十和田丸 (2代)
十和田丸(2代) | |
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基本情報 | |
船種 | 客載車両渡船 |
船籍 |
日本 東京(国鉄) 函館(JR北海道) |
運用者 |
日本国有鉄道(1966年-1987年) 北海道旅客鉄道(JR北海道)(1987年-1988年) |
建造所 | 浦賀重工業 [1]浦賀工場[2] |
姉妹船 |
津軽丸(2代)・八甲田丸 松前丸(2代)・大雪丸(2代) 摩周丸(2代)・羊蹄丸(2代) |
建造費 | 18億2600万円[3][4][5] |
信号符字 | JMUK |
経歴 | |
起工 | 1966年(昭和41年)2月15日[4] |
進水 | 1966年(昭和41年)6月23日[4] |
竣工 | 1966年(昭和41年)10月16日[1][4] |
就航 | 1966年(昭和41年)11月1日[4] |
終航 |
1988年(昭和63年)3月13日(定期運航) 1988年 (昭和63年)9月18日(暫定運航) |
最後 | 1990年(平成2年)クルーズ客船「ジャパニーズドリーム」へ改装 |
要目 (新造時) | |
総トン数 |
8,335.25トン (5,397.59 トン[6]) |
全長 | 132.00m |
垂線間長 | 123.00m |
型幅 | 17.90m |
型深さ | 7.20m |
満載喫水 | 5.20m |
主機関 |
単動4サイクルトランクピストン 排気ターボ過給機付ディーゼル機関 川崎 MAN V8V 22/30mAL 8台 |
最大出力 | 13,400軸馬力[7] |
定格出力 | 1,600制動馬力×8 |
最大速力 | 21.56ノット [7][8] |
航海速力 | 18.20ノット |
旅客定員 | 1,200名[1] |
乗組員 | 53名 |
車両搭載数 | ワム換算48両 |
その他 | 鉄道電報略号: トワマ |
十和田丸(2代)(とわだまる、Towada Maru)は、津軽丸型第7船として1966年(昭和41年)10月に建造された客載車両渡船で、同年11月から1988年(昭和63年)9月まで、日本国有鉄道(国鉄)および北海道旅客鉄道(JR北海道)の青函連絡船として運航された。
同連絡船廃止後は日本旅客船に売却され、ジャパニーズドリームと改名し、1990年(平成2年)3月から1992年(平成4年)1月まで横浜 - 神戸間のクルーズ客船として運航された。
なお、十和田丸の名称は青函連絡船としては2代目であった。
十和田丸(2代目)建造の経緯
[編集]※津軽丸型としての詳細は津軽丸(2代)参照
津軽丸型6隻の建造計画は、国鉄内に設置された「青函連絡船取替等委員会」が1963年(昭和38年)8月3日に提出した第2次報告に沿って進められたもので、戦中戦後の混乱期に建造された船質の良くない連絡船の代替と、青函航路の輸送力増強を目的に、1965年(昭和40年)までに津軽丸型 6隻を建造し、老朽船9隻を引退させるというものであった。当時はこれで1969年 (昭和44年)の想定貨物輸送量(片道)378万トン(上り実績418万トン)までは対応可能と見込んでいたが[9]、高度経済成長継続による北海道内の消費水準の向上、農業・土木の近代化に伴う化学肥料や機械・車両の入り込みもあり、下り貨物の輸送量も1965年(昭和40年)には300万トンに達し(上りは328万トン)、積車数では下りが上りを上回る事態で、その伸びは著しく[10]、早くも1966年(昭和41年)以降の貨物輸送の逼迫が予想された。旅客輸送においても、折からの北海道観光ブームでその増加は著しく、津軽丸型 6隻就航後の、1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正からは、津軽丸型3時間50分運航による部分的な1日2.5往復運航開始により、津軽丸型5隻12往復、うち9往復が旅客扱い便、さらに車載客船十和田丸(初代)による4時間30分運航の旅客便1往復もあり、旅客便は合計10往復となり、それ以前の6往復から大増発となった。しかし、十和田丸(初代)は、旅客定員は多いが船足が遅く、貨車航送能力もワム18両と少ないため、旅客便としても貨物便としても使いづらく、同ダイヤ改正以後は1日1往復のみの運航となっていた。そこで十和田丸(初代)を1966年(昭和41年)秋でいったん係船し、それまでに客貨とも輸送能力の高い津軽丸型をもう1隻追加建造することが1965年(昭和40年)10月22日の常務会で決定され[11][12]、11月15日 その建造が浦賀重工へ発注され、翌1966年(昭和41年)2月15日起工、10月16日竣工した。これが2代目十和田丸であった[4]。これにより津軽丸型は7隻となり、青森、函館両桟橋の第1岸壁、第2岸壁で55分折り返し運航が可能となった1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正から、1隻入渠中も残り6隻での年中無休の15往復運航が始まり、そのうち9~11往復で旅客扱いが行われた。後年旅客扱い便は減少したが、6隻15往復体制は1988年(昭和63年)3月13日の終航まで続けられた。
概要
[編集]本船は津軽丸型第7船で、船体構造や一般配置は基本的に津軽丸型前6隻に準拠していた。しかしこれら6隻では、多くの新しい機器類や制御システムがほとんどぶっつけ本番で、また船により異なった仕様で導入されたりもしていた。本船起工の時点で、津軽丸(2代)竣工から1年10ヵ月、第6船の羊蹄丸(2代)竣工からでも7ヵ月経過しており、これら6隻での使用実績やその後の技術進歩も反映して改良され、これら新機軸もようやく完成品の域に達した。これに伴い、操舵室や機関室、係船機械類の配置や仕様の変化、一部船員居住区の配置換えもあって、若干の外観の変化も見られた。
津軽丸型前6隻との差異
[編集]外観の変化
