大29期。山形県出身。

1943年(昭和18年)、海軍大佐・軽巡洋艦木曽」艦長としてキスカ島撤退作戦に参戦し、武功を挙げた。

帝国海軍での最終階級は海軍少将1945年(昭和20年)11月30日を以て帝国海軍が消滅した後も、公職追放を受けずに1948年(昭和23年)12月まで第二復員省人事局長などの公職に就き続け、海軍の残務を処理した。

1953年(昭和28年)、東京光学機械株式会社(現:トプコン)に入社し、東京光学機械株式会社 営業部長を経て、東光物産株式会社 社長(在任期間:1957年〈昭和32年〉7月 - 1965年〈昭和40年〉9月)を務めた。

海軍士官時代

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山形県東置賜郡宮内町(現:南陽市)で出生[2]。父の川井七三郎は商業を営んでいた[3]。山形中学校(現:山形県立山形東高等学校)を経て、1916年(大正5年)に海軍兵学校および陸軍士官学校第31期)を受験し、双方に合格している[4][5]1919年(大正8年)に海軍兵学校を卒業(兵47期、卒業席次は36位[6]/115名[7])。

川井の兵学校卒業席次は上位ではない。しかし兵47期の俊英と目された川井は、中佐で連合艦隊砲術参謀[8]を務めた(GF長官:吉田善吾中将)[9][注釈 1]。川井は海軍中央での勤務が多い「赤レンガ組」であり、中佐進級(昭和11年12月)は兵47期先頭組(光延東洋山本善雄など6名、昭和10年11月 中佐[10])より1年遅れであったが、大佐進級(昭和15年11月)以降は兵47期先頭組に入った。

1941年(昭和16年)12月、海軍大佐・第4艦隊(4F。司令長官:井上成美中将、参謀長:矢野志加三少将)先任参謀として、太平洋戦争の開戦を迎えた。

キスカ島撤退作戦での武功

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煙突偽装の妙計

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1942年(昭和17年)9月、4F先任参謀から、第5艦隊(5F)隷下の軽巡木曽」艦長に転じた。川井は5Fで「艦隊の智嚢[11]」として重きをなした[9]

川井は、翌年の1943年(昭和18年)に5Fが実施したキスカ島撤退作戦(総指揮官:第1水雷戦隊司令官 木村昌福少将)に「木曽」艦長として参戦した[12]

キスカ島撤退作戦の発動(昭和18年7月1日)が近づいた同年6月25日、木村少将は、片岡湾(占守島)所在の旗艦・軽巡「阿武隈」で「撤収作戦研究会」を行い、5F参謀・1水戦各参謀・各艦長/司令・各駆逐艦長が参集した[13]

1水戦先任参謀・有近六次中佐(兵50期[14]昭和30年に死去[15])は、この研究会につき下記のように記している[注釈 2]

計画は至れつくせりと思いますが、一つ付け加えさせていただきたいことは、霧中で万一、敵の潜水艦や哨戒艦艇に発見された場合、念のための偽装の一法として、阿武隈木曽の煙突一本を白灰色に塗装して、米海軍の軽巡のごとく二本煙突に見せ、駆逐艦はこれと反対に煙突一本を仮設増加して、三本煙突のごとく見せる工夫でありますが、いかがでしょうか — 木曽艦長 海軍大佐 川井巌、[17]
それは気がつきませんでした。司令官、いま木曽艦長の申されました偽装案は妙計と思いますので、各艦に実施させていただきたいと思いますが、いかがでしょうか — 第一水雷戦隊先任参謀 海軍中佐 有近六次、[17]
よろしい、いまのご意見をそのまま採用いたします — 第一水雷戦隊司令官 海軍少将 木村昌福[17]
キスカ湾で撮影された軽巡「阿武隈」
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日本艦隊がキスカ島への突入に成功した昭和18年7月28日に、キスカ湾に入泊中の軽巡「阿武隈」を鮮明に撮影した写真[18][19](撮影者:第51警備隊軍医長 小林新一郎 海軍軍医大尉[20])が現存し、「阿武隈」の第1煙突と第3煙突が通常の「軍艦色」であるのに対し、第2煙突が白っぽい色であることが確認できる[21]

苦境の木村昌福少将を補佐

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キスカ島撤退作戦は同年7月1日に発動され、第1水雷戦隊司令官・木村昌福少将が率いる日本艦隊は、同日に片岡湾(占守島)を出撃してキスカ島に向かったが(第1回実施[22])、木村少将は「成算なし」と判断して作戦を中断し、同年7月7日に片岡湾に帰投した[23]

