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チベット学

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チベット学(チベットがく、英語: Tibetology)は、チベットおよびチベット民族歴史文化を研究する学問である。オリエンタリズムとしての東洋学に属する。蔵学(ぞうがく)、西蔵学(せいぞうがく)とも。

チベット学の創始者 - ハンガリーの東洋言語学者ケーレシ・チョマ・シャーンドル

概要

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1902年、ダージリンでラマの姿をした河口慧海

西洋のチベット学は宣教師伝道から始まる。16世紀末、チベットにキリスト教徒ありと信じ宣教師が伝道に向かったという[1]。宣教師も文献学的方法でチベット文化を解読しようとした。それは資料収集、辞書文法編纂、校訂翻訳、文化解読[2]という手法を用いる文献学[4]聖書学に基づいていた。それが「言語資料にもとづいて一民族ないしその文化の特徴、ならびにその発展を研究の対象とする学問」(原實[3]と一般に解される文献学となる。このように初期においてチベット研究は、その国の文化をよく理解している国に統治権があるというオリエンタリズムの面から推し進められた。オリエンタリズムはナポレオンエジプト遠征の頃から植民地支配に利用された[5]。それは収集保存し、研究展示する[6][7]という博物館の役割が社会統制具[8]として機能したのと同様のことである(ナポレオンもルーヴル美術館をナポレオン博物館と呼び、これを社会統制に利用した[9])。

そのように、植民地主義帝国主義の時代の列強諸国や西洋の人々は、上記の方法を用いてオリエンタリズム的姿勢でチベットの文化解読に臨んだ。地理的に隣接するロシアがチベット研究では抜きん出ていた。中国による1950年からの中央チベット侵攻と1959年に至るチベット動乱以前には、各国の図書館などに収蔵された乏しい資料を対象とする文献研究が主流で、いくつかの辞書や目録を頼りとするものであった。1959年以後、亡命チベット人学者の情報と豊富な文献が入手できるようになり、次第に植民地主義も廃れ統治権のために研究するというオリエンタリズムは政治的に意味をなさなくなり、そこから脱却した研究が行われようになった。特に21世紀へ入ってからの西洋での研究は量的にも内容的にも充実してきている。中国では遅れてきたオリエンタリズムのチベット研究が20世紀末から盛になった。

各論

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チベット学前史としての宣教師のチベット学、植民地主義に推進されたオリエンタリズムとしてのチベット学、オリエンタリズムから脱却したチベット学の三つに区分して述べる。もちろん便宜的なもので、実際には衰退した方法も平行して存続し、複雑に交錯している。

宣教師のチベット学

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アントニオ・デ・アンドラーデ

中国[10]や日本[11]では古くから知られ、西洋[12]でも知られていたが、近代西洋人の間でチベットの存在が意識されたのは、17世紀初頭にポルトガル人宣教師アントニオ・デ・アンドラーデチベットに入ったことが端緒とされる。多くの宣教師が記録を残したが、西洋人のチベット研究で高い評価を受けるのは、1716年にチベットに入ったイタリア人宣教師イッポリト・デジデリ英語版である。彼はチベットのラサに1721年まで滞在し、チベット語・歴史・文化を学び、帰国して『チベットの報告』[13]を書いた[14]

オリエンタリズムとしてのチベット学

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19世紀から、中国がチベットに侵攻する1959年までの時代には、入手困難な文献を対象として分析解釈する、まさにオリエンタリズムとして研究された。それゆえ概説で述べたオリエンタリズムの手法、資料収集と目録化、辞書と文法、校訂と翻訳、文化解読という四項目に分けて述べる。

資料収集と目録化

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ヤコブ・シュミット

チベット学の祖とされるハンガリーの学者ケーレシ・チョマ[15]1820年にチベットに入りチベット語を学び、いくつかのチベット文献を持ち帰った。それらの目録は1942年に出版されて以降、何度か編纂されている[16]。チョマは1836年と1839年にカンギュルの分析を発表した[17]

カンギュル英語版とは「訳された全ての経典」を意味し、テンギュル英語版は「訳された全ての論書」を意味する。経典は仏説を意味し、論書は諸師が解説したものを意味する(経典#チベット語訳経典参照)。前者を釈説部、後者を論疏部などとも呼ぶ。カンギュルとテンギュルを合わせたものをチベット大蔵経とも呼ぶ。それに含まれないチベット人諸師撰述文献を蔵外文献とも呼ぶ。それらの総称としてチベット文献という呼称を用いる。

