尾張藩
尾張藩(おわりはん)は、尾張一国(愛知県西部)と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)、近江、幕末には伊勢の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。
歴史
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藩の前史
[編集]尾張は慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い終結まで清洲城主・福島正則が24万石で支配していた。戦功により福島正則は安芸広島藩に加増移封された。
藩史
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関ヶ原の戦いの戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)する。慶長11年(1606年)、家康の直轄領であった知多郡(知多半島)も忠吉に加増される。しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。
代わって甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、ここに尾張藩が成立した。
藩領は随時加増されてゆき、元和5年(1619年)5月16日に56万3206石となった。さらに、寛文11年(1671年)紀伊徳川家との格差をつけて御三家筆頭の家格を示すため、給人領(渡辺半蔵はじめ16家1党に将軍の朱印状をもって与えられた知行地)5万石を加増され61万9500石の知行高が確定した。 領域は尾張のほぼ一国のほか、美濃・三河・信濃(木曽郡のヒノキ御用林)・近江・摂津と広範囲に跨って飛地が存在した。 中でも木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与する重要なものであった。また、表高こそ62万石弱であったが、新田開発を推し進めた結果、実高は100万石近くに達したといわれる。 財政には比較的余裕があったことから、領民には四公六民の低い税率が課されたという。 三河(加茂郡)や近江(蒲生郡)、摂津(川辺郡)にあったのは、すべて給人領である。
尾張藩は百姓一揆が、水戸(35件)[1]や紀伊(30件)[2]に比べ少なかった藩とされている。江戸時代を通じて尾張国内で21件の一揆が記録されている[3][4][5]。
勝海舟は、『氷川清話』(明治31年、1898年)の中で「日本国中で、古来民政のよく行き届いたところは、まず甲州と尾州と小田原との三ヶ所」であるとし、尾張(尾州)については、「租税を軽うし、民力を養った」「織田信長の遺徳がいまだ人民に慕われている」「当時の善政良法が、今なお歴々として残っている」としている。
初代
[編集]初代藩主・徳川義直は着任当初まだ幼少であったため、初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれたが、成長してからは義直自ら米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。
二代目
[編集]第2代藩主・徳川光友は寺社政策に尽力したが、寺社再建を行いすぎて藩財政が苦しくなり、藩札発行するも失敗して藩財政が苦しくなった。このため、光友以後の藩主は倹約令や上米などの財政改革を行なって藩財政を黒字にさせたりもしたが、天災なども相次いで藩財政は結局は悪化した。
三代目
[編集]第3代藩主徳川綱誠は、実母の千代姫が3代将軍徳川家光の長女であった。それゆえ、御家門の中でも最も将軍家に近い存在であった。異母兄松平義昌は陸奥梁川藩3万石を得て大窪松平家として独立、同母弟松平義行は美濃高須藩3万石を得て四谷松平家として独立、異母弟松平友著は尾張藩内で家禄を得て川田窪松平家を称し、三つの分家御連枝ができあがる。
四代目・五代目
[編集]第4代藩主・徳川吉通は、第6代将軍徳川家宣から高く評価され、家宣の子鍋松(後の徳川家継)が幼く政務に耐えられないと判断し、第7代将軍に就任するように要請されるほどの人格者[6]であったが、家宣薨去1年後に25歳と言う若さで急死してしまう。 第5代藩主は、幼い徳川五郎太が継ぐも、数え年3歳で急死してしまい、家督は叔父である徳川継友が継承。
六代目
[編集]第6代藩主・徳川継友は第7代将軍・徳川家継が重病に臥した際、第8代将軍候補の有力者であった。第6代将軍御台所の天英院の姪の近衛安己を婚約者に持ち、祖母が第3代将軍家光の長女であり、将軍家に最も近い存在であったからである。 しかし、同じ御三家の紀州藩主・徳川吉宗が将軍に就任した。その後、尾張徳川家は御三家で唯一、血統上で将軍を輩出することなく明治維新を迎えることとなる。[注 1]第4代藩主徳川吉通は、「尾張は将軍位を争わず」と述べており、尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、徳川家康より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切であるとされていたためである[6]。
七代目
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歴代藩主で最も有名なのが、その継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春である。仏教思想の法治政策として藩主時代は死刑禁止政策や罪人への寛容主義や性犯罪予防の夜間照明の女性保護政策がある。宗春は倹約を主とする江戸の幕閣の政策を批判した。名古屋東照宮祭りを盛大して尾張藩内での高麗人参の栽培や名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可するなど、規制緩和政策を推進した。 これは江戸幕府の緊縮財政に対して真っ向から対立するものであった[7]。