[編集]津軽丸型の外観は、各船で少しずつ異なっていた。本船では、甲板室前面の船楼甲板と遊歩甲板部分で、津軽丸型前6隻にあった壁面約7度の後傾がなくなって垂直になり、操舵室前面の7度前傾のみ残された。垂直となった壁面の角窓には2個または3個ずつまとめて雨樋が設けられた。
車両甲板下に設置された水密隔壁12枚のうち、8枚の第二甲板レベルに通り抜けできる開口部が設けられており、緊急時にこれを閉鎖する電動油圧式水密辷戸(すべりど)が設置されていた。これに油圧を供給する前後2ヵ所の動力室は、前6隻では船楼甲板右舷の前後に配置されていたが、右舷からの衝突に脆弱、ということで、より安全性の高い航海甲板の船体中心線上、無線通信室後方と後部消音器室内へ移された[15]。さらに、遊歩甲板前部の高級船員居室区画で個室数を増やすため、この部分の中央にあった空気調整室を航海甲板の操舵室と電気機器室の間に移したこともあり、無線通信室の入る甲板室が後方へ約3m延長された。一方、後部消音器室は大きさは変わらなかったが、後部消音器室後面中央に水密辷戸動力室への入口が設置された。また遊歩甲板高級船員居室区画の部屋割変更で、前6隻では船長室と廊下をはさんで向かい側にあった事務長室が船楼甲板左舷前方の予備室の位置へ移り、この部屋の角窓が1個から2個になったため、左舷の外観上の相違点となった[16]。
船楼甲板両舷に計4ヵ所設けられた脱出用滑り台設置場所では、前6隻では滑り台を支えるひもが舷側に垂れていたが、十和田丸ではこのひもを収納する樋が設置された。
塗色は新造時より、外舷下部を霧でもよく見えるオレンジ色(2.5YR6/13)[17]、外舷上部を象牙色(2.5Y9/2)とし後部煙突兼マストの下部を銀色、上部を暗い灰色(N-4)とし、これで終航まで通した[18][19]。
一部できなかったバウスラスター関連の改良
[編集]船首を横方向へ押すバウスラスターは、津軽丸型前6隻ではバウスラスタートンネル内でプロペラ軸を両側から3本ずつのステーで支持する6-STAY型の三菱横浜KAMEWA SP800/6Sを装備していたが、本船建造時には、同性能ながら片側3本のステーだけで支持するSP800/3Sが登場しており、本船でもこれを採用した。このSP800/3S ではバウスラスターの入った筒の長さがSP800/6S の2.61mから1.75mへ短縮されたため、船体幅のより狭い船首寄り、本船では前6隻より2.8m船首寄りへの装備が可能となり、これによる回頭時の効率向上も期待されたが、結局従来通りの位置での装備となった[20]。
またバウスラスター駆動電源となる主軸駆動発電機は、バウスラスターを使用する港内での操船時、とりわけ入港時の減速しながらの右回頭時には、右舷の可変ピッチプロペラに後進をかけるため、左舷主軸よりも右舷主軸への負荷の方が大きいことは本船起工以前に明確になっていたが[21]、前6隻同様負荷の大きい右舷主軸に設置された[22]。
第二甲板の変化
[編集]車両甲板下の船員居住区である船首第二甲板の第1船室では、前6隻では船体中央部の通路を隔て、左舷に高級船員食堂、右舷に普通船員食堂が配置されていたが、本船では高級船員食堂が右舷の普通船員食堂の船首側へ移り、この配置換えで2人用個室1室の増設が行われた。船尾の「その他の乗船者室」でも配置替えが行われた[16]。
第二甲板の水密隔壁を通り抜ける水密辷戸の大きさが8ヵ所全てで、通行容易な、高さ150cm幅75cmに拡大された[23]。
可変ピッチプロペラ翼角遠隔操縦システムの改良
[編集]扱いやすくなった翼角操縦レバー
[編集]津軽丸型前6隻では、両舷の推進用可変ピッチプロペラ(Controllable Pitch Propeller CPP)とバウスラスター(Bow Thruster BT)の可変ピッチプロペラの翼角を操舵室から遠隔操縦する翼角操縦レバーが、操舵室中央の操舵スタンドの左に連なるプロペラ制御盤上と、船長が離着岸操船時、操舵室左舷端に立って岸壁を目視しながら直接操作できる補助スタンドの2ヵ所に設置され、そのいずれからでも操作できるよう、プロペラ制御盤上の主操縦レバーと補助スタンドの補助操縦レバーは操舵室床下経由で機械的に連結されていた。このため、どちらか一方を操作すると他方も同じように動き、その結果、主操縦レバーに接続されたシンクロ制御変圧機(CT)が操作されて翼角指令の電気信号が出される仕組みであった[24][25][26]。しかしこの機械的連結が原因で、レバー操作が非常に重くなり[27][28]、第4船の大雪丸(2代)からはプロペラ制御盤上の推進用可変ピッチプロペラ翼角操縦レバーに微動調整用グリップを付加するなどの改良が加えられたが、操作の重さに変わりはなかった[29]。
このため本船では主・補助両レバー間の機械的連結をやめ、補助操縦レバーにもシンクロ制御変圧機(CT)を追加し、その結果主・補助両レバー両方が別個にシンクロ制御変圧機(CT)を持つことになり[30]、軽く動かせる操縦レバーが実現できた。またレバー先端に拇指をかけ、グリップ部分を引き上げるとロックが解除されるが、この操作をした方のレバーの指令が優先されるシステムとしたため、特に切換えスイッチを設置することなく使用でき、このグリップ部分を回すことで微動調整も可能で[31][32]、扱いやすいものとなった[28]。なおプロペラ制御盤上のバウスラスター主操縦レバーに限り、手のひらで押すとロックが解除されるレバー付きのグリップハンドルに変更された[33]。また、前6隻では補助スタンドに推進用可変ピッチプロペラ、バウスラスターとも実際翼角計の装備がなかったが、本船では装備された。
推進用可変ピッチプロペラ遠隔操縦システムの完全二重化