1835年と1841年にロシアのバルト・ドイツ人パヴェル・リヴォヴィチ・シリング・フォン・カンシュタットはおそらくブリヤート寺院からデルゲ版カンギュルとチベット文献を入手し、それらはロシア科学アカデミー東洋古文書研究所英語版に収蔵された。1847年にオランダヤコブ・シュミット英語版がチベット文献目録[18]を、1854年にカンギュル目録[19]をドイツ語で出版した[20]。1889年、ドイツの外交官マックス・フォン・ブラント雍和宮の写本カンギュルを入手、それはベルリン州立図書館に収蔵され、1914年にヘルマン・ベック英語版がその目録を作成[21]。これは一般にベルリン写本カンギュルと呼ばれる[22]

1900年、寺本婉雅が北京版カンギュル・テンギュル[23]と蔵外仏教文献[24]を入手、それらは大谷大学図書館に収蔵された。1930年から1932年に『西蔵大蔵経甘殊爾勘同目録』が出版され、続いて仏教学者山口益の監修により総目録とツォンカパ全書などを含む『北京版西蔵大蔵経』が1955年から1961年に鈴木学術財団から影印刊行された[25]。それに先立つ1909年からパルミル・コルディエがフランス国立図書館所蔵の北京版テンギュル目録を出版した[26]

1902年、ブリヤートゴンボジャブ・ツィビコフ英語版がラサから、1907年にはブリヤート人バザラ・バラーディンがラブラン・タシキル寺からチベット文献を入手し、それはロシア科学アカデミー東洋古文書研究所に収蔵された[27]。1905年、イギリスの軍人フランシス・ヤングハズバンドがラサで写本カンギュルを入手、それは大英博物館に収蔵され、一般にロンドン写本カンギュルと呼ばれる[28]

1906年にオーレル・スタイン敦煌文書をイギリスに持ち帰る。それらは大英図書館に所蔵されている[29]。そのチベット文献目録は1962年にルイ・ド・ラ・ヴァレ・プサン英語版榎一雄によって作られた[30]。1908年あるいは1909年にアメリカ人ウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒルはデルゲ版カンギュルを入手した。それらは米国議会図書館に所蔵されている[31]。1909年にフランス極東学院ポール・ペリオが敦煌文書をフランスに持ち帰る。それらはフランス国立図書館に所蔵されている[32]。そのチベット文献目録は1939年からマルセル・ラルーによって三分冊で出版された[33]

多田等観

1903年と1915年の二度にわたり河口慧海は日本にデルゲ、ナルタン、チョーネ版カンギュル、写本カンギュル、ナルタン版テンギュルと蔵外仏教文献をもたらした[34]。これらは東洋文庫に収蔵され、東京写本カンギュルなどと呼ばれる[35]。1915年にセルゲイ・オルデンブルクが敦煌文書を持ち帰り、それはロシア科学アカデミー東洋古文書研究所に収蔵された[36]。1916年に青木文教は蔵外仏教文献をもたらした。これらは国立民族学博物館などに収蔵された[37]。1923年、多田等観は日本にデルゲ版カンギュル・テンギュルと蔵外文献をもたらした。それらは東北大学に所蔵され、1934年に多田は羽田野伯猷などとともにデルゲ版カンギュル・テンギュルの目録『西蔵大蔵経総目録』を刊行、1953年に蔵外仏教文献目録を出版した。これらは東北目録として高い評価を得た。

チベットでのトゥッチ

1927年から1948年まで8度チベット・ラダックに入ったイタリア人のジュゼッペ・トゥッチ[38]は選びぬかれた膨大な文献と文革による破壊前の貴重な図像をもたらした。それらはイタリア中東極東研究所イタリア語版 (IsMEO) に収蔵され、1994年と2003年にその目録[39]が出版された。1959年にハンガリー人のヨセフ・コマスはチベットのデルゲでデルゲ版カンギュル・テンギュルと蔵外文献を入手した。それらはプラハの東洋研究所チベット図書館[40]に収蔵され1971年に目録[41]が出版された。

以上がオリエンタリズム時代の主な資料収集である。

辞書と文法

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1834年にチョマは『蔵英辞典』[42]、『チベット語文法』を編纂した。1839年にシュミットがチョマの研究を基に文法[43]、辞書[44]、目録[18]を1848年に出版した。1858年にフランス人フィリップ・エドゥアール・フーコーはフランス語の『チベット語文法』[45]を著した。

