宗谷丸
宗谷丸 | |
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宗谷丸(1939年より前) | |
基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
船籍 |
大日本帝国 日本 |
所有者 |
鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 |
運用者 |
鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 |
建造所 | 横浜船渠 |
母港 | 東京港/東京都[要出典] |
建造費 | 855,800円 |
信号符字 | JAWE[1] |
IMO番号 | 37738(※船舶番号)[1] |
建造期間 | 357日 |
就航期間 | 12,001日 |
経歴 | |
起工 | 1931年12月15日 |
進水 | 1932年6月23日 |
竣工 | 1932年12月5日 |
就航 | 1932年12月22日 |
退役 | 1965年8月11日 |
最後 | 1965年10月13日売却解体[1] |
要目 | |
総トン数 | 3,593.16トン[2] |
全長 | 103.33m[2] |
垂線間長 | 94.49m[2] |
幅 | 14.17m[2] |
深さ | 9.17m[2] |
高さ | 11.58m(水面から煙突最上端まで)[3] |
満載喫水 | 6.63m[2] |
ボイラー | 船用スコッチボイラー 4基[4] |
主機関 | 三連成往復動汽機 2基[4] |
推進器 | 4翼組立式 2軸[4] |
出力 | 5,850.9SHP[4] |
最大速力 | 17.061ノット[4] |
航海速力 | 15ノット[5] |
旅客定員 |
一等:18名 二等:102名 三等:670名[2] |
乗組員 | 定員87名[2] |
積載能力 | 載貨容積:587トン[2] |
宗谷丸(そうやまる)は、太平洋戦争終戦直後まで鉄道省(日本国有鉄道の前身)が稚泊連絡船で使用していた貨客船である。稚泊連絡船は、北海道稚内と当時日本領だった樺太大泊との間を結んでいた。
船名は宗谷海峡に由来する[要出典]。僚船に「亜庭丸」がある。冬季には流氷に閉ざされる海域で運行されるため、本格的な砕氷船として設計された。1942年(昭和17年)に「高島丸」が完成するまで日本最大の砕氷船であった。
船歴
[編集]稚泊航路に就航していた「壱岐丸」の安全性が問題視されるようになっていたことから1930年12月に建造が決定されたものが「宗谷丸」である[6]。建造は横浜船渠が落札し、1931年9月21日に85万5800円で契約締結[7]。1931年12月15日に起工、1932年6月23日に進水し、12月5日に竣工した[8]。12月17日、稚内に到着[8]。それから大泊へ移動し、12月22日に就航した[8]。
1935年7月下旬、「夏の利尻めぐり納涼船」と称する利尻周遊が実施され、「宗谷丸」は復路の旅客輸送を行った[9]。
1936年7月3日、「宗谷丸」は能登呂半島で座礁した近海郵船の「弘前丸」から161名を救助した[10]。
同年10月、北海道で実施の陸軍特別大演習に際し天皇の地方行幸が行われ、「宗谷丸」は拝謁のための団体輸送を行った[11]。
1937年2月15日に稚内を出航後、「宗谷丸」は流氷に閉じ込められ、推進器翼を破損した[12]。
1938年11月11日、「宗谷丸」は稚内付近で強風と高波により流されて座礁した[13]。離礁できたのは12月6日であった[13]。損傷は軽微であった[13]。
1939年2月、稚内港が流氷で封鎖されたため、「宗谷丸」は臨時で大泊・小樽間で運行された[11]。
1942年5月4日、航行中に右舷機の高圧ピストンのジャンクリングとジャンクリング取り付けボールト1本が折損した[14]。同年5月30日には左舷機の高圧ピストンのジャンクリングが折損した[14]。
1944年3月7日に大泊を出港後、氷のため稚内に入港できなかった「宗谷丸」は留萌へ向かい、以後臨時で大泊・浜小樽、次いで大泊・留萌間で運行された[15]。
- 1945年(昭和20年)7月18日 - 西能登呂岬付近でアメリカ海軍潜水艦の攻撃を受けるが、護衛中の第112号海防艦が盾となり、宗谷丸は無傷。
- 8月13日 - ソ連軍南樺太侵攻に伴い樺太からの引き揚げ輸送を開始する。
- 8月23日 - 大泊港からの最終便となり、翌朝の稚内港入港をもって航路消滅する。
- 1952年(昭和27年) 9月 - 広島鉄道管理局に転属。貨物船となり、室蘭~川崎~戸畑間の石炭の輸送に当たる。
- 1954年(昭和29年)10月14日~
12月24日 - 洞爺丸台風のため青函連絡船で再度旅客輸送に当たる。 - 1958年(昭和33年)11月 ~
1965年(昭和40年) 6月 - 石炭輸送のかたわら昌慶丸の後継の訓練船を兼任する。 - 1965年(昭和40年)8月11日 - 退役。
- 10月13日 - 三菱商事に売却され解体[1]。
訓練船となる経緯
[編集]洞爺丸事故及び紫雲丸事故の後1955年6月に設けられた「臨時日本国有鉄道連絡船改善対策審議会」の答申により非常時訓練の必要性が指摘されたことから、元関釜連絡船の昌慶丸を函館に繋留の上で訓練に使用(1956年3月〜1958年11月)。その後、石炭輸送に復帰した宗谷丸の外洋航海中に訓練を行なうようになった。
南極観測船候補
[編集]戦後、南極観測が実施される際に宗谷丸も改造候補の一つに挙がったが[17]、最終的には旧海軍の特務艦で海上保安庁(灯台守)の灯台見回り船であった「宗谷」が改造されることとなった。
記念物
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d “宗谷丸”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年8月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『稚泊連絡船史』84-85ページ
- ^ Soya_Maru - フィート表記
- ^ a b c d e 『稚泊連絡船史』86-87ページ
- ^ Soya_Maru
- ^ 『稚泊連絡船史』80ページ
- ^ 『稚泊連絡船史』80-81ページ
- ^ a b c 『稚泊連絡船史』81ページ
- ^ 『稚泊連絡船史』247-248ページ
- ^ 『稚泊連絡船史』334ページ
- ^ a b 『稚泊連絡船史』249ページ
- ^ 『稚泊連絡船史』319ページ
- ^ a b c 『稚泊連絡船史』320ページ
- ^ a b 『稚泊連絡船史』321ページ
- ^ 『稚泊連絡船史』330-331ページ
- ^ 『稚泊連絡船史』83ページ
- ^ 「南極観測船“宗谷”の改造工事について」レジメ
参考文献
[編集]- 日本国有鉄道青函船舶鉄道管理局『稚泊連絡船史』日本国有鉄道青函船舶鉄道管理局、1973年