八角三郎
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海軍時代の正装 | |
生誕 |
1880年12月19日 日本・岩手県盛岡市 |
死没 | 1965年1月20日(84歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1903年 - 1931年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 |
衆議院議員 内閣顧問 |
八角 三郎(やすみ さぶろう、1880年(明治13年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将、衆議院議員。
生涯
[編集]岩手県盛岡市出身。栃内曽次郎海軍大将は叔父。八角が海軍兵学校を志願するきっかけは原 敬の激励だったという。
海軍
[編集]岩手県立盛岡尋常中学校より海軍兵学校(29期)へ進んだ。席次は入校時137名中119番。卒業時は125名中75番。第一駆逐隊所属の駆逐艦「吹雪」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。大尉時代に『敵艦進路及び速力の誤測に対する命中限界算法、魚雷動的発射に於ける誤差』と題する論文を発表[1] し、海軍水雷術の発展に貢献している。海軍水雷学校校長、第二水雷戦隊司令官を務めた水雷の権威である。また海軍部内の中国通として知られワシントン会議 (1922年)では、随員候補となった[* 1]。大湊要港部司令官を最後に予備役となった。
政治家
[編集]郷里の岩手県から政友会の推薦を受け衆議院議員に立候補し、投票数6833票を獲得し当選。以来4期13年間務めた。米内光政は中学の同級生で、兵学校も同期の親友[* 2] であったが、太平洋戦争を終結させた鈴木貫太郎内閣では、海軍大臣米内を補佐をする意味合いも兼ね内閣顧問に就任した。鈴木首相や米内海相、東郷外相などが中心になって進めた終戦工作に協力している。なお鈴木内閣の国務大臣左近司政三は海軍大学校甲種学生の同期生であった。
人物
[編集]海軍兵学校の同期生では米内のほか荒城二郎、米村末喜と親しかったといわれる。一方で対英米強硬派の石丸藤太との関係は芳しく無かった。米内に劣らぬ長身であった[3]。
家族
[編集]年譜
[編集]- 1880年(明治13年)12月19日- 岩手県南岩手郡仙北町(現在の盛岡市)生
- 1886年(明治19年)4月1日- 岩手県立盛岡師範学校附属小学校入学
- 1893年(明治26年)3月31日- 岩手県立盛岡師範学校附属小学校卒業
- 4月1日- 岩手県立盛岡尋常中学校入学
- 1898年(明治31年)3月31日- 岩手県立盛岡尋常中学校卒業
- 12月17日- 海軍兵学校入校
- 1901年(明治34年)12月14日- 海軍兵学校卒業 海軍少尉候補生・砲艦「比叡(初代)」乗組・練習艦隊近海航海出発 対馬~釜山~ウラジオストック方面巡航
- 1902年(明治35年)1月26日- 帰着
- 1903年(明治36年)1月23日- 任 海軍少尉・戦艦「富士」乗組
- 1904年(明治37年)7月13日- 任 海軍中尉
- 1905年(明治38年)2月13日- 3等駆逐艦「吹雪(初代)」乗組 兼呉海軍工廠装委員
- 1906年(明治39年)7月12日- 第6水雷艇隊艇長心得
- 1907年(明治40年)4月5日- 3等巡洋艦「明石」水雷長兼分隊長
- 1908年(明治41年)8月6日- 横須賀鎮守府附
- 1909年(明治42年)4月17日- 免分隊長 兼副官
- 12月1日- 免副官 兼練習水雷艇隊艇長
- 1910年(明治43年)4月1日- 免練習水雷艇隊艇長 兼第4水雷艇隊艇長
- 12月1日- 海軍大学校甲種第10期学生
- 1912年(明治45年)5月22日- 海軍大学校卒業 卒業時成績順位10名中第6位
- 1913年(大正2年)10月14日- 海軍省軍令部出仕
- 1914年(大正3年)4月22日- 軍事参議官伊集院五郎海軍大将副官兼軍令部出仕
- 7月1日- 兼 海軍省軍令部参謀
- 12月1日- 免 副官
- 1916年(大正5年)12月1日- 任 海軍中佐
- 1917年(大正6年)12月1日- 軍令部出仕 臨時軍事調査会委員
- 12月15日- 第7戦隊水雷参謀
- 1918年(大正7年)8月10日- 遣支艦隊水雷参謀
- 1920年(大正9年)12月1日- 任 海軍大佐
- 1921年(大正10年)5月30日- 帰朝
- 1922年(大正11年)5月30日- 戦艦「三笠」艦長