ハインリヒ・アウグスト・イェシュケ1871年に『蔵独辞典』[46]1881年に『蔵英辞典』[47]1883年に『チベット語文法』第二版[48]を出版した。サラト・チャンドラ・ダスは1902年に『蔵英辞典』[49]、1915年に文法[50]を出版した。この文法には伝統文法の白眉『シトゥ文法』が付されている。

寺本婉雅は1929年に『西藏語文法』[51]を、池田澄達は1932年に『チベット文法入門』[52]、『初等西蔵語読本』[53]を、 河口慧海は1936年に『西藏文典』[54]を出版した。ジャック・バコー英語版1928年1946年1948年に文法研究の本を、ゲシェー・チュターは1949年に『蔵文辞典』を、稲葉正就は1949年に『チベット語古典文法学』[55]を出版した。

校訂と翻訳

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ユーリ・リョーリフ

初期の一部を挙げるとシュミットは1837年に『金剛般若経』を翻訳し、1843年に『賢愚経』チベット訳とその翻訳を出版した。フーコーは1847年に『ラリタヴィスタラ』(普曜経、方広大荘厳経)のチベット訳、1848年に同経の仏訳[56]を出版し、1868年に仏伝[57]を仏訳した。

ロックヒルは1883年、チベット語訳『ウダーナヴァルガ』を英訳した[58]。1884年にチベット大蔵経から仏伝を英訳した[59]。1891年には『衛蔵図識』などに基づきチベットの地誌を出版した[60]

ワシリエフ英語版はブリヤート僧などに学び仏教史[61]を出版し、それは独仏語[62]に訳された。その弟子であるセルゲイ・オルデンブルクは1897年に『仏教文庫』 (ビブリオティカ・ブッティカ) の刊行を開始した。『仏教文庫』には『中論』『入中論』『入菩提行論』『倶舎論』などチベット仏教の基本論書をはじめチャンキャ・ルルペードルジェ英語版の『三百尊図像集』[63]や『翻訳名義大集英語版』などを含む。以上のロシアでの研究は全てゲルクの情報提供者の影響を強く受けたものだが、これらと異なるのがユーリ・ニコラエヴィチ・リョーリフ英語版(ドイツ語名ゲオルク・レーリヒ)で、チベット絵画から口語、方言研究を経て11巻の蔵露英辞典[64]を編纂した。また奇才ゲンドゥン・チュンペル英語版とともに訳した『青史』[65]は1949年に出版された名訳で、チベット学の基本資料となった[66]

トゥッチはこの分野でも画期的な業績を残した。1932年から出版された『インド・チベティカ』叢書[67]、1949年出版『チベット絵巻』[68]、1956年から出版された『小仏教文献』叢書[69]に代表されるが、それらは中共による破壊以前のチベットの貴重な記録となっている。

文化解読

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フョードル・シチェルバツコイ

文化解読を提示した文献としてエミール・シュラーギントヴァイト英語版の『チベットの仏教』(1863年)[70]ローレンス・ウォッデル英語版の『チベットの仏教』(1895年)[71]アルベルト・グリュンヴェーデルの『チベットとモンゴルの仏教神話』(1900年)[72]チャールズ・アルフレッド・ベル英語版の『チベット 過去と現在』(1924年)[73]、『チベットの人々』(1928年)[74]、『チベットの宗教』(1931年)[75]、多田等観の『チベット』(1942年)[76]、ヘルムート・ホフマンの『チベットの宗教』(1956年)[77]などが書かれた。この時期の研究は黄帽派とも呼ばれるゲルク派説に特徴づけられている。それは宗祖ツォンカパの尊崇と、それに合わせた他者の解釈であり、以下の文章はその特徴を端的に示している。

カーダム派英語版アティーシャ及び黄帽派の開祖ツォンカパは、ともに戒律による高い道徳的立場と大乗顕教の深い哲学とをもって、在来の堕落したチベットの仏教、とくに密教を改革した功労者、改革者として、チベット仏教史上に高く評価され、後者ツォンカパは、前者アティーシャをそのままうけつぎ、これを復興拡大したに外ならず(中略)このような見解は、その典拠をチベットに発している。 — 羽田野伯猷 (1954) 『チベット・インド学集成』第一巻, 1986, 29頁再録(補記された原語及び生没年は省略)