享保20年(1735年)に入ると幕府よりも5ヶ月早く遊興徘徊を禁じる令を出す。また、翌年の元文元年に行われた幕府の元文の改鋳によるインフレ政策に先立って、すでにインフレ状態にあった尾張藩内の引き締め政策を展開した。しかし、幕府より一手先を行く宗春の政策は幕閣に警戒感を与えてしまっていた。
丁度その頃は、幕府は朝廷が禁じた『大日本史』の出版を強行し、幕府と朝廷に緊張が走っていた。 元文3年(1738年)朝廷が、反幕府の象徴的儀式である大嘗会を開くことになる。宗春と御付家老成瀬正泰が参勤交代で江戸に下向すると、もう一人の御付家老竹腰正武が、名古屋で宗春の政策をことごとく否定していた。そのために尾張藩内は少なからず騒乱状態となる。
翌年の元文4年(1739年)に、大嘗会に使いに出ていた使者が江戸に戻り将軍吉宗に報告すると、吉宗は病と称し引きこもってしまう。 そして数日後、吉宗は、尾張藩内の騒乱状態を理由に宗春を隠居謹慎処分に処した。その日に、吉宗は朝廷の中心であった一条兼香に多額の献金をし、宗春の甥である二条宗基に諱の「宗」の字を与え、朝廷対策を打った[8]。
尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、「王命に依って催さるる事」[9]とされていた。 朝廷は宗春を高く評価しており[10]、宗春は朝廷と幕府の間に挟まれて隠居謹慎せざるを得なくなってしまった。
八代目
[編集]宗春の後を継いで第8代藩主となったのは、従弟の徳川宗勝である。宗勝は宗春時代の藩政を改め、倹約令を中心とした緊縮財政政策を行ない、藩財政を再建する一方で、学問を意奨励して巾下学問所を創設した。
九代目
[編集]第9代藩主・徳川宗睦は父・宗勝の政策を受け継いで財政改革を継続し、その治世は38年間におよんだ。 一時期は財政が好転したこともあったが、宝暦治水にもかかわらず庄内川の氾濫など、天災による被害を受けて財政が結局は悪化した。市中の富商56人から金5000両を調達し、幕府に2万両の公金拝借を願い出た。以後、財政難によりこの金策は繰り返されていくこととなる。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年(1783年)には藩校・明倫堂が創設されている。 軍制改革も実施され、寛政5年には幕府の「海軍防備令」に即応した知多半島の防備を再編成し、上方の変事に対応する計画を策定した。更にこの作戦に応じた歩兵銃砲主体の編成を大番組・寄合組・馬廻り組を拡充させた。寛政11年(1799年)12月に宗睦は死去した。宗睦の実子は早世していたため、ここに義直以来の尾張徳川家の男系の血統は藩主家から断絶した。
十代目
[編集]代わって寛政12年(1800年)1月に第10代藩主となったのは、一橋家から養子として迎えられた徳川斉朝である。 斉朝は、尾張藩第4代藩主徳川吉通の外孫である二条宗基の曾孫にあたり尾張徳川家の血を受け継いでいた。しかし、ここで尾張の男系血統は藩祖義直から断絶する[11]。
十一代目~十三代目
[編集]第11代藩主・徳川斉温や第12代藩主・徳川斉荘・第13代藩主・徳川慶臧らは、第11代将軍・徳川家斉の実子か、あるいは御三卿から迎えられた養子などであった(いずれも紀州藩主から将軍となった徳川吉宗の血統の一橋家の血筋)。 彼らは寿命や在任期間が短かったこともあったが、尾張に入国せずに江戸に在住することが多かったこともあって、藩政は停滞期に入り、藩財政は赤字になった。慶臧の継承により、尾張藩は幕府への財政依存が更に高まり、嘉永元年に米切手(藩札)の回収を条件に10万両が幕府から貸与されている。
このため、藩内では幕府迎合的で御三卿・徳川将軍家などからの養子を藩主に迎えて財政支援を期待する付家老などの江戸派に反対して、幕府からの藩政介入に反発し独立志向の金鉄党(尾張派、寛政軍革により拡充された大番組を中心として結成)を中心に藩主擁立運動が起こった。結局、将軍家御三卿系の養子は阻止された。
十四代目~十六代目
[編集]支藩美濃高須藩から本家を継いだ幕末の第14代藩主・徳川慶恕(後の慶勝、血統としては水戸系)は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めている。
しかし安政5年(1858年)に将軍後継者問題・条約勅許問題などから一橋派に与して井伊直弼ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は紀州家からの将軍擁立を妨害するために押しかけ登城を行ったことなどにより、直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分に処され、第15代藩主には慶勝の弟・徳川茂徳がなった。
だが、直弼が桜田門外の変で暗殺され、文久3年(1863年)9月13日には茂徳に代わり、慶勝の子・徳川義宜が第16代藩主となったため、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し尾張藩は藩主と元藩主の二重支配体制となり、第一次長州征伐の総督に立てられるなどした。慶勝は第二次長州征伐の総督にも任命されたが、辞退している。
明治時代
[編集]- 明治維新
大政奉還後に慶勝は新政府の議定に任ぜられ、小御所会議で決定された辞官納地を慶喜に求める使者となっている。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いによって新政府と幕府の対立が明らかになると慶勝も新政府側につき、藩内の佐幕派は青松葉事件によって弾圧された。 鳥羽・伏見の戦いの後に明治新政府により東征軍が編成されると、前藩主徳川慶勝は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩、代官、旗本、それと勤王側の在野の国学グループへ勤王誘引使を送り中立化へ動かして新政府軍の東海道通過を容易にした。
明治3年(1870年)には財政難に陥った支藩の高須藩を吸収。
