堀雄二
ほり ゆうじ 堀 雄二 | |
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『宗方姉妹』(1950年) | |
本名 | 堀 吉太郎[1] |
生年月日 | 1922年9月26日 |
没年月日 | 1979年6月19日(56歳没) |
出生地 | 東京市浅草区馬道町(現在の東京都台東区)[1] |
死没地 | 東京都新宿区河田町 |
国籍 | |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 |
活動期間 | 1946年 - 1979年 |
配偶者 | 甲斐はるみ(女優)[2] |
著名な家族 |
松本虎藏(祖父・歌舞伎役者)[3] 堀倉吉(父・興行師[3])[1][4][5][6] 堀之紀(長男・声優)[1][7] 堀秀行(次男・声優)[1][7] 堀光昭(三男・俳優)[1][7] 孫︰堀友美[8][9][10] |
事務所 | ぷろだくしょん榎[11] |
主な作品 | |
『大学の門』(1947年、新東宝) 『忘れられた小等』(1949年、新東宝) |
堀 雄二(ほり ゆうじ、1922年9月26日[1] - 1979年6月19日[12][13][14])は日本の俳優。本名は堀 吉太郎。東京都出身。ぷろだくしょん榎所属[11]。
来歴
[編集]シナリオライター志望であったが、偶々空きっ腹を抱えて東宝撮影所近くを散歩中、募集の看板にあった「昼食付」の文字に誘われて進路変更したという[15]。
本郷中学校を経て、早稲田大学政経学部中退[1]。1946年、第1期東宝ニューフェイスで東宝へ入社[1]。同期に三船敏郎[12]・久我美子・伊豆肇・若山セツ子・堺左千夫らがいる。翌年、新東宝映画『大学の門』で主役デビュー[1]。
1950年、大映へ移籍[16][17]。同年春、仕事で京都府のある旅館に泊まっていた時、のちの妻である甲斐はるみと偶々旅館が一緒であった[16][17]。相手役の関千恵子と甲斐は部屋が一緒で、紹介されたという[17]。甲斐と知り合ってからは京都で2人だけのデートをしていた[17]。堀のほうが先に仕事が終わり、その晩東京都に帰る時、「食事でもしましょう」と、先斗町へ連れて行き、その時から親しくなった[17]。
当時堀には妻子がおり意思表示はしていたものの、甲斐と結婚するまでは先妻からかなりの抵抗を受けていた[16][17]。当時の堀は暗い気持ちで酒を飲んでいたが、甲斐は慰め役になり堀は「女房と別れるから結婚してくれないか」とプロポーズした[16]。堀は「ただ一つだけ条件がある。結婚したら、女優をやめてくれないか。私は一度結婚生活に失敗した男だ。今度こそは、どんなことがあっても成功させたい。素晴らしい家庭を持ちたい」と言っていたという[17]。
1951年4月27日に堀の家で、ごく内輪で結婚式をした[17]。
その頃、妻と共にゴルフが好きであり、次男の秀行も高校時代はゴルフ部に所属するほど一家はゴルフ・フィーバーであった[7]。1969年時点では次男・秀行をゴルフ場に連れて行っていたという[16]。
静岡県御殿場市のゴルフ場に行くためには、朝早くに家を出なければならないため、一家揃って東京都世田谷区成城から静岡県御殿場市に転居した[7]。
1978年9月に、胃癌の手術を受け、胃の三分の二を切り取った[13]。この時、家族は一致団結して癌であることを隠しており、堀自身は最後まで自分の病気を胃潰瘍と信じていたという[12][13]。
1979年6月18日、トイレに行くために病室のベッドから降りようとして、起き上がった直後に倒れる[13]。意識不明のまま24時間昏睡したあと、意識が回復しないまま、同年6月19日午前9時46分に胃癌の為、東京女子医科大学病院で死去[12][13][14][18]。葬儀は本覚寺で行われた[12]。戒名は偉雄院光芸日隆居士[14]。
人物
[編集]妻、息子全員が役者の役者一家[19]。父は、高麗屋の番頭、松本幸四郎 (7代目)の番頭で浅草の公園劇場を経営していた興行師の堀倉吉[1][4][5][3][6][20]で、市川團十郎 (11代目)、松本白鸚 (初代)、尾上松緑 (2代目)、中村雀右衛門 (4代目)の面倒を見ていたなど歌舞伎関係の仕事をしていた[21][22]。父からは、役者になることだけは固く禁じられていたという[15]。堀は「いつか、3人の息子と一緒に芝居をしてみたい」といっていたが、この夢は実現しなかった[12]。