- 9月8日- 軍令部第3班第5課長
- 1923年(大正12年)5月15日- 横須賀鎮守府附 欧米各国出張
- 1924年(大正13年)3月3日- 帰朝
- 1925年(大正14年)12月1日- 任 海軍少将・第1水雷戦隊司令官
- 1926年(大正15年)12月1日- 第2水雷戦隊司令官
- 1927年(昭和2年)12月1日- 海軍水雷学校長
- 1929年(昭和4年)9月12日- 横須賀鎮守府附
- 1930年(昭和5年)12月1日- 任 海軍中将
- 1931年(昭和6年)3月1日- 軍令部出仕
- 1932年(昭和7年)2月22日- 衆議院議員(政友会所属)
- 1937年(昭和12年)6月24日- 拓務省政務次官
- 1939年(昭和14年)1月19日- 拓務省政務次官依願免
- 1940年(昭和15年)10月13日- 大政翼賛会中央訓練所所長
- 1942年(昭和17年)6月1日- 免 大政翼賛会中央訓練所所長
- 1945年(昭和20年)4月26日- 鈴木内閣顧問
- 1961年(昭和36年)4月1日- 財団法人岩手県学生援護会理事
- 1965年(昭和40年)1月20日- 死去 享年84
栄典
[編集]- 位階
- 1903年(明治36年)4月10日 - 正八位[6]
- 1904年(明治37年)8月30日 - 従七位[7]
- 1906年(明治39年)11月30日 - 正七位[8]
- 1911年(明治44年)12月20日 - 従六位[9]
- 1916年(大正5年)12月28日 - 正六位[10]
- 1921年(大正10年)1月20日 - 従五位[11]
- 1926年(大正15年)1月15日 - 正五位[12]
- 1930年(昭和5年)12月27日 - 従四位[13]
- 1931年(昭和6年)4月15日 - 正四位[14]
- 勲章等
主要著述物
[編集]- 『思い出ずることども』杜陵印刷(私稿版)、1957年。
- 『忘れ得ぬことゞも』熊谷印刷(印刷)、1959年。
脚注
[編集]- 注釈
- ^ 全権加藤友三郎が、専門家は不要としたことで実現しなかった。
- ^ 緒方竹虎が米内の伝記『一軍人の生涯』を著した際には協力している。米内に首相就任の大命降下が下った際も、米内の自宅に八角の姿があった。
- 出典
- ^ 『海軍水雷史』489頁
- ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、758頁。NDLJP:1276156。)
- ^ 『海軍の昭和史』149頁
- ^ 八角三郎『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 荒川重雄人事興信録 第15版 上、1948
- ^ 『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。
- ^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。
- ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
- ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。
- ^ 『官報』第4066号「叙任及辞令」1926年3月17日。
- ^ 『官報』第1212号「叙任及辞令」1931年1月16日。
- ^ 『官報』第1317号「叙任及辞令」1931年5月23日。
- ^ 『官報』第402号「叙任及辞令」1913年11月29日。
- ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
- ^ 『官報』第2978号「叙任及辞令」1922年7月6日。
参考文献
[編集]- 阿川弘之『米内光政』新潮社) ISBN 4-10-300413-4 C0093
- 小野崎 誠『海軍兵学校出身者名簿』海軍兵学校出身者名簿作成委員会
- 海軍水雷史刊行会『海軍水雷史』
- 杉本健『海軍の昭和史』文藝春秋
- 高木惣吉『高木惣吉日記と情報』みすず書房 ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 高橋文彦『海軍一軍人の生涯』光人社) ISBN 4-7698-0846-1 C0095
- 野村實『山本五十六再考』中公文庫
- 日本近代史料研究会『日本陸海軍の制度・組織・人事』東京大学出版会
- 明治百年史叢書『海軍兵学校沿革』第2巻原書房
- 東京読売新聞縮小版
- 昭和7年2月版
- 昭和20年後半版