- 廃藩置県
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により廃藩し、名古屋県となった。その後、犬山県との統合、愛知県への改称、額田県との統合を経て、現在の愛知県となった。
廃藩置県後の、尾張徳川家の家政機関については、尾張徳川家#尾張徳川侯爵家を参照のこと。
歴代藩主一覧
[編集]徳川家(尾張徳川家)
[編集]代 | 名 | よみ | 極位極官 | 就封 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 義直 | よしなお | 従二位行権大納言[12] | 慶長12年-慶安3年 1607年 - 1650年 |
徳川家康 9男 | |
2 | 光友 | みつとも | 従二位行権大納言 | 遺領相続 | 慶安3年 - 元禄6年 1650年 - 1693年 |
先代の長男 |
3 | 綱誠 | つななり | 権中納言従三位 | 家督相続 | 元禄6年 - 元禄12年 1693年 - 1699年 |
先代の長男 |
4 | 吉通 | よしみち | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 元禄12年 - 正徳3年 1699年 - 1713年 |
先代の9男 |
5 | 五郎太 | ごろうた | 無位無官 (死後、従三位参議追贈) |
遺領相続 | 正徳3年(7月 - 10月) 1713年 |
先代の長男 |
6 | 継友 | つぐとも | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 正徳3年 - 享保15年 1713年 - 1730年 |
先代の叔父 (3代綱誠の11男) 養子 |
7 | 宗春 | むねはる | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 享保15年 - 元文4年 1730年 - 1739年 |
先代の弟 (3代綱誠の19男) 養子 |
8 | 宗勝 | むねかつ | 権中納言従三位 | 遺領相続(正式な相続ではなく、先代宗春謹慎に伴い没収の後、改めて藩主として指名する形式) | 元文4年 - 宝暦11年 1739年 - 1761年 |
2代光友の孫 (はじめ支藩の高須藩主) 養子 |
9 | 宗睦 | むねちか | 従二位行権大納言 | 遺領相続 | 宝暦11年 - 寛政11年 1761年 - 1799年 |
先代の2男 |
10 | 斉朝 | なりとも | 正二位行権大納言 | 遺領相続 | 寛政11年 - 文政10年 1799年 - 1827年 |
将軍家斉の甥 養子 |
11 | 斉温 | なりはる | 従二位行権大納言 | 家督相続 | 文政10年 - 天保10年 1827年 - 1839年 |
先代の従兄弟 (将軍家斉の19男) 養子 |
12 | 斉荘 | なりたか | 従二位行権大納言 |
家督相続 | 天保10年 - 弘化2年 1839年 - 1845年 |
先代の兄 (将軍家斉の12男) 養子 |
13 | 慶臧 | よしつぐ | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 弘化2年 - 嘉永2年 1845年 - 1849年 |
御三卿田安斉匡の7男 養子 |
14 | 慶恕 | よしくみ | 権中納言従三位 | 遺領相続 | 嘉永2年 - 安政5年 1849年 - 1858年 |
支藩高須藩松平義建2男 養子 |
15 | 茂徳 | もちなが | 従二位行権大納言 | 家督相続 | 安政5年 - 文久3年 1858年 - 1863年 |
先代の弟 (支藩高須藩松平義建5男) 養子 |
16 | 義宜 | よしのり | 従三位行左近衛権中将 | 家督相続 | 文久3年 - 明治2年 1863年 - 1869年 |
先代の甥 (14代慶恕の3男) 養子 |
17 | 慶勝 | よしかつ | 正二位行権大納言 | 家督相続 | 明治2年 - 1869年 - |
14代藩主慶恕が再承 |
藩校
[編集]- 明倫堂 - 寛延2年(1749年)創立、現・愛知県立明和高等学校
- 洋学校 - 明治3年(1870年)創立、現・愛知県立旭丘高等学校
支藩・御連枝
[編集]梁川松平家(大窪松平家)
[編集]- 義昌(よしまさ)〔従四位下、出雲守・少将〕 尾張藩主・徳川光友の子
- 義方(よしかた)〔従四位下、出雲守・少将・侍従〕
- 義真(よしざね)〔従四位下、式部大輔・侍従〕
- 通春(みちはる)〔従五位下、主計頭・侍従〕 尾張藩主徳川綱誠の子 後、尾張藩主・徳川宗春となる
江戸上屋敷を四谷大窪に置いた。
高須松平家(四谷松平家)
[編集]- 高須藩(たかすはん)3万石(岐阜県海津郡、1700年 - 1870年) - 1870年に尾張本藩と合併された。10代藩主義建の男子は合わせて6人が高須藩を含めた諸藩の藩主の地位に就いた(尾張藩主・徳川慶勝(二男)、浜田藩主・松平武成(三男)、尾張藩主・徳川茂徳(五男、最初は11代高須藩主松平義比)会津藩主・松平容保(七男)、桑名藩主・松平定敬(九男)、13代高須藩主松平義勇(十男))。江戸屋敷は四谷に所在した。
- 義行(よしゆき)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川光友の子・母は3代将軍徳川家光の長女千代姫
- 義孝(よしたか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川綱誠の子。叔父義行の養子となる
- 義淳(よしあつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川宗勝となる。 川田窪松平友著の嫡男。義孝の養子となり、後に尾張藩8代藩主となる。
- 義敏(よしとし)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕
