南部辰丙
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南部 辰丙(なんぶ しんぺい、旧字体:南部 辰丙󠄁、1856年5月13日(安政3年4月10日[1]) - 1931年(昭和6年)2月21日[1])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]石川県出身。1875年(明治8年)2月、陸軍士官学校に入学。1877年(明治10年)12月、歩兵少尉に任官し陸士(旧1期)を卒業した。
1896年(明治29年)12月、歩兵第42連隊長に就任し[2]、1897年(明治30年)10月、東部都督部参謀に異動。1898年(明治31年)10月、歩兵第6連隊長となり、1899年(明治32年)同年2月、歩兵大佐に昇進。日露戦争に出征。1904年(明治37年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に移り、奉天会戦などに参戦。1905年(明治38年)6月、陸士校長に転じた。
1911年(明治44年)9月、陸軍中将に進み下関要塞司令官に着任。1912年(明治45年)2月、憲兵司令官に就任し、1915年(大正4年)2月、第2師団長に親補された。1916年(大正5年)8月に待命、1917年(大正6年)4月、予備役に編入となった[3]。1919年(大正8年)4月1日、後備役に編入[4]。
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)3月11日 - 従六位[5]
- 1896年(明治29年)3月24日 - 正六位[6]
- 1899年(明治32年)4月10日 - 従五位[7]
- 1904年(明治37年)5月16日 - 正五位[8]
- 1909年(明治42年)6月21日 - 従四位[9]
- 1914年(大正3年)7月10日 - 正四位[10]
- 勲章等
- 1890年(明治23年)5月30日 - 勲六等瑞宝章[11]
- 1895年(明治28年)
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[14]
- 1901年(明治34年)11月30日 - 勲四等瑞宝章[15]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲三等瑞宝章[16]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[17]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 旭日大綬章、大正三四年従軍記章[18]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[19]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』544頁。
- ^ 『官報』第4052号、明治30年1月4日。『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』50頁では、1895年5月に就任としているが、歩兵42連隊の創設は1896年である。
- ^ 『官報』第1415号、大正6年4月23日。
- ^ 『官報』第2002号、大正8年4月9日。
- ^ 『官報』第2607号「叙任及辞令」1892年3月12日。
- ^ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。
- ^ 『官報』第4729号「叙任及辞令」1899年4月11日。
- ^ 『官報』第6261号「叙任及辞令」1904年5月17日。
- ^ 『官報』第7796号「叙任及辞令」1909年6月22日。
- ^ 『官報』第584号「叙任及辞令」1914年7月11日。
- ^ 『官報』第2076号「叙任及辞令」1890年6月3日。
- ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』号外、「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 人事興信所 1928, ナ169頁.
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録. 第8版(昭和3年)』人事興信所、1928年 。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。