同年7月11日、日本艦隊は片岡湾を再度出撃してキスカ島に向かったが(第2回実施[23])、木村少将は同年7月16日に再度「成算なし」と判断して作戦を中断して片岡湾に帰投した[23]

第2回実施でキスカ島に突入しなかったことを、木村少将は海軍部内から強く批判された[23][24]。第3回実施(アメリカ海軍の動向、燃料欠乏などから、最後の機会となる)を控えた同年7月19日、木村少将は片岡湾所在の旗艦「阿武隈」で最終会議を行い、5F参謀・1水戦各参謀・各艦長/司令・各駆逐艦長が参集した[11]

1水戦先任参謀・有近六次中佐は、会議終了後の情景を下記のように記している。

皆が帰ったあと、私は今日の打ち合わせの模様を司令官に報告した。司令官と私の間では、今日の議題は全部打ち合わせずみのことばかりだった。
[11]
ウン、そうだったか。それでよし。ご苦労だったな — 第一水雷戦隊司令官 海軍少将 木村昌福[11]
これで司令官のもとを辞して幕僚室へ引き揚げようとすると、
[11]
オイ、夕食までまだ時間がある。この間のつづきの一局やろうか — 第一水雷戦隊司令官 海軍少将 木村昌福[11]
碁盤を指したので、私もあと戻りして、公室のソファーの上で一局かこみはじめた。この二人のはだいたい互角であるが、よく考える長い碁だった。パチリパチリと無心に黒白を並べている最中、コツコツと室の入口をノックする音が聞こえる。
[11]
オーイ — 第一水雷戦隊司令官 海軍少将 木村昌福[11]
と振り向きもせず司令官が返事をすると、カーテンを揚げて入ってきたのが、艦隊の智嚢木曽艦長川井大佐である。
[11]
ヤッ、碁ですが。よろしいな。どちらがお強いんですか — 木曽艦長 海軍大佐 川井巌、[11]
さあ、どちらが強いと見える。口はセサ(先任参謀の略称)の方が強いかも知れんが、俺の方はなあ — 第一水雷戦隊司令官 海軍少将 木村昌福。括弧内は出典のママ、[11]
道理で司令官は白をお持ちですね — 木曽艦長 海軍大佐 川井巌、[11]
[11]
長幼礼ありですよ — 第一水雷戦隊先任参謀 海軍中佐 有近六次、[11]
とパチリ。そこへ従兵が
[11]
木曽艦長、内火艇が機械を止めてお待ちしておりましょうか、と聞いておりますが — 第一水雷戦隊司令部 従兵、[11]
いや、いますぐ帰るから、そのまま待たしておけ。では司令官、失礼いたします。ごゆっくり — 木曽艦長 海軍大佐 川井巌、[11]
司令官はわれにかえり、
[11]
オイ、もう帰るのかい。何か用事があったんではないか — 第一水雷戦隊司令官 海軍少将 木村昌福[11]
いえ、用事はすみました。お二人の碁をかこんでおられるのを見ましたら、もう何も申し上げることがなくなりました。安心しましたから帰らしていただきます — 木曽艦長 海軍大佐 川井巌、[11]
司令官ははじめて顔を上げて、木曽艦長を見ながら、
[11]
変だな。しばらく待っておれよ。いますぐセサを片づけてお相手をするから — 第一水雷戦隊司令官 海軍少将 木村昌福[11]
と髭をひねりながら笑顔で引き止める。しかし、木曽艦長はそのまま帰っていった。後は再び無言でパチリパチリ。幌筵の夕は静佳に暮れていく。
[11]

煙突偽装の計、敵潜を欺く

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同年7月22日、第1水雷戦隊司令官・木村昌福少将が率いる日本艦隊は、片岡湾(占守島)を再々度出撃してキスカ島に向かった(第3回実施[25][26]

同年7月28日、キスカ島を厳重に封鎖するアメリカ海軍の隙を突いて、キスカ島への突入・撤退部隊収容に成功した日本艦隊は、キスカ島海域から離脱する寸前に、浮上中のアメリカ潜水艦1隻を、右正横1千メートル、 辛うじて視認できる距離[注釈 3]で発見した[13]。1水戦先任参謀・有近六次中佐は、旗艦「阿武隈」の艦橋から双眼鏡で敵潜の艦橋を観察し、敵潜乗員に全く緊張感が無いことから「敵潜は事態を把握していない」と判断した[13]

有近中佐の報告を受けた木村少将は「何もせず、敵潜をやり過ごす」と決断し、日本艦隊は左に舵を切った[13]。すると、煙突偽装を施した日本艦隊を、キスカ島封鎖中のアメリカ艦隊と誤認したのか、アメリカ潜水艦は「日本艦隊発見」の電報を打つことなく、浮上したままで日本艦隊の視界外に消えていった[13]