- 義柄((よしとも)〔従四位下、侍従兼摂津守〕→ 尾張藩主・徳川宗睦の養子となり徳川治行となる。
- 義裕(よしひろ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
- 勝当(かつまさ)〔従四位上、左近衛権少将兼弾正大弼〕
- 義居(よしすえ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 一橋家・徳川治済の子。
- 義和(よしより)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕 水戸藩主徳川治保の子。
- 義建(よしたつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
- 義比(よしちか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川茂徳となる。
- 義端(よしまさ)〔早世のため無位無官〕
- 義勇(よしたけ)〔従五位〕
- 義生(よしなり)〔従五位〕
川田窪松平家
[編集]- 徳川光友の十一男・松平友著が元禄6年(1693年)、5000石を内分される。翌元禄7年(1694年)にはさらに1万石を内分され、正徳元年(1711年)に分家独立する。市ヶ谷川田窪に江戸屋敷を構えた。定府。享保17年(1732年)、子の松平友淳が高須松平家を継ぎ断絶。
家臣団
[編集]尾張藩の家臣団は、将軍徳川家康・秀忠の命によって幕府から附属された重臣(幕下御附属衆)を中心に、義直が駿府城にいた幼少期から仕えた者(初後御部屋附衆・駿河詰衆・駿河新参衆)に、甲斐出身で甲府藩主時代に従った者(御朱印衆)、尾張に転封された際に召し抱えた清洲藩主松平忠吉の遺臣(甚太郎衆・忍新参衆・清洲新参衆・尾張衆)、義直の傅役(御附家老)として転封直後の藩政を執った平岩親吉の旧臣(弓削衆)が合流し、さらに家康死後、義直が尾張に入部して以降に召し抱えた者(元和新参衆、瑞公御部屋新参衆、慶安以後新参衆)と義直の女系親族関係者(外戚家・勝臣衆)を加えて形成された(括弧内は尾張藩の藩命で編纂された藩士系図集『士林泝洄』による分類。)[13]。
幕下御附属衆は16氏を数えるが、成瀬、竹腰、渡辺、石河、山村、千村の6氏の本宗家は代々将軍に拝謁する資格を所持し、拝謁資格のない他氏(御附属列衆。滝川氏など)と区別された[13]。
家臣団の身分秩序としては、(1)万石以上、(2)諸大夫、(3)老中列以上、(4)大寄合以上、(5)御用列以上、(6)千石以上、(7)礼劔、(8)物頭、(9)騎馬役以上、(10)規式以上、(11)五十人以上、(12)徒以上の12格が設けられていた。(10)規式以上から上の格が藩主に謁見できる御目見以上であり、このうち(1)万石以上から(4)大寄合以上までが騎馬役を同心として附属される同心頭を務める家老級の重臣で、年寄や城代の役職についた[14]。
年寄は別名を老中といい、藩外に対しては家老と称した。成瀬氏の本宗家(成瀬隼人正家)と竹腰氏の本宗家(竹腰山城守家)の当主は、病死した平岩親吉に代わって慶長17年(1612年)に徳川家康によって尾張藩の執政に任じられた成瀬正成と竹腰正信以来年寄の上席の地位を常に占めており、「両家年寄」と称した。この両家がいわゆる御附家老である。両家の下に所領が1万石以上である渡辺飛騨守(半蔵)家、石河伊賀守家、志水甲斐守家(外戚家・義直の母お亀の方の生家)があり、この3家から年寄に就任した場合は「万石以上年寄」と称して、5家以外から登用された年寄よりも上席とされた[15]。
幕下御附属衆のうち所領が万石未満の山村甚兵衛家および千村平右衛門家は、尾張藩に附属された後も山村家が木曽代官として幕府の管轄する福島関所を預かり、千村家が信濃国伊那郡と遠江国船明の幕府領を預かっていたことから、幕府と尾張藩に両属の特別な地位にあった。この2家は江戸に屋敷を与えられて大名や交代寄合のように家族を証人として江戸に置き、将軍の代替わりや家督相続時に参府して将軍に謁見した。他方、尾張藩においては城代格の大寄合とされており、隠居後に幕府の了解を得て年寄に登用された山村良由を例外として年寄に就任することはなかった[16]。
両家年寄
[編集]万石以上年寄
[編集]重臣
[編集]山村甚兵衛家と千村平右衛門家は大寄合上座[16]。
以下は年寄を輩出した主な重臣家[15]。
- 滝川家(尾張稲島6000石→4000石→3000石・御附属列衆)
- 阿部家(尾張瀬部8000石→4000石・甚太郎衆)
- 寺尾家(尾張蟹江8000石→1500石・忍新参衆)
- 間宮家(間宮大隈・尾張日長4300石→改易→300俵・駿河新参衆)
- 長野家(尾張石浜4000石→1200石・駿河新参衆)
- 大道寺家(藩内2000石→4000石→3500石・清洲新参衆)
- 山澄家(尾張大草5000石→4000石・瑞公御部屋新参衆)
- 成瀬豊前守(大膳)家(藩内5000石→3500石・幕下御附属衆成瀬家分家)
- 成瀬吉左衛門(内記)家(藩内3000石→1800石・幕下御附属衆成瀬家分家)
- 成瀬織部(半太夫)家(尾張古見1500石→4000石・幕下御附属衆成瀬家分家)
- 成瀬正則の次男、正信が召し出されて1500石を与えられ、代々年寄を輩出して加増を受けた[27]。
- 成瀬正信 - 正惟 - 正明 - 正恕 - 半太夫 - 半太夫 - 半之丞 - 半太
- 渡辺半十郎(新左衛門)家(藩内1500石→2000石・幕下御附属衆渡辺家分家)
- 鈴木家(藩内4000石→3000石・初後御部屋附衆)
- 平岩親吉の旧臣。鈴木重之が義直の寵愛を受けて小姓に取り立てられ、寺尾直政とともに殉死。家督を継承した嫡男重長が年寄に登用された[29]。
- 鈴木重之 - 重長 = 明雅 = 重章 -
- 野崎家(藩内2000石→1000石・元和以後新参衆)
- 寺西家(藩内1000石→300石・忍新参衆)
- 松平忠吉に仕えて1000石を与えられた寺西昌吉の曾孫雅矩が年寄に登用されたが、嫡男雅宣の早世後後継者を欠いて家格を落とした[31]。