[編集]津軽丸型前6隻の推進用可変ピッチプロペラ遠隔操縦システムは、全電気式シンクロ系サーボ機構で[34]、操舵室の翼角操縦レバーに接続されたシンクロ制御変圧機(CT)と、第3補機室に設置された交流サーボモーターと、これで駆動されるシンクロ制御発信機(CX)が、シンクロ系サーボ機構でつながっており、翼角操縦レバーが操作されると、シンクロ制御変圧機(CT)の回転子[35]に偏差電圧が生じ、これを増幅してサーボモーターを回転させ、それをボールスクリューで往復運動に変換し、可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーを機械的に動かして可変ピッチプロペラ系の油圧回路を制御した。同時にシンクロ制御発信機(CX)の回転子も回すため、やがてシンクロ制御変圧機(CT)の偏差電圧はゼロになり、サーボモーターも停止する仕組みで、シンクロ制御変圧機(CT)の回転子角度が指令翼角、シンクロ制御発信機(CX)の回転子角度が実際翼角を示す関係であった。しかしこのサーボモーターは片舷に1台しかなく、これが故障すると常用の2系統だけでなく、非常用の2系統も含め、4系統全てが使えなくなる構造であった[36]。このため本船では電気制御油圧駆動方式シンクロ系サーボ機構に変更され、操舵室の翼角操縦レバーに接続されたシンクロ制御変圧機(CT)からの偏差電圧は、第3補機室の、常用2系統の各系統ごとに1台ずつ設置されたサーボバルブに、増幅することなく送られ油圧に変換され、この油圧が各系統1台ずつの油圧シリンダーを動かして可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーとシンクロ制御発信機(CX)を動かす方式に変更された[37]。油圧シリンダーは片舷2系統各1台ずつ計2台で、ともに可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーに常時直結であったが、2系統のいずれかを選択するため、稼働するのはどちらか1台で、他方は無負荷で引きずられる形であった[38]。これにより推進用可変ピッチプロペラ遠隔操縦システムは完全二重装備となり、このシステムは以後建造される渡島丸型に継承された。
主機械等の防振支持
[編集]津軽丸型の計画段階から第6船羊蹄丸(2代)の建造までの時期、あまり前例のない主機械8台のマルチプルエンジン採用と、その自動制御システム実現のため、主機械の防振支持にまで手が回らなかった。これら6隻では、船体のひずみ等による軸心の狂いを逃すため、各主機械と流体減速装置の間の軸系にゴムブッシュをはさんだたわみ継手を使用していたが、就航してみると、軸心狂いを逃しきれず、毎分750回転のMAN型エンジンでは主機械据付けボルト破断に、毎分560回転のB&W型エンジンでは継手ゴムブッシュ損傷に悩まされた。そこで本船建造に先立つ1966年(昭和41年)1月、MAN型エンジンの八甲田丸左舷第2主機械出力軸に、故意に軸心を狂わせたうえで高弾性ゴム継手を試験的に挿入したが、それ以降当該主機械の据付けボルト破断はなく良好な成績が得られた[39][40][41][42][43]。主機械を防振支持すると、船体に固定された流体減速装置と、固定されていない主機械との間に変位が生じ、これによる軸心狂いを吸収できる継手が必要であった。この八甲田丸による試験で、この高弾性ゴム継手が十分有用なことが実証されたため、本船では全主機械の出力軸へ高弾性ゴム継手を挿入し、全主機械の下にゴム製防振パットを敷いて防振支持が行われたほか、主発電機、係船機械の油圧を造る動力機械でもゴム製防振パットによる防振支持が行われた[44]。前6隻もディーゼル船としては静かであったが、本船は一層静かな船となった[45]。
操舵室の変更
[編集]津軽丸型前6隻では操舵室左舷寄りの前面窓下に揚錨機の遠隔操縦スタンドが設置されていたが、錨鎖をロックする制鎖器の着脱操作が現場でしかできなかったこともあり、他の係船ウインチ同様、船首の一段高くなった船首指揮台の操縦スタンドから操縦できれば十分ということで廃止された。
また、本船起工前年の1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正から、当初建造計画の津軽丸型6隻が出そろい、うち5隻による3時間50分運航が12往復に増え、また堪航性の向上で従来より荒天でも運航できるようになったこともあり、この冬の船体着氷、特に操舵室窓への着氷が問題となった[46]。前6隻では操舵室内の暖房のため前面窓下の2ヵ所に蒸気放熱器が設置されていたが、この直上の窓への着氷は少なく、内面の結露も少なかったため、本船ではこの放熱器を操舵室両翼部分の窓二つずつ分を除く前面窓下に広げるとともに、操舵室前面窓下外側の手摺部分に温水管を設置し、各窓の下方からノズルで温水をガラス外面に斜めに噴射して着氷を融かず装置を装備した。この温水ノズル方式は極めて有効で[47]、その後直ちに他船にも装備されたが、放熱器増設は後年行われた。
係船機械の適正化
[編集]津軽丸型前6隻では、船尾左舷ウインチは2ドラム型で、そのうち船尾を可動橋に引き寄せる左舷アフターラインとそのブレーキとなる船尾スプリングラインが同時作業となるため、両ドラムを同時に油圧モーターで動かせない、という問題が浮上した。このため、本船では、左舷ウインチを左舷アフターライン専用の1ドラム型にし、船尾スプリングライン作業と作業時間の重ならない右舷アフターライン作業を船尾右舷ウインチにまとめ、これを2ドラム型とし、船尾スプリングラインを船尾船楼甲板上を左舷からローラーを介して右舷ウインチまで導き巻き込む形とした。これにより、船尾スプリングラインは従来の摩擦ブレーキから、きめ細かな運転のできる油圧回生ブレーキをかけながらの、左舷アフターライン巻き込み作業が可能となり、この形が以後の標準となった[48]。