煙突偽装の計、敵潜を欺く:他文献の記述
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(1)『戦史叢書 28巻 北島方面海軍作戦』は下記のように記しており、「敵潜との距離は2千メートルであった」「『阿武隈』は敵潜を45度に回避した」「敵潜は間もなく潜航した」点が上記と異なる。

1627、北緯52度8分、東経177度12分において、「阿武隈」は浮上潜水艦を発見(右90度約2,000米)、右45度に回避した。潜水艦は間もなく潜没した。しかし、その後わが部隊の発見電を発信した形跡もなく、米潜水艦は味方艦艇と誤認したものと推定された。 — [27]

(2)「阿武隈」主計長・市川浩之助 主計大尉(短現6期)は、「阿武隈」艦上から敵潜を実見し、下記のように回想している[28]

  • 「阿武隈」は、右前方を反航する(「阿武隈」とすれ違う)敵潜を距離2千メートルで発見した[注釈 4]
  • しばらくすると、敵潜は発光信号を送ってきた。
  • その後、敵潜はゆっくりと潜航した。
※ 市川は双眼鏡を使った形跡がなく、「辛うじて視認できる距離」の敵潜を正確に観察できたかは疑問。
  • キスカ島撤退作戦の発動前に「煙突偽装の計」を知った市川は「そんなことまでするのか」と驚いた。市川の周りでは、そんな小細工が本当に役に立つと考えた者はいなかった。しかし、実戦で「煙突偽装の計」が奏功したことに市川はさらに驚き、「人事を尽くして天命を待つ」を実践した水雷戦隊に感服した。

海軍消滅後も残務処理に従事

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海軍少将・海軍省人事局長として1945年(昭和20年)8月の終戦を迎えた川井は、同年11月末に海軍が消滅した後も、公職追放を受けずに引き続き公職(第二復員省 人事局長、復員庁 第二復員局 人事部長〈人事課長を兼任〉厚生省引揚援護庁 第二復員局残務処理部長)に就いて海軍の残務処理にあたった[3][注釈 5]。海軍消滅から3年あまりが過ぎた1948年(昭和23年)12月13日に依願退官した[30][注釈 6]

実業家時代

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1953年(昭和28年)、57歳の川井は、東京光学機械株式会社(現:トプコン)に入社した[31]。当時の東京光学機械は、日本光学工業(現:ニコン)に次ぐ名門光学機器メーカーであり、カメラ双眼鏡などの光学機器は、敗戦で疲弊した日本が欧米に輸出できる、数少ない工業製品であった。入社から2年後の1955年(昭和37年)には、東京光学機械株式会社 営業部長の重職を務めていた[31]

川井は、1957年〈昭和32年〉7月、東京光学機械株式会社 営業部長から、東光物産株式会社 社長(第3代)に転じた[32]

東光物産株式会社は、東京光学機械株式会社の役員・幹部社員が出資して1949年(昭和24年)11月に設立された会社であり(「法人たる東京光学機械株式会社」との資本関係はなかった)、東京・神田神保町の店舗でのカメラ小売、関東/東北方面への光学機器卸売、「東光物産直属の工場で製造する双眼鏡」の卸売、双眼鏡の海外輸出などを行っていた[32]。川井は、東光物産株式会社が1965年(昭和40年)9月に解散するまで社長を務め、解散後は清算業務に従事した[32]

実業家として活躍する一方で、かつての上官である井上成美(敗戦責任を感じて隠棲し、貧窮生活を送っていた)を、4F先任参謀時代の仲間たちと共に支援した。

1972年(昭和47年)9月2日に死去[3]。75歳没。

年譜

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※ 本文での言及、もしくは特記のない限り、出典は「秦 2005, p. 199-200, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:川井巌」([3])。

以後、東京光学機械株式会社 営業部長、東光物産株式会社 社長を歴任。
  • 1972年(昭和47年)5月15日 - 死去(75歳没)。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 川井は中佐でGF砲術参謀を務めたが(昭和12年12月-昭和13年12月)、この時のGF先任参謀は5クラス上の河野千万城 大佐(兵42期)であった[8]。なお、中佐でGF先任参謀を務めるケースも少なくない(例:堀悌吉〈大正11年12月-大正12年12月〉)。
  2. ^ 『戦史叢書第 28巻 北東方面海軍作戦』にも「木曽艦長の発意により、煙突偽装を行った」旨が記されている[16]
  3. ^ 「海上の1千メートル」は、白昼かつ軽巡の艦橋からであれば、本来は「至近距離」である。
  4. ^ 主計科士官である「阿武隈」主計長・市川浩之助 主計大尉が、兵科将校と異なり、海上での距離判断に不慣れだったのは当然である。
  5. ^ 「川井は、1947年(昭和22年)11月28日付で『公職追放指定』を受けた」とする資料([29])があるが、川井は1948年(昭和23年)12月まで公職に就いている[30]
  6. ^ a b 辞令は「厚生事務官 川井巌 願に依り本官を免ずる 昭和23年12月13日 内閣」[30]。なお、「秦 2005, p. 199-200, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:川井巌」([3])には、「昭和25年8月 免 本官」とある。