- 寺西昌吉 - 秀昌 - 昌勝 - 雅矩 - 雅宣 = 雅矩(再勤) = 昌豊 = 昌凭 -
- 織田家(藩内4000石・慶安以後新参衆)
- 石川家(藩内1500石→1000石・甚太郎衆)
- 中条家(藩内4000石→1500石・慶安以後新参衆)
- 玉置家(藩内3000石→1000石・御附属列衆)
- 石河(西)家(西石河家・藩内1000石・幕下御附属衆石河家分家)
- 奥田家(藩内3000石→1200石・甚太郎衆)
- 同心の家柄出身の奥田忠雄が綱誠の小姓に召し出され、年寄にまで出世した[36]。
- 奥田忠雄 = 仲雄 = 智雄 -
- 津田家(津田太郎左衛門・藩内1000石→1500石・御附属列衆)
- 津田家(津田縫殿・藩内3000石→3500石・尾張衆)
- 河村家(藩内4000石→2000石・駿府新参衆)
- 庵原氏(藩内3000石→200石・瑞公御部屋新参衆)
- 駿河出身の小嶋守親が成瀬正虎に招かれて尾張藩士となり、その嫡男守治が光友の小姓に召し出された。跡を継いだ外孫の志が年寄にまで出世するが、隠居後に跡継ぎの急死が続き、家禄を減らした[40]。
- 小嶋守親 - 守治 = 庵原志 = 守𣴎 = 守賢 - 守浮 = 志(再勤) = 新九郎 -
- 渡辺半九郎(源太左衛門)家(藩内1500石・幕下御附属衆渡辺家分家)
- 横井三太夫家(藩内4000石→1500石・尾張衆)
- 星野家(藩内5000石→800石・弓削衆)
- 生駒家(尾張小折3000石→4000石・尾張衆)
- 遠山家(尾張西之口1000石→3000石・忍新参衆)
- 横井家(尾張赤目5800石→4000石・尾張衆)
- 鏡島家(藩内1300石・幕下御附属衆石河家分家)
- 下条家(藩内1500石→2500石・駿府新参衆)
- 徳川家康の侍女の甥である下条正明が義直の誕生直後に小姓として附属されて1500石を与えられた。18世紀後半から代々年寄を輩出するようになり、加増された[46]
- 下条正明 - 正春 = 孝正 - 孝典 = 正員 -
- 間宮家(間宮外記・藩内1000石→3000石・駿河新参衆)
- 五味家(藩内1000石・元和以後新参衆)
- 高橋家(300俵→藩内1200石・弓削衆)
- 高木家(高木八郎左衛門・藩内400石→1500石・忍新参衆)
- 中西家(藩内300石→1000石・元和以降新参衆)
- 佐枝家(藩内2000石→1000石・弓削衆)
- 肥田家(尾張猪子石2000石→1000石・駿河新参衆)
- 水野家(尾張河和1460石・駿河新参衆)
- 滝川又左衛門家(藩内1000石・御附属列衆滝川家分家)
- 千賀家(尾張師崎1400石・清洲新参衆)
- 佐藤家(藩内1200石・忍新参衆)
- 松平忠吉の旧臣で200石の同心の家から召し出された忠盈が国用人まで出世して1200石に加増された[57]。幕末に年寄を輩出。
- 佐藤忠盈 - 具忠 -
- 田宮家(藩内300石)維新後男爵
その他の家臣
- 石河(中)家(中石河家・藩内2000石→1500石・幕下御附属衆石河家分家)
- 山村甚左衛門家(藩内500石→1500石・幕下御附属衆山村家分家)
- 石黒家(美濃大吉新田500石→1500石・御附属列衆)
- 鈴木治部左衛門家(藩内2000石→1000石・初後御部屋附衆)
- 平岩親吉の家老だった鈴木重吉が親吉没後の家中騒動で改易された後、大坂夏の陣に陣借りして参戦して戦死したため、嫡男重成が召し返されて成瀬家の同心組頭に復帰した[29]。
- 鈴木重吉 - 重成 - 重方 = 重教 - 重辰 -
- 天野家(藩内1000石・初後御部屋附衆)
- 野呂瀬家(藩内500石→1200石・弓削衆)
- 榊原家(藩内1300石→1000石・駿河詰衆)
- 旧姓は鋤柄氏。平岩親吉の家臣から義直の小姓に附けられた宗俊が家康の命で榊原姓を与えられ、大番頭まで出世した[63]。
- 榊原宗俊 - 宗氏 - 宗令 = 宗昌 - 寧綱 -
- 小笠原家(藩内1000石→1500石・甚太郎衆)
- 富永家(藩内2000石→1400石・甚太郎衆)
- 高木家(高木志摩・尾張大井2400石→400石・忍新参衆)
- 荒川家(藩内1500石→1200石・忍新参衆)
- 久野家(尾張丸米野1500石→1000石・忍新参衆)
- 兼松家(尾張島村2600石→1000石・尾張衆)
- 藤ヶ瀬横井家(尾張藤ヶ瀬1200石→1500石・尾張衆)
- 祖父江横井家(尾張祖父江1900石→1000石・尾張衆)
- 中村家(藩内3000石→1000石・尾張衆)
- 毛利家(毛利源内・美濃八神2000石・尾張衆[71])
- 澤井家(藩内2500石→1300石・尾張衆)
- 稲富家(藩内2000石→400石・清洲新参衆)
- 上野家(藩内350石→1300石・清洲新参衆)
- 竹中家(藩内2000石→400石・外戚家)
- 野崎家(野崎一学・藩内1000石→1200石・元和以後新参衆)
- 野崎兼供の四男兼続純が小姓として召し出され、大番頭にまで出世して1000石を与えられた[30]。
- 野崎兼純 - 兼永 -
- 埴原家(藩内1000石)
- 『士林泝洄』に系譜の収録されていない新参家系。旗本竹内幸和の四男で尾張藩年寄織田貞幹の外孫である貞侃が貞幹の願い出によって召し出され、貞幹の親族の姓である埴原を称した。貞侃は寺社奉行にまで出世し1000石を与えられた[78]。
- 埴原貞侃 - 貞寿 -
江戸屋敷
[編集]尾張藩は江戸に総坪数は31万1000坪余にもなる屋敷を所持し、諸大名のなかで最大規模を誇っていた。
- 上屋敷【市谷屋敷】は当主の住まいで政庁も置かれた。明治4年(1871年)、兵部省用地として召し上げられ、以後は一貫して陸軍用地となり、現在は防衛省の敷地となっている。
- 中屋敷【麹町屋敷】は、江戸城外堀の四谷門内(現東京都千代田区麹町)に拝領した屋敷。総坪数1万7870坪余あった。幕末を迎え、明治2年(1869年)に政府に接収された。
- 下屋敷【戸山屋敷】は、和田戸山(現新宿区戸山〉にあり避災邸と休息用の別邸を兼ねた下屋敷として整備された。