停泊中も係船索を一定の張力で引っ張り続ける“自動係船運転”と称するオートテンション機能は、前6隻のうち津軽丸(2代)を除く5隻で、船首ブレストラインを巻き込む補助ウインチ(右舷)と船首スプリングラインを巻き込むスプリングウインチ、左舷アフターラインを巻き込む船尾左舷ウインチの左舷アフターライン用ドラム、右舷アフターラインを巻き込む船尾右舷ウインチの4台が“自動係船運転”可能であったが、1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以降の青函連絡船では、船体幅を拡大したため、岸壁係留位置では、船体中心線が可動橋中心線に対し14.8‰の角度で岸壁とは反対方向に振れており、左舷側で岸壁に接舷しているのは全長132mのうち、船尾側から約40%の52m付近までで、それより船首側は岸壁と隙間をあけて係留していた。このため、船首部をブレストラインで岸壁に引き寄せ過ぎると、船尾の可動橋との接続部分に無理がかかることが判明し、本船からはブレストラインを巻き込む補助ウインチの“自動係船運転”は省略され、船首スプリングウインチ、船尾左舷ウインチ、船尾右舷ウインチの右舷アフターライン用ドラムの3台となった[49]。
実現しなかった寝台車航送-周遊船で活用された準備工事
[編集]本船を含む摩周丸(2代)以降建造の3隻では、洞爺丸事件以前の一時期行われていた寝台車航送の復活を目指し、その準備工事として、車両甲板の船2番線と船3番線の間の前部機関室囲壁の船尾側に短いプラットホームと、そこから船楼甲板の2等出入口広間につながる旅客用階段を設置していたが、旅客を寝かせたまま寝台車航送をしたいという 国鉄に対し、運輸省は安全上旅客は船室へ移動させるべき、としてその許可を与えず、結局寝台車航送は実現できなかった[50]。しかし、この階段を使用することで、喫水線上約2mと低く、岸壁との間に容易にタラップを架けることのできる車両甲板中央部の舷門からの旅客の乗下船が可能となり、専用設備のない港でも旅客扱いができたため、これら3隻は、青函航路外への周遊船や、鉄道不通時の代行旅客輸送船としても使用され、特に本船は後述のフィンスタビライザーを装備したこともあり、はるか千島列島北ウルップ水道越えの北海道一周航海や東京への周遊航海を行っている。
フィンスタビライザーの装備
[編集]本船は1981年(昭和56年)6月、横揺れを80%減少できるフィンスタビライザーを青函連絡船として初めて装備した[51][52][53]。もともと船底両舷の湾曲部に、船の長さの半分程度にわたり鋼製の揺れ止めのヒレであるビルジキールが装着されていたが、これの中ほどの一部を撤去し、飛行機の主翼状で補助翼も付いた翼長3.66m翼幅1.83mのフィンが下反角を付けて左右に船体から突出させる形で取り付けられた。第1補機室中段に設置されたメインコントロールユニットのジャイロセンサーと線形加速度計が横揺れを素早く検知し、フィンの迎角を横揺れを抑える方向に揚力が発生するよう電動油圧で制御した[54]。本体設置場所は総括制御室直下を含む第1主機室船首側両舷で、舷側タンクの第4ボイドスペースとその船首側に隣接する第1ヒーリングタンクの船尾側約1/3を一体化してスタビライザー室とし、残った第1ヒーリングタンクとその船首側に隣接する第3ボイドスペースを連結してヒーリングタンク容量を維持した。このスタビライザー室には油圧装置を含む機械本体を設置したが、一部収まりきらないため、総括制御室直下部分のみ縦水密隔壁を若干内側へ移動させた。なお、スタビライザー室と第1主機室の間は水密隔壁で隔離されているため、この部分の船体二重構造は維持されていた[55][16]。
操舵室ではプロペラ制御盤左側に隣接して、発停用スイッチやフィン迎角とその揚力の表示装置のあるフィンスタビライザー制御盤が設置された。スタビライザーの消費電力は90kWで、これを使用するのは沖合の高速航行時のため、電源には主軸駆動発電機が充てられた[56]。なお、スタビライザーを使用していない時は、フィンは仰角ゼロで後方へ90度回転して船体に埋め込まれたフィン格納用スリットへ格納され、船体抵抗増加と着岸時の障害を回避できる構造であった。
青函連絡船終航と暫定復活運航
[編集]1988年(昭和63年)3月13日の青函連絡船終航の日は、函館第1岸壁15時00分発、青森第2岸壁18時55分着の20便で本来の青函連絡船としての終航を迎え、折り返し青森第2岸壁19時50分発、函館港内23時45分着の回航5001便(9便のスジ)で函館に戻り、以後沖錨泊、3月15日12時50分、函館第1岸壁に着岸係船された[57][58]。
同年6月3日から9月18日までの108日間、青函博覧会と世界食の祭典に協賛し、羊蹄丸(2代)と共に1日2往復の暫定復活運航が行われた。本船は青森を基点に、青森第2岸壁9時30分発、函館第1岸壁13時20分着の1便、函館第1岸壁14時15分発、青森第2岸壁18時05分着の4便の1日1往復の運航で、旅客定員は1,140名、車両航送や自動車航送は行われなかった。7月9日から9月18日までの72日間、停泊中の19時30分から翌朝8時まで海上ホテルとしても営業し、宿泊料金は一般用2,500円、寝台室は部屋単位の発売で4人用個室16,000円であった[59][60]。暫定運航終了翌日の9月19日、青森第2岸壁 12時00分発、函館第1岸壁16時00分着の5011便として回航され[61]、これが津軽海峡を自力で渡る最後の青函連絡船となった(航路自体も同日付で廃止)。青函博覧会青森会場で公開されていた八甲田丸と幾度も汽笛の交換をしながら津軽海峡へ出て行った。
ジャパニーズドリーム
[編集]ジャパニーズドリーム | |
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基本情報 | |
船種 | クルーズ客船 |
船籍 | 日本 |
所有者 | 日本旅客船 [62] |
母港 | 神戸[62] |
建造費 | 約50億円[62] |
航行区域 | 近海(非国際)[62] |
信号符字 | JMUK |
経歴 | |
起工 | 1989年(平成1年)1月17日 [62] |
竣工 | 1990年(平成2年)2月28日 [62] |
就航 | 1990年 (平成2年)3月24日 [62] |
終航 | 1992年 (平成4年)1月6日 |
最後 | 2008年 (平成20年)解体 |