1965年時点では、休みには3人の息子を相手にキャッチボールをするのが楽しみであったという[23]。
甲斐が長男の之紀を妊娠中にインフルエンザにかかり、レントゲンの結果、町の老医師から結核と診断された[16]。その時に老医師は「一刻も早く人工中絶したほうがいい」と忠告した[16]。堀は「どんなことがあっても生みなさい」と言っており、甲斐は困っていたという[16]。堀は自宅に帰っても、苦しそうにしていた甲斐を見るのにしのびなく、好きな酒のハシゴをすることが多くなった[16]。堀がとまり木で浮かない顔をしていたところ、「よう、堀さん!」と肩を叩かれ、振り返ったところ旧知の病院の歯科医師であった[16]。「顔色が悪いじゃないの」と言われた堀は、その理由を歯科医師に話したところ、「じゃあ、うちの病院に来てみないか、専門医を紹介するよ」と言われた[16]。その結果結核は誤診だとわかり、嬉しかったという[16]。あの時渋谷区のバーへ行かなかったら、之紀は誕生しなかったかもしれず、酒好きで良かったかもしれないという[16]。1969年時点で雄二は之紀が生意気なことを言い出すと、之紀にこの話をしつつ「オレがもし酒が嫌いだったら、お前は生まれてないかもしれないんだぞ」と語っており、之紀は「またか」というようにニヤニヤしながら聞いていた[16]。
『七人の刑事』で共演していた天田俊明は、堀のことを実の父のように慕っていたという[13]。
親族
[編集]- 松本虎藏(祖父・歌舞伎役者)[3]
- 堀倉吉(父・興行師[3])[1][4][5][6]
- 甲斐はるみ(妻・宝塚歌劇団女優)[2]
- 堀之紀(長男・声優)[1][7]
- 堀秀行(次男・声優)[1][7]
- 堀光昭(三男・俳優)[1][7]
- 堀友美(孫、次男秀行の娘・女優)[8][9][10]
主な出演
[編集]映画
[編集]- 大学の門(1948年) - 海野駿介
- 三百六十五夜(1948年) - 津川厚
- 忘れられた子等(1949年) - 谷村清吉 ※キネマ旬報ベストテン第5位
- 果てしなき情熱(1949年) - 三木竜太郎
- 宗方姉妹(1950年) - 前島五郎七※キネマ旬報ベストテン第7位
- 銀座化粧(1951年) - 石川京助
- お遊さま(1951年) - 慎之助
- 源氏物語 Le Roman de Genji(1951年) - ※第5回カンヌ国際映画祭撮影賞受賞作品、キネマ旬報ベストテン第7位
- あの手この手(1952年) - 天平君
- 阿波狸屋敷(1952年) - 阿波の善長
- あにいもうと(1953年) - ※キネマ旬報ベストテン第5位
- 決闘五分前(1953年) - 小谷修
- 人生劇場 望郷篇 三州吉良港(1954年) - 谷口喜平
- 終電車の死美人(1955年) - 長谷川部長刑事
- 南国太平記(1954年)
- 東京摩天街(1955年) - 沢田龍男
- にっぽんGメン 特別武装班出動(1956年) - 生沢刑事
- 警視庁物語シリーズ(1956~1964年) - 長田部長刑事
- 点と線(1958年) - 捜査第二課長
- 忍法破り 必殺(1964年、松竹)
- 男の掟(1968年、日活)- 長男・宗方玄一
- 高校生ブルース(1970年) - 佐伯
- 姿三四郎(1970年) - 村井半助
テレビドラマ
[編集]- 松本清張シリーズ・黒い断層 「地方紙を買う女」(1960年10月24日・31日) - 杉本隆治
- 大河ドラマ
- 大江戸捜査網(松平定信)
- 検事
- 講談ドラマ 相馬大作(相馬大作)
- 侍
- 七人の刑事(赤木係長)
- あゝ忠臣蔵(1969年) - 荷田春満
- おんなの劇場・「吉野太夫」(1970年) - 板倉重宗
- 大岡越前
- 大忠臣蔵(1971年) - 内田三郎右衛門
- 波の塔(1973年)
- 赤ひげ 第46話「駆込み訴え」(1973年9月7日)
- 江戸を斬る 梓右近隠密帳 第7話「二人葵小僧」(1973年11月5日) - 阿部対馬守
- 水戸黄門
- NHK朝の連続テレビ小説・火の国に(1976年 - 1977年) - 桜木壮吉