- 蔵屋敷は、江戸初期南八丁堀にあったが明暦の大火のあと築地地区の埋立地に移転された。
京藩邸
[編集]当初は天神山町(四条烏丸北西)にあった。しかし禁門の変で罹災したことでメインの藩邸として吉田邸が整備されることとなり、尾張藩は、文久3年(1863年)10 月頃に、屋敷を設けるための土地を吉田村に購入した。それ以降、主殿をはじめとする諸施設が徐々に営れ、京都における同藩の拠点として重要な役割を担うに至った。愛知県公文書館に架蔵される「吉田御屋敷之図」には、「三万三千三百三十三坪」と書きこまれており、尾張藩の吉田邸の面積が確かめられる。吉田邸は、明治4年(1871年)に処分され、京都大学吉田キャンパスの敷地となった。これまでにおこなわれた京都大学本部構内における発掘調査で、尾張藩吉田邸に関係するものと考えられる遺構が検出されている。邸内には熱田神宮も勧請された。
東浜御殿
[編集]尾張藩は東海道を往来する大名らを招待し供応するため、寛永元年(1624年)初代藩主の徳川義直の命で神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島を造り、そこに東浜御殿を造営した。「厚覧草」によれば寛永11年(1634年)には、三代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した。その敷地は1万平方メートル以上、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であったと考えられている。鯱をいただいた小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものという。これを桑名楼と呼び、東側の楼閣を寝覚(ねざめ)楼と言い城郭のような構えであった。東浜御殿の位置は、現在の名古屋市熱田区内田町付近であったと推定される。
西浜御殿
[編集]尾張藩は承応3年(1654年)に七里の渡しの北西に西浜御殿を築いた。現在、その跡は残っておらず、西浜御殿があった白鳥コミュニティセンター(名古屋市熱田区神戸町)北側に看板が立っているだけである。2018年に徳川林政史研究所(東京)において詳細な間取図が発見された。西浜御殿は平坦な邸だが内部の調度が豪華を極めていたという。歌川広重の浮世絵「宮 熱田濱之鳥居」にも画面左端にその姿が描かれている。
尾張藩主の別荘
[編集]- 小牧御殿(愛知県小牧市)
- 坂下御殿(愛知県春日井市)
- 朝宮御殿(愛知県春日井市)
- 横須賀御殿(愛知県東海市高横須賀町御亭)徳川光友が、寛文6年(1669年)に建てた別荘。臨江亭とも言ったが、光友が亡くなった後の正徳5年(1715年)に取り壊されたが、その70年後の天明5年(1785年)に、新しく横須賀代官所が置かれた。
陣屋・奉行所・代官所
[編集]- 寺部陣屋(愛知県豊田市) - 三河国加茂郡寺部村にあった、尾張藩家老の渡辺氏1万4千石の陣屋。
- 千村陣屋(岐阜県可児市) - 美濃国可児郡久々利村にあった江戸幕府の交代寄合で木曾衆の一つ千村平右衛門家の陣屋。尾張藩と幕府との両方に仕えた。
- 熱田奉行所(名古屋市熱田区) - 宮宿(熱田湊)にあった尾張藩の奉行所。船舶の取締りをする船奉行、その下に船番所・船会所などをおいて、旅人や貨物の検察・保安にあたった。
- 白鳥材木奉行所(名古屋市熱田区) - 熱田の白鳥には尾張藩の材木貯木場もあった。熱田湊とも呼んでいた。
- 鳴海代官所(名古屋市緑区)- 東海道鳴海宿にあった。尾張藩の代官所。鳴海陣屋とも呼ばれた。
- 北方代官所(愛知県一宮市)-天明元年(1781年)に北方堤防上に北方代官所(陣屋)が設置され、その管轄は、尾張、美濃の両国にまたがっており、併せて川並奉行所も置かれていた。
- 小牧代官所(愛知県小牧市)
- 水野代官所(愛知県瀬戸市)
- 佐屋代官所(愛知県愛西市) - 尾張国海東郡佐屋湊にあった。尾張藩の代官所。
- 鵜多須代官所(愛知県愛西市)
- 清須代官所(愛知県清須市)
- 横須賀代官所(愛知県東海市)
- 円城寺川並奉行所(岐阜県羽島郡笠松町) - 尾張藩は円城寺に川並奉行を置き、 木曽川を通る船や積荷を取り締まりを行った。
- 太田代官所(岐阜県美濃加茂市) - 美濃国加茂郡太田村にあった。尾張藩の代官所。
- 上有知代官所(岐阜県美濃市) - 美濃国武儀郡上有知村にあった。尾張藩の代官所。
- 木曾代官所(長野県木曽郡木曽町福島) - 信濃国福島宿 (中山道)に置かれた。木曽代官・福島関所関守を務めた山村甚兵衛家の代官所。
- 木曾材木奉行所(長野県木曽郡上松町)- 寛文4年(1664年)、尾張藩が行った林政改革後に設置された。上松材木役所、上松陣屋、原畑役所とも呼ばれた。
- 錦織川並材木奉行所(岐阜県加茂郡八百津町)錦織 - 寛文5年(1665年)、これまでの山村甚兵衛家の錦織役所は廃止され、尾張藩直轄の川並奉行所が、錦織と牧野に新設された。錦織には、江戸以前から綱場が設けられていた。家康時代から山村甚兵衛家が管理し久々利村に住した久々利九人衆が交代で勤めていたが、寛文5年に尾張藩直轄になって山村甚兵衛家の役人は引き揚げた。錦織の綱場は、木曽川合渡から川狩輸送した材木を、ここで川切して筏に組み熱田湊(尾張藩貯木場)まで輸送した。
- 牧野川並材木奉行所(岐阜県加茂郡八百津町牧野)- 享保11年(1726年)に番所に格下げとなり嘉永元年に廃止された。
年貢と正保四ツ概
[編集]当初、尾張藩では領内の村々の年貢を徴収するにあたり、天正年間の太閤検地で調べた石高(元高)を基準としていたが、4割以上を徴収していた村もあり、4割未満を徴収していた村もあって一定ではなかった。
正保2年(1645年)に、領内の寺社領を除き、それまで六公四民であった年貢を四公六民(尾張藩が4割を徴収し、百姓は6割を自分の収入とする)ことを定めた。これにより実収入の増加を図るために、元高の65万3千石余を、24万千石余を増やして89万4千石とした概高(ならしだか)に改め、高の40%を基準として年貢を課することにしたので、これによって尾張藩の収入は、約10万石増加した。