その後 | 1995年(平成7年)フィリピンへ売却[63] |
要目 | |
総トン数 | 9,318トン[64]または[65] |
全長 | 132.00m[64] |
垂線間長 | 123.00m |
型幅 | 17.90m[64] |
型深さ | 7.20m[64] |
喫水 | 5.498m[64] |
主機関 |
単動4サイクルトランクピストン 排気ターボ過給機付ディーゼル機関 川崎MAN V8V 22/30mAL 8台[62] |
出力 | 12,800馬力[64] |
速力 |
18.75ノット (19.14ノット) [66] |
旅客定員 | 548名[66]または543名[65] |
乗組員 | 114名(運航24名 サービス90名)[66] |
暫定復活運航中の1988年(昭和63年)7月、日本旅客船株式会社(JASPA)が約1億8,500万円で購入し[67]、三菱重工横浜製作所で作成された基本設計に基づき、支給品を含む約60億円を費やして[65]佐世保重工業でクルーズ客船への改造工事が行われた。船名はジャパニーズドリームと改名されたが、従来からの信号符字「JMUK」はそのまま引き継がれた。なお、船体の所有はJASPAであったが、運航の実務はマリンエンジニアリング社に委託されていた。
設計
[編集]この改造での変貌は著しく、操舵室から前部消音器室の前までの航海甲板には、全幅にわたる2層の甲板室が造設され、上層のコンパス甲板はラウンジデッキと称し、2等ツイン個室29室のほか、前部には操舵室の屋根越に前方展望可能な展望ラウンジが設置された。下層の航海甲板はトップデッキと称し、2等ツイン個室31室が配置された[66][68]。
その下、遊歩甲板はファーストデッキと称し、舷側まで甲板室を拡張し、船首寄りの特別室14室とその他2-8人室の38室を設け、後部の露天部は両舷に風防を設け、木甲板としオープンカフェやヨーロピアンガーデンとした。船楼甲板はグランドデッキと称し、出入口広間やフロントのほか、特別室2室と個室63室を設け、船尾露天部にはサウナ付きプールが設置された。車両甲板はアベニューデッキと称し、船首側から250名収容のメインダイニング、グルメ街、ブティック、バー、ディスコ等が設置された[66]。
これら旅客施設の拡張による電力需要増大に対応するため主発電機を従来の700kVA 3台から5台に、非常用発電機も70kVAから150 kVAに増強された[66]。
船内
[編集]- 客室[66]
- 貴賓室「インペリアルルーム」(2名×1室)
- 特一等室「ロイヤルルーム」(2名×15室)
- 一等室「ファーストルーム」(2名×20室)
- 特二等室
- スイートルーム(3名×25室)
- ファミリールーム(4名×35室)
- 二等室
- キャビンA(2名×60室)
- キャビンB(6名×8室)
- キャビンC(8名×12室)
等級 | 名称 | 最大定員 | 設備 |
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特1等 | ロイヤルルーム | 2名 | バスタブ付バスルーム、ツインベッド、 ミニバー付き冷蔵庫、テレビ |
1等 | ファーストルーム | 2名 | バスタブ付バスルームまたはシャワールーム、 ツインベッド、ミニバー付き冷蔵庫、テレビ |
2等A | スイートルーム | 3名 | シングルベッド、プルマンベッド、ソファーベッド、 テレビ、シャワー・トイレ |
2等B | ファミリールーム | 4名 | ツインベッド、プルマンベッド2基、テレビ、 シャワー・トイレ |
2等 | キャビンA | 2名 | シングルベッド、プルマンベッド、テレビ、 シャワー・トイレ |
キャビンB | 6名 | シングルベッド3基、プルマンベッド3基、 テレビ、シャワー・トイレ | |
キャビンC | 8名 | シングルベッド4基、プルマンベッド4基、 テレビ、シャワー・トイレ |
- 設備
- ラウンジデッキ(5階)
- ロイヤルラウンジ(30席)[66]
- ロイヤルオフィス
- ファーストデッキ(3階)
- 土産品店「JDプラザ」
- イベント広場
- ヨーロピアンガーデン(20 - 50席)
- オープンカフェ
- 電話ボックス
- グランドデッキ(2階)
- メディカルセンター
- ベビーシッタールーム
- パーサーズオフィス
- ジャグジープール・サウナ「アクアルーム」(10名)[66]
- アベニューデッキ(1階)
運航
[編集]日本では、1988年から1991年にかけて飛鳥やふじ丸、おりえんと びいなす、にっぽん丸といったクルーズ客船の竣工が相次ぎ、ジャパニーズドリームが運航開始する前年4月には「おせあにっくぐれいす」(現クリッパーオデッセイ)という小型のクルーズ客船が就航し、豪華客船の旅が緒につこうとしてるかに見えた。ジャパニーズドリームも横浜 - 神戸間の一泊二日の定期クルーズが売りで、横浜と神戸という日本有数の港を結ぶ定期航路というのも魅力的ではあったが、新幹線を使えば約3時間で行ける所に20時間もかけて豪華にのんびりと船旅を楽しもうとする旅客は、当時まだ多くはなかった。
本船は1990年(平成2年)3月から定期クルーズに就航し、定期運航の合間を縫ってチャータークルーズや日本一周クルーズ、かつての母港である函館港への里帰りクルーズも行った[69]。しかし、9,000総トン程度の船体に548名の定員は過大で、エントランスロビーの狭小さ等が指摘されるなど[69]、豪華客船というには中途半端であったこと、連絡船当時の車両甲板を改造したステージやレストランに豪華志向を演出すべく大理石を多く使用したことなどで重量が増大し、燃費が悪化したことにより赤字が増大した。また微増傾向だった乗客数も伸び悩んだことなど様々な要因が重なり、わずか2年足らずの1992年(平成4年)1月のチャータークルーズをもって運航終了となり[65]、佐世保重工業に係留された[70]。
その後