「その典拠」とはゲルク文献や情報提供者の説で、上記『仏教文庫』に含まれるヴォストリコフ[78]『チベット歴史文献』[79]はゲルク説からの文献解題書に他ならず、取り扱いに注意を要する。オルデンブルクの弟子で『仏教文庫』にも多くの著作を書いているフョードル・シチェルバツコイはモンゴルなどでゲルク僧より学び[80]、ルイ・ド・ラ・ヴァレ・プサンなどと論争を展開し、仏教学に大きな影響を与えた[81]

羽田野伯猷はオリエンタリズム期にあって、その偏向を指摘するという優れた分析を発表した[82]。そのアティシャ研究は特に優れている[83]

オリエンタリズムから脱却したチベット学

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ナムカイ・ノルブ・リンポチェ

1950年代の中国によるチベット侵攻とそれに続くチベット動乱によって、1959年以降、多数のチベット人が国外へ亡命し、チベット学は一変した。ロックフェラー財団は亡命チベット人学者を7か国に送りチベット研究を推進させるプロジェクトを起こした[84]。例えばデシュン・リンポチェ英語版はワシントン大学へ、ナムカイ・ノルブ・リンポチェ英語版はローマのイタリア中東極東研究所へ、サムテン・カルメイ英語版はロンドン大学へ、タルツェ・リンポチェとケツンサンポ・リンポチェは東洋文庫に迎えられた。

このデシュン・リンポチェに学んだデイヴィット・ジャクソンやジーン・スミス英語版はチベット学を一変させた。特にジーン・スミスは米国の公法480(PL480)と呼ばれる食糧援助プログラムにより、亡命チベットのテキストを多量に印刷し[85]、それらは米国議会図書館に収集され、世界宗教高等研究所(IASWR)がその収集本をマイクロフィッシュ化して1977年から公開した[86]。これにより多量のチベット文献が比較的容易に閲覧できるようになり、チベット学は飛躍的に推進された。さらに1999年に設立されたチベット仏教資料センター (TBRC)[87]が膨大なチベット文献をネット上で容易に閲覧できるように公開した[88]

ロックフェラー財団のプロジェクトも、公法480も政策としては明らかにバルフォア宣言を受けて米国が「近東諸語によるあらゆる重要な著作」を入手しようとした「文化関係政策」[89]と同様のものである。

1970年から2001年までハンブルク大学でネパールのサンスクリットとチベット語写本をマイクロフィルム化し目録化するプロジェクトが行われた。現在その目録が公開されている[90]。インド北西部スピティ地方のタボ寺英語版で、1990年にウィーン大学とイタリア中東極東研究所によって本格的な調査が行われ、多量の古文書が発見された。これらはタポ寺文書などと呼ばれ、敦煌文書のように古形を保存する文献として注目されている。タポ寺文書を含む西ヒマラヤ写本調査研究がウィーン大学で精力的になされている。これはカンギュル・テンギュルも含むチベット文献の総合研究で、特にカンギュル研究は他の追従を許さない徹底的なものである。最近にデータベースが公開され諸本目録が比較参照できるようになるなど日々進化している[91]

中国の文革によってチベット本土の文献はほとんど消滅したが、一部の文献が北京民族文化宮チベット文献図書館に保存されていた。これらの目録[92]が出版され、ペルツェク・チベット古籍研究室[93]からカダム文献[94]など散逸したと思われていた膨大な文献が精力的に出版されている。

敦煌文書については、1994年に国際敦煌プロジェクト (IDP) が設立され、1998年にデータベースが公開された。これにより敦煌文書もネット上で容易に閲覧できるようになった[95]