その際に従来4割以上徴収していた村の石高を増やし、4割未満を徴収していた村の石高は減らした。このことを正保四ツ概(しょうほうよつならし)と呼んだ。[79]
これにより、尾張藩は10万石程度、実収入が増えることとなった。
藩士に対する減禄制
[編集]寛文元年(1661年)9月、尾張藩は藩士に対する世禄制を改正した。つまり藩士が子孫に相続する度に、禄高を減らしていくという仕組みであった。これによって藩士は大いに困惑し、ついに衰微断絶となった家も少なくなかったという[80]。
ただし、附家老(家康より附庸の命令を受けた家老)で1万石以上の大名格である、犬山城主 成瀬隼人正=3万5千石、今尾城主 竹腰氏=2万石、駒塚城主 石河氏=2万石、三河寺部の渡辺氏=1万石、知多郡の志水氏=1万石)と、特別待遇の木曽の山村甚兵衛家、久々利村の千村平右衛門家の両氏は減禄の対象から除かれていた。
尾張藩は138年後の寛政11年(1794年)に世禄制を復活した。以後藩士は相続の際の減禄から免れることとなった。
木曽谷に対する林政改革
[編集]寛文4年(1664年)6月、尾張藩は目付役の佐藤半太夫以下の役人を木曽谷に派遣し、木曽の山々の巡見を行った。
その結果、川筋の材木の伐採に適した所は全て伐り尽くされて乱伐が進んでいたことから、林政改革を行うこととなった。
この改革の眼目の一つは、木曾代官の山村甚兵衛家に一任していた木曽山林の伐木・運材の支配を尾張藩の直轄事業に移し、統制と改革を行うことであった。
それは第一に、山村甚兵衛家および木曽谷の住民に与えられていた山林利用の既得権の大幅な削減であった。具体的には、山村甚兵衛家が家康以来受けていた御免白木5千駄の原木を雑木に切り替え、木曽谷の村々へ与えていた御免白木[81]6千駄を3千駄に減らした。
統制の第二の点は、尾張藩が木曽谷の村々への民政の直接的支配強化に重点を置いたことである[82]。
改革の第二の点は、留山[83]を指定して、山林資源の保持を図ったことである。
また尾張領は御用商人による伐採を停止したり、運材の統制・管理を強化した。この施策は、山林乱伐を防ぐ森林保護政策の先駆であったが、森林資源でくらしを立てていた木曽の領民にとっては厳しい経済統制となった。
寛文5年(1665年)、尾張藩は、それまで山村甚兵衛家に支配を任せていた木曽川中流の錦織役所を廃止し、新たに尾張藩直轄の錦織川並材木奉行所と、牧野川並材木奉行所の両方を新設した。
寛文5年(1665年)、尾張藩は、山林管理のために上松材木役所を設置して材木奉行を派遣した。初代奉行には佐藤半太夫が任命された。奉行定員は2名で1名は、木曽川中流の美濃国可児郡錦織村に存在した尾張藩の錦織川並材木奉行を兼任した
羽書(藩札)の発行と回収
[編集]寛政6年(1789年)、尾張藩は羽書(藩札)を発行し、その後、羽書の回収にあたっての課役銀(夫銀・堤銀)の倍額増徴などの財政政策を実施して、藩財政の緊縮と増収を図った。
幕末の領地
[編集]- 尾張国
- 三河国
- 加茂郡のうち - 20村
- 美濃国
- 厚見郡のうち - 12村(うち4村が笠松県に編入)
- 各務郡のうち - 6村
- 羽栗郡のうち - 27村(うち2村が笠松県に編入、1村が同県と相給となる)
- 中島郡のうち - 15村(うち6村が笠松県に編入)
- 石津郡のうち - 10村(うち3村が笠松県に編入)
- 多芸郡のうち - 5村(うち1村が笠松県と相給となる)
- 不破郡のうち - 8村
- 安八郡のうち - 24村(うち2村が笠松県に編入)
- 池田郡のうち - 7村(うち6村が笠松県に編入)
- 大野郡のうち - 10村(うち9村が笠松県に編入)
- 本巣郡のうち - 5村(うち1村が笠松県に編入)
- 方県郡のうち - 7村(うち3村が笠松県に編入)
- 山県郡のうち - 4村(うち2村が笠松県に編入)
- 武儀郡のうち - 115村
- 加茂郡のうち - 44村(うち22村が笠松県に編入)
- 可児郡のうち - 55村(うち18村が笠松県に編入、1村が同県と相給となる)
- 土岐郡のうち - 15村(うち8村が笠松県に編入)
- 恵那郡のうち - 12村(うち4村が笠松県に編入、4村が同県と相給となる)
- 信濃国
- 筑摩郡のうち - 32村
- 近江国
- 蒲生郡のうち - 7村
- 伊勢国
明治維新後に、美濃国中島郡2村(八神城主・毛利源内預所の旧幕府領)、北見国網走郡、斜里郡が加わった。
脚注
[編集]- ^ 水戸藩と分家の額田藩でない県南と鹿行も含めると常陸で59件(木村由美子『茨城の百姓一揆と義民伝承』(筑波書林)
- ^ うち2件は紀伊徳川以前の浅野幸長・長晟の北山一揆・紀州一揆(日高一揆)
- ^ 『百姓一揆の発生地と件数』出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
- ^ 尾張藩『角川日本地名大辞典(旧地名編)』
- ^ 大規模な死者がでた例としては、寛文年間以降に、決起したキリシタンが数百人単位で名古屋の千本松原などに埋められた「濃尾崩れ」、明治維新後に、3万人以上が参加し百姓側に多くの死傷者が出た「稲葉騒動」が起きている。
- ^ a b 『圓覺院様御伝二十五箇条』近松茂矩記
- ^ 吉宗から三か条の詰問を受けたにもかかわらず、宗春は無視して政策を推し進めたとする説もあるが、吉宗から咎めを受けたという公式記録は存在していない。
- ^ 『徳川実紀』
- ^ 徳川義直『軍書合鑑』
- ^ 『一条兼香公記』には、紀州藩を批判し、尾張藩を持ち上げる記述が散見される。
- ^ 第4代藩主吉通の長女信受院千姫は、五摂家の九条家に嫁ぎ、その血筋は多くの家に繋がっていき、現在の皇室とも繋がっている。また、御附家老竹腰家にも第2代藩主光友の血筋は伝わっている
- ^ 公文書において官が低く位が高いときは、位・官の間に「行」の字を入れる。大納言は正三位に相当。
- ^ a b 林董一編『尾張藩家臣団の研究』名著出版, 1975年, pp. 131-132.