[編集]佐世保重工業にドッグ入りした後は、佐世保港に係留されて、5名のスタッフによって船内清掃やエンジンなどの維持管理を行う状態が続いた[71]。1995年(平成7年)5月アメリカのリゾート開発会社に購入され、フィリピンに向けて自力航行で旅立っていった。フィリピンに到着後は船名も「フィリピンドリーム(Fhilippine Dream)」と改名され、セブ島に付属するマクタン島に係留の上、カジノ・ホテルシップとして数年間使用されていた[72][73]。
その後は税金の滞納等で当局に差し押さえられ営業も休止し、マクタン島沖合で放置状態となっていたようだが、2008年(平成20年)8月頃に、バングラデシュのチッタゴンにある船舶解体場へ移送され、解体された。
沿革
[編集]- 1966年(昭和41年)
- 1970年(昭和45年)2月25日 - 船舶積量測度法改正規則(1967.8.1.)による改測登録で5,397.59 トンに減トン[77]
- 1973年(昭和48年)12月28日 - 旅客定員 通年1,330名[78]
- 1975年(昭和50年)8月27日 - 台風6号による8月24日からの函館本線桂川 - 野田生間不通のため、函館 - 室蘭間に摩周丸(2代)と十和田丸(2代)の2隻により8月31日までの5日間、旅客代行輸送を毎日2往復運航[79][80]。十和田丸 函館第1岸壁5時30分発、室蘭11時00分着8001便 室蘭12時30分発、函館第1岸壁18時着8006便 摩周丸 函館第1岸壁11時40分発、室蘭17時10分着8005便 室蘭18時30分発、函館第1岸壁24時00分着8002便[81]
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)
- 1981年(昭和56年)
- 1月 - 後部普通船室左舷椅子席と右舷雑居席の間の壁を撤去し、両舷通しの大部屋雑居席とし、映写用スクリーンと放送設備を設置[86]。
- 6月 - 函館ドックにてフィンスタビライザーを装備[87]
- 1986年(昭和61年)
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年)
- 3月13日 - 函館第1岸壁15時00分発、青森第2岸壁18時55分着の20便にて本来の青函連絡船として終航。同岸壁19時50分発、函館港内23時45分着の回航5001便、以後沖錨泊、3月15日12時50分、函館第1岸壁に着岸係船[57][58]
- 5月27日 - 8時58分離岸試運転 13時15分港内錨泊[95]
- 5月31日 - 10時20分函館第1岸壁着岸[96]
- 6月2日 - 函館第1岸壁10時00分 青森第2岸壁14時00分着の5010便で青森へ回航[97]
- 9月18日 - 函館第1岸壁14時15分発、青森第2岸壁18時05分着の4便にて暫定復活運航終航[98]。
- 9月19日 - 青森第2岸壁 12時00分発、函館第1岸壁16時00分着の5011便で函館へ回航[61]。
- 9月 - 函館出港[99]
- 1990年(平成2年)3月24日 - ジャパニーズドリームとして再出発。当初の予定としては運航は週2往復、所要時間は片道19時間とするはずであった。
- 1992年(平成4年)1月6日 - ジャパニーズドリーム終航
その他
[編集]- ジャパニーズドリーム号として運航を開始した頃にはテレビでCMが放映されていたが、そのCMには田村正和が出演していた。
- テレビ朝日系で放送されたテレビドラマ「土曜ワイド劇場」の「高橋英樹の船長シリーズ」中、第1話で青函連絡船十和田丸、第4話でジャパニーズドリーム号として登場した。
- 荒巻義雄の架空戦記「十和田要塞1991」では、津軽海峡に浮かぶ「一号海峡要塞」として登場した。
注釈
[編集]- ^ a b c 「安全・快速と連絡船の決定版 十和田丸の引き渡し」『北海道新聞』1966年10月17日朝刊
- ^ 「新造船写真集No.217」『船の科学』19巻11号p14 1966
- ^ 『青函連絡船史』附表p35 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b c d e f 古川達郎『続連絡船ドック』p12 船舶技術協会1971
- ^ 『北海道鉄道百年史(下巻)』p165 日本国有鉄道北海道総局1981
- ^ 船舶積量測度法改正規則(1967.8.1.)による改測登録(1970.2.25.)後の総トン数:古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p162 成山堂書店1988
- ^ a b 『航跡』p329 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ 「青函連絡船要目表」『青函連絡船栄光の航跡』p370-371間 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ 『青函連絡船史』p75 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『青函連絡船史』p241-243 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『青函連絡船史』p207-209 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『青函連絡船史』p78 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p164 船舶技術協会1972
- ^ a b 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p151 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(中巻)』p231 船舶技術協会1975
