コンテンツにスキップ

山内長人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山内長人

山内 長人(やまのうち おさひと、1850年10月14日嘉永3年9月9日) - 1931年昭和6年)11月7日)は、日本の陸軍軍人政治家華族。最終階級は陸軍中将位階および勲等、軍功は正三位勲一等功四級貴族院議員。爵位男爵

経歴

[編集]

本籍神奈川県江戸幕臣の山内長敏の子として生れる。母のかねは藤田官次の二女。明治5年2月14日1872年3月22日)、陸軍中尉に任官。1889年(明治22年)11月、陸軍士官学校次長となり、1890年(明治23年)8月、陸軍幼年学校長に就任。1892年(明治25年)12月、陸軍省大臣官房長心得となり、1893年(明治26年)8月、陸軍省高級副官に就任。同年11月、歩兵大佐に昇進し、日清戦争に対応した。

1897年(明治30年)7月、大臣官房人事課長となり、同年9月、陸軍少将に進級し歩兵第18旅団長に就任。1899年(明治32年)2月、憲兵司令官に就任し、1902年(明治35年)9月、休職した。1904年(明治37年)2月、留守近衛歩兵第2旅団長として復帰し日露戦争を迎えている。1905年(明治38年)2月、陸軍中将に進み、翌年4月に休職した。

1907年(明治40年)3月2日、予備役に編入され[1]、同年9月21日、その功績により男爵の爵位を授爵し華族となった。1913年大正2年)4月1日、後備役となる[2]

1911年(明治44年)7月10日[3]から1929年(昭和4年)2月4日まで貴族院議員に在任し[4]公正会に所属して活動した。墓所は雑司ヶ谷霊園[5]

親族

[編集]

栄典

[編集]
外国勲章佩用允許

脚注

[編集]
  1. ^ 『官報』第7100号、明治40年3月4日。
  2. ^ 『官報』第201号、大正2年4月4日。
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁。
  5. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』87頁。
  6. ^ a b c d 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  7. ^ 広島の26歳 主婦「やすこ」
  8. ^ 今井泰子日記
  9. ^ 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。
  10. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  11. ^ 『官報』第3127号「叙任及辞令」1893年11月30日。
  12. ^ 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。
  13. ^ 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
  14. ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
  15. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  16. ^ 『官報』第6426号「叙任及辞令」1904年11月30日。
  17. ^ 『官報』第6486号「叙任及辞令」1905年2月16日。
  18. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  19. ^ 『官報』第7140号「叙任及辞令」1907年4月22日。
  20. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  21. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  22. ^ 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
  23. ^ 『官報』第3379号「叙任及辞令」1894年10月1日。

参考文献

[編集]
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
山内(長人)家初代
1907年 - 1931年
次代
山内長世