出典

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  1. ^ 『山形県年鑑』(1973年版)山形新聞社、1973年、716頁。 
  2. ^ 『山形県年鑑(1957年版)』山形新聞社、1956年、431頁。 
  3. ^ a b c d e f g h 秦 2005, p. 199-200, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:川井巌
  4. ^ 「生徒採用/本年施行の海軍兵学校生徒召募試験に及第し生徒に採用せらるへき予定者の族籍、氏名左の如し(海軍省)/山形県 川井巌」『官報(大正5年8月8日号)』大蔵省印刷局、1916年、178-179頁。 
  5. ^ 「士官候補生採用/本年召募の士官候補生に採用すへき者の族籍、氏名左の如し入隊すへき隊号等は追て官報に掲載す(陸軍省)/山形県 川井巌」『官報(大正5年7月26日号)』大蔵省印刷局、1916年、589頁。 
  6. ^ 秦 2005, pp. 269–288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
  7. ^ 秦 2005, pp. 663–665, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-II 海軍-5.海軍兵学校卒業生
  8. ^ a b c 阿川 2008b, p. 37
  9. ^ a b 阿川 1988, pp. 59–60
  10. ^ 『現役海軍士官名簿 昭和12年1月1日調』海軍省、1937年、90頁。 
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):264-267頁。
  12. ^ 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):216-219頁。
  13. ^ a b c d e 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):288-289頁。
  14. ^ 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):250頁。
  15. ^ 有近六次『奇蹟作戦 キスカ撤退』「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):216頁(解題)。
  16. ^ 戦史叢書28 1969, pp. 614–615
  17. ^ a b c 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):253頁
  18. ^ 小林 1990, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):324頁。
  19. ^ 東京12チャンネル報道部 1969, p. 75
  20. ^ 小林 1990, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):292頁。
  21. ^ 東京12チャンネル報道部 1969, p. 78
  22. ^ 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):259頁。
  23. ^ a b c d 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):260頁。
  24. ^ 戦史叢書28 1969, pp. 627–628
  25. ^ 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):262頁。
  26. ^ 有近 1948, 「丸 別冊:北海の戦いー千島・アリューシャン戦記」(潮書房、1990年):269-271頁。
  27. ^ 戦史叢書28 1969, p. 646
  28. ^ 市川 1983, pp. 104, 217–219
  29. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿:正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校:昭和22年11月28日 仮指定者』日比谷政経会、1949年https://dl.ndl.go.jp/pid/1276156/1/153 
  30. ^ a b c d 『官報(昭和23年12月16日号)』大蔵省印刷局、1948年、170頁。 
  31. ^ a b 『ダイヤモンド会社職員録 全上場会社版』(1955年版)ダイヤモンド社、1955年、447頁。 
  32. ^ a b c 東京光学機械 1982, pp. 212–214, 第5章 戦後第一期:7 関連会社の設立:(2)東光物産株式会社の設立
  33. ^ 『各庁職員抄録(昭和21年)』印刷局図書課、1946年、7頁。 
  34. ^ 『全官公庁便覧』(昭和24年度版)日本週報社、1949年、73頁。 
  35. ^ 『時事年鑑』(昭和26年版)時事通信社、1950年、445頁。 
  36. ^ 『政府総覧』帝国地方行政学会、1950年、495頁。 

参考文献

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  • 阿川弘之『私記キスカ撤退』文藝春秋文春文庫〉、1988年。 
  • 阿川弘之『山本五十六』 下巻、新潮社新潮文庫〉、2008b。 
  • 有近六次『奇蹟作戦 キスカ撤退』1948年。 
  • 市川浩之助『キスカ:日本海軍の栄光』コンパニオン出版、1983年。 
  • 小林新一郎『キスカ島の最後』1990年。 
  • 戦史叢書28『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年。 
  • 東京光学機械株式会社『東京光学五十年史』東京光学機械株式会社、1982年。 
  • 東京12チャンネル報道部(編)『証言 私の昭和史 第4(太平洋戦争 後期)』学芸書林、1969年。 
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。ISBN 4-13-030135-7 

関連項目

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