- ^ a b c 大野達也『青函連絡船乗組員たちの証言』巻末十和田丸一般配置図1981 イカロス出版株式会社2017
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p230 成山堂書店1988
- ^ 古川達郎『続連絡船ドック』p296 船舶技術協会1971
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p235 成山堂書店1988
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p39、40 船舶技術協会1972
- ^ 大神隆『青函連絡船物語』p49 交通新聞社2014
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p52 船舶技術協会1972
- ^ 第1船室と第2船室間の第1水密辷戸は前6隻でも高さ150cm幅75cm、発電機室と総括制御室(第1主機室水密区画)間の第3水密辷戸は八甲田丸以降の5隻で高さ150cm幅75cm、第1主機室と第2主機室間の第4水密辷戸は津軽丸(2代)と松前丸(2代)以降の計5隻で高さ150cm幅75cmであったが、それ以外は全て高さ90cm幅60cmの狭いものであった:泉益生『連絡船のメモ(中巻)』p211 船舶技術協会1975
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p56 p70 p118、119 船舶技術協会1972
- ^ CPPではシステムの冗長性確保のため翼角操縦レバーを用いる常用系統は2系統あり、そのため主操縦レバー1本に2台のシンクロ制御変圧機(CT)が接続されていたが、プロペラ制御盤上の操縦方法選択スイッチで、常用第1・第2のいずれか一方を選択するため、同時に2台稼働することはなかった。なお過負荷防止装置が付加された八甲田丸以降の5隻では、差動シンクロ制御変圧機(CDX)の入る過負荷防止装置の回路は1系統だけであったが、この回路は常用第1・第2のいずれの回路にも挿入できたため、操縦方法選択スイッチでは非常用も含め6通りの選択ができた。BTは常用1系統のためシンクロ制御変圧機(CT)も1台であった:泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p76 p153 船舶技術協会1972
- ^ CPPの非常用は2系統、BTの非常用は1系統で、いずれもノンホローアップのため、翼角操縦レバーやシンクロ制御変圧機(CT)を介さない回路が使われた:泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p57 p121 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p73 船舶技術協会1972
- ^ a b 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p156 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p158、159 船舶技術協会1972
- ^ CPPでは主・補助レバーともレバー1本につき常用第1と常用第2の2台のシンクロ制御変圧機(CT)が接続されていたが、プロペラ制御盤上の操縦方法選択スイッチで、常用第1・第2のいずれかを選択するため、主・補助とも選択された同じナンバーのシンクロ制御変圧機(CT)のみ稼働できた。差動シンクロ制御変圧機(CDX)の入る過負荷防止装置は前5隻同様1系統だけであったが、常用第1・第2のいずれの回路にも挿入できたため、操縦方法選択スイッチでは非常用も含め6通りの選択ができた。BTは常用1系統のため、主・補助レバーともシンクロ制御変圧機(CT)は1台ずつであった:泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p70 p122 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p142、143 船舶技術協会1972
- ^ ロック解除により指令権を得たレバーの「操縦場所表示灯」が点灯:泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p156 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p70 p72 船舶技術協会1972
- ^ シンクロ制御発信機(CX)とシンクロ制御変圧機(CT)は基本構造は同一で、ともにスター接続の三相巻線を持つ固定子と、2極の単相巻線の回転子で構成された。CXとCTの両固定子の三相巻線は3本の配線でつながっており、CX回転子巻線は外部からの交流で励磁され、これによりCXの各固定子巻線にはそれぞれ、回転子との相対角度に応じた電圧の交流が誘起され、3本の配線を経由してCT固定子の各巻線にも通電された。これによりCTの回転子の巻線にも交流電圧が誘起されたが、これが偏差電圧で、CX とCTの回転子の相対角度によりこの偏差電圧は変化し、90度ずれたとき0Vとなった。この偏差電圧0Vの「ずれ90度」から、津軽丸型のように翼角操縦レバーでCTの回転子を一定角度回すと、CT回転子巻線の偏差電圧も一定値まで上がり、これを増幅してサーボモーターを回転させ、これでCXの回転子を回すと、やがて「ずれ90度」に戻って偏差電圧は0Vとなり、サーボモーターは停止する。同時にこのサーボモーターで、可変ピッチプロペラ翼角管制装置の制御レバーを動かすことができた。この仕組みでCT→CXの遠隔操作ができたほか、サーボモーターでCT回転子を回せば、CX→CTの遠隔操作もできた。:前畑幸弥 奥田成幸「航海用自動制御装置」p35-38 海文堂出版2004