- ^ 林董一編『尾張藩家臣団の研究』名著出版, 1975年, pp. 190-209.
- ^ a b c d 林董一『尾張藩公法史の研究』日本学術振興会, 1962年, pp. 160-205.
- ^ a b c d 林董一『尾張藩公法史の研究』日本学術振興会, 1962年, pp. 53-107.
- ^ a b c 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.66-73.
- ^ a b c d e f 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.73-83.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.320-326.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.1-4.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.233-239.
- ^ a b 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.376-382.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.390-393.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.252-257.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第20巻 士林泝洄 第4』名古屋市教育委員会, 1968, pp.353-356.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.51-55.
- ^ a b 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.49-51.
- ^ 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店, 1934, p.147.
- ^ a b 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.187-203.
- ^ a b 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第20巻 士林泝洄 第4』名古屋市教育委員会, 1968, pp.1-6.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.118-120.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第20巻 士林泝洄 第4』名古屋市教育委員会, 1968, pp.396-397.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.51-54.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第20巻 士林泝洄 第4』名古屋市教育委員会, 1968, pp.379-380.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.143-145.
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- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.124-131.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.183-189.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.413-414.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第20巻 士林泝洄 第4』名古屋市教育委員会, 1968, pp.366-367.
- ^ a b c d 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.150-168.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.249-256.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.136-139.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.181-189.
- ^ 梶川勇作「近世の尾張藩における尾張衆とその知行地(後編)」『金沢大学文学部 地理学報告』8号、1997年, pp.43-47.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.418-421.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第20巻 士林泝洄 第4』名古屋市教育委員会, 1968, pp.6-11.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.417-418.
- ^ a b 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.207-221.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.440-443.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.341-343.
- ^ a b 名古屋市編『名古屋市史』 政治編 第1』名古屋市, 1915, pp.208-213.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.371-372.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.386-390.
- ^ 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店, 1934年, p. 142.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.297-301.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.37-40.
- ^ 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店, 1934年, pp. 170-179.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.93-94.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.131-142.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.234-245.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.359-365.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966, pp.508-511.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.4-9.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.17-32.
- ^ 梶川勇作「近世の尾張知多郡における給地と地頭」『金沢大学文学部地理学報告』5号, 1989年, pp.4-8.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.228-233.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第18巻 士林泝洄 第2』名古屋市教育委員会, 1967, pp.240-243.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.139-145.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.168-174.
- ^ 1.美濃国中島郡を本領とし、2.土岐氏・斎藤氏・信長・秀吉・家康に仕えた後に、家康の命で徳川義直に附属した、3.松平忠吉の家臣であったことはない毛利家が尾張衆に分類されていることについては、疑問視する見解もある。梶川勇作「近世の尾張藩における尾張衆とその知行地(後編)」(『金沢大学文学部 地理学報告』8号、1997年)P.40、P.50
- ^ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(後編)」(『金沢大学文学部論集 史学・考古学・地理学篇』18号、1998年)P.44
- ^ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(前編)」(『金沢大学文学部論集 史学科篇』10号、1990年)P.44
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.189-196.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.221-224.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.237-241.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第19巻 士林泝洄 第3』名古屋市教育委員会, 1968, pp.341-342.
- ^ 名古屋市蓬左文庫編『名古屋叢書三編 第4巻』名古屋市教育委員会, 1984, pp.139-140.
- ^ (濃飛通史・濃陽徇行記)
- ^ (林菫一著・尾張藩の給知制)
- ^ 使用が許可された材木を割って半製品にした材料
- ^ 近世林業史の研究・岐阜県史
- ^ 伐採を禁じた山林
注釈
[編集]- ^ 八代吉宗、十四代家茂が紀州からであり、十五代慶喜は、水戸家出身で後に御三卿一橋家の養子になり、その後将軍になっている。
関連項目
[編集]- 名古屋市(市章は藩主の合印)
- 江戸藩邸(跡地の多くは公共施設となった)
- 吉田生風庵 - 尾張徳川茶会、名古屋の茶家
- 新陰流
- 円明流
- 猪谷流
- 夢想流(尾張藩では「家流」と呼ばれた)
- 和新心流(尾張藩では「関口流」と呼ばれ、大関口流と小関口流の2派があった)
- 福沢流
- 貫流
- 一条不二流
- 日守流
- 柳生の大太刀
- 伝馬銀
- 鸚鵡籠中記
- 青松葉事件
- 田中不二麿
外部リンク
[編集]先代 (尾張国) 高須藩 |
行政区の変遷 1610年 - 1871年 (尾張藩→名古屋藩→名古屋県) |
次代 名古屋県 |