- 江戸を斬るIII 第5話「人情遠山裁き」(1977年2月14日) - 伊勢屋伊左衛門
- 明治の群像 海に火輪を「鹿鳴館〜条約改正〜」(速見雅恒)
- 前略おふくろ様
- 必殺からくり人・富嶽百景殺し旅第3話「駿州片倉茶園ノ不二」(1978年9月8日) - 土井玄蕃
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本映画人名事典』 男優篇 下巻、キネマ旬報社、1996年、603-604頁。ISBN 978-4873761893。
- ^ a b 「奥さまはタカラジャンヌ」『主婦と友』1971年5月号、主婦と生活社、1971年5月、105頁。
- ^ a b c d e 三島霜川「松本虎蔵」『役者芸風記』中央公論社、1935年、117-118頁。
「役者芸風記」『日本人物誌選集』 第5巻、紀田順一郎監修・解説(復刻版)、クレス出版、2007年9月1日、117-118頁。ISBN 978-4-87733-380-5。 - ^ a b c 『我ら大正っ子 第2集』徳間書店、1961年、25-26頁。
- ^ a b c 『静岡市産業百年物語』静岡商工会議所、1968年、629頁。
- ^ a b c マキノ雅弘「第三章 父と子」『映画渡世 天の巻 - マキノ雅弘自伝』平凡社、1977年6月20日、109頁。
マキノ雅弘「第三章 父と子」『映画渡世 天の巻 - マキノ雅弘自伝』(新装版)平凡社、2002年9月1日、109頁。ISBN 978-4-582-28201-6。 - ^ a b c d e f g h 「シリーズ家族 第4回 いま語る 故・堀雄二の遺児たち」『週刊平凡』1979年11月1日号、平凡出版、1979年11月、132-137頁。
- ^ a b “堀 友美”. Gガイド. 2024年7月16日閲覧。
- ^ a b 堀友美 (2016年11月30日). “堀友美★大事な出演者”. 猫舌TOMOり言。. サイバーエージェント . 2024年7月16日閲覧。
- ^ a b torushomeの2018年6月18日のツイート、2024年7月16日閲覧。
- ^ a b 『日本タレント名鑑(1977年版)』VIPタイムズ社、1977年、153頁。
- ^ a b c d e f 「名刑事役者・堀雄二さんがガンで急逝」『週刊平凡』1979年7月5日号、平凡出版、1979年7月、41-44頁。
- ^ a b c d e f 「『七人の刑事』堀雄二の若過ぎた死」『週刊女性』1979年7月10日号、主婦と生活社、1979年7月、176-177頁。
- ^ a b c 「「親子4人で共演」の約束もむなしく 俳優・堀雄二がガンで死去!」『女性自身』1979年7月12日号、光文社、1979年7月、217頁。
- ^ a b 「墓碑銘」『週刊新潮』1979年7月5日号、新潮社、1979年7月、141頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「七刑とおさらばの堀雄二夫妻」『週刊平凡』1969年4月10日号、平凡出版、1969年4月、68-71頁。
- ^ a b c d e f g h 「お茶の間インタビュー 京都は先斗町、東京はハチ公前でデート」『週刊平凡』1965年7月22日号、平凡出版、1965年7月、90-92頁。
- ^ 俳優の堀雄二さん死亡。読売新聞1979年6月19日夕刊11面より
- ^ 『アニメージュ』1987年9月号、徳間書店、1987年9月、194頁。
- ^ 中村雀右衛門 (4代目)「第3章 戦後、混乱期のなかで」『私事――死んだつもりで生きている』岩波書店、2005年1月7日、127頁。ISBN 978-4-00-025755-8。
- ^ 中村雀右衛門 (4代目)「第I章 雀右衛門以前」『女形無限』白水社、1998年3月1日、51頁。ISBN 978-4-560-03559-7。
- ^ 倉田幸雄編「人気声優にがぶりより! 第18回 堀秀行さん」『アニメディア 1988年12月号』学習研究社、1988年12月1日、雑誌01579-12、86頁。
- ^ 「本日非番」『主婦と生活』1965年1月号、主婦と生活社、1965年1月、112頁。