- ^ 十和田丸の翼角操縦レバーの最大操作角は39.5度(レバーの操作角でCPPの翼角ではない)で、連動するCTは歯車比4.375で増速されたため、CT回転子は172.8度回転した。:泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p153 船舶技術協会1972
- ^ このほかに第1・第2系統でヒューズ共用個所もあった:泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p121 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p124-127 船舶技術協会1972
- ^ モーターの回転運動をボールスクリューで往復運動に変換していた従来の方式では、無負荷引きずられは困難であった:泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p121、122 船舶技術協会1972
- ^ 岸本雅雄「船舶 連絡船 推進軸系に高弾性ゴム継手を試用」『交通技術』21巻10号p50 1966
- ^ 柴田浩「国鉄連絡船のギヤード・ディーゼル・プラントと運航実績について」『日本舶用機関学会誌』3巻7号p129 1968
- ^ 日本国有鉄道船舶局 向阪昭二「国鉄新造貨物船渡島丸について」『船の科学』22巻12号p60 1969
- ^ 柴田浩 曽禰正夫「青函連絡船主機の防振支持」『日本舶用機関学会誌』9巻8号p76 1974
- ^ 『航跡』p106、107 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ 古川達郎『続連絡船のドック』p114、115 船舶技術協会1971
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p165 成山堂書店1988
- ^ 古川達郎『続連絡船のドック』p264、265 船舶技術協会1971
- ^ 古川達郎『続連絡船のドック』p266-268 船舶技術協会1971
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(下巻)』p80 船舶技術協会1977
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(下巻)』p151 船舶技術協会1977
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船細見』p148、149 JTBパブリッシング2008
- ^ 船務部船体課補佐 大野馨「十和田丸スタビライザーについて」『海技』No.2 p16-20 国鉄青函船舶鉄道管理局1981
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p211 成山堂書店1988
- ^ スペリー・3R型:大神隆『青函連絡船物語』p54、55 交通新聞社2014
- ^ 船務部船体課補佐 大野馨「十和田丸スタビライザーについて」『海技』No.2 p17、18 国鉄青函船舶鉄道管理局1981
- ^ 船務部船体課補佐 大野馨「十和田丸スタビライザーについて」『海技』No.2 p19 国鉄青函船舶鉄道管理局1981
- ^ 通常高速航行時は主発電機1台運転のため、スタビライザー消費電力90kWが加わると、船内総電力需要は500kW以上となり、主発電機1台の出力700kVA(力率80%で560kW)に迫り、電力安定供給のため2台運転の必要性が出てくる。一方主軸駆動発電機出力は900kVAで高速航行時は通常は無負荷、主発電機故障による主要推進補機へのバックアップ給電時でも150kWで十分余裕がある。625kWのバウスラスターは出入港時使用のためスタビライザーの使用と重なることはない:船務部船体課補佐 大野馨「十和田丸スタビライザーについて」『海技』No.2 p19 国鉄青函船舶鉄道管理局1981
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- ^ a b 古川達郎『鉄道連絡船のその後』p5 成山堂書店2002
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- ^ 『鉄道ジャーナル』No.266
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- ^ 「ニュース・フラッシュ クルーズ客船「ジャパニーズドリーム」Japanese Dream運航休止」 『世界の艦船』第447集(1992年3月号) 海人社 P.130
- ^ 「誰か買いませんか! 佐世保湾内で売却を待つ「ジャパニーズドリーム」」 『世界の艦船』第468集(1993年8月号) 海人社 P.130
- ^ 「ニュース・フラッシュ フィリピンでホテルシップになった元「ジャパニーズドリーム」」 『世界の艦船』第537集(1998年4月号) 海人社 P.118
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船のその後』p28–29 成山堂書店 2002年
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- ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸『青函連絡船運航ダイヤ』昭和56年1月6日~1月12日 国鉄青函船舶鉄道管理局1980
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- ^ 大神隆『青函連絡船物語』p123 交通新聞社2014
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- ^ 『写真で見る北海道の鉄道(下巻)』p192 北海道新聞社2002