脚注

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  1. ^ ドゥ・ヨング『仏教研究の歴史』1975, 13頁
  2. ^ サイード『オリエンタリズム』平凡社ライブラリー, 1993, 282頁; Said, Orientalism, Penguin, 1978/2003, 上巻, 121頁
  3. ^ a b 小口偉一・堀一郎監修『宗教学辞典』東京大学出版会, 1973, 668頁
  4. ^ ここでいう文献学については原實の説明「言語資料にもとづいて一民族ないしその文化の特徴、ならびにその発展を研究の対象とする学問」[3]が端的であるが、アウグスト・ベック『解釈学と批判』の翻訳をはじめとする安酸敏眞の一連の研究がとても参考になる。
  5. ^ サイード『オリエンタリズム』平凡社ライブラリー, 1993, 上巻, 190頁; Said, Orientalism, Penguin, 1978/2003, 80頁
  6. ^ 佐々木 亨、亀井 修、竹内 有理『新訂 博物館経営・情報論』放送大学教育振興会、2009年、202頁頁。 
  7. ^ 『博物館の歴史』, p. 16.
  8. ^ 『博物館の歴史』, p. 18.
  9. ^ 『博物館の歴史』, p. 140.
  10. ^ 『《冊府元亀》吐蕃史料校正』四川民族出版社, 1981. 『藏族史料集』隋唐, 中華書局, 1973.
  11. ^ 『続日本紀』396頁: 天平勝宝6年条
  12. ^ 高田英樹『世界の記』名古屋大学出版会, 2013, 270頁
  13. ^ Filippo De Filippi 英訳: account of tibet, 1931. 英訳重訳: 薬師義美訳『チベットの報告』1992. Luciano Petech 校注イタリア語原本: I missionari italiani nel Tibet e nel Nepal, 1956.
  14. ^ 『東洋文庫第50回展示会目録−チベット関係文献』1963, 1頁; 渡辺海旭『欧米の仏教』1918, 186頁. ドゥ・ヨング『仏教研究の歴史』1975, 12頁. ルノワール『仏教と西洋の出会い』2010, 56頁. シンメルペンニンク『ロシアのオリエンタリズム』2013, 151頁.
  15. ^ Jäschke, A Tibetan-English dictionary, 1881, v頁. Das, A Tibetan-English dictionary, 1902, v頁.
  16. ^ Jules Louis Nagy,Tibetan Books and Manuscripts of Alexander Csoma de Kőrös, 1942; Terjék József, Collection of Tibetan MSS and Xylographs of Alexander Csoma de Kőrös, 1976; Gergely Orosz, A catalogue of the Tibetan manuscripts and block prints in the Library of the Hungarian Academy of Sciences 1, 2008
  17. ^ Csoma de Körös, Alexander, Analysis of the Dulva, a Portion of the Tibetan Work Entitled Kah-gyur, Researches 20, no. 1, 1836; Analysis of the Sher-chin / P’hal ch’hen / Dkon-séks / Do-dé / Nyáng-dás and Gyut; Being the 2nd, 3rd, 4th, 5th, 6th, and 7th Divisions of the Tibetan Work, Entitled the Kah-gyur”. Asiastic Researches 20, no. 2, 1839.
  18. ^ a b Isaak Jakob Schmidt, Verzeichniss der Tibetischen Handschriften und Holzdrucke in Asiatischen Museum der Kaiserlichen Akademie der Wissenschaften, 1848
  19. ^ Isaak Jakob Schmidt, Der index des Kandjur,hrsg. von der Kaiserlichen akademie der wissenschaften, 1854
  20. ^ Alexander ZORIN, Manuscript Collection — Tibetan part, 2008
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  22. ^ ウィーン大学カンギュル・テンギュル研究資料
  23. ^ Peking Tripitaka Online Search
  24. ^ Otani Zogai (Non-Canonical Tibetan Texts) Collection
  25. ^ 大谷大学西蔵文献研究班
  26. ^ Palmyr Cordier, Catalogue du fonds tibétain de la Bibliothèque nationale, Ptie. 4, 1915
  27. ^ Alexander ZORIN, Manuscript Collection — Tibetan part, 2008
  28. ^ ウィーン大学カンギュル・テンギュル研究資料
  29. ^ 国際敦煌プロジェクト
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  31. ^ TBRC
  32. ^ 国際敦煌プロジェクト
  33. ^ Lalou, Marcelle, Inventaire des manuscrits tibétains de Touen-houang conservés à la Bibliothèque Nationale, 1939
  34. ^ 河口将来蔵外文献解説
  35. ^ ウィーン大学カンギュル・テンギュル研究資料
  36. ^ Alexander ZORIN, Manuscript Collection — Tibetan part, 2008; 国際敦煌プロジェクト
  37. ^ 国立民族学博物館研究報告別冊 no.001; 図版目次」『国立民族学博物館蔵 青木文教師将来チベット民族資料目録』1983年3月、hdl:10502/00009778 
  38. ^ トゥッチ『チベット仏教探検誌』平河出版社, 1992, 344頁
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  58. ^ Udânavarga: A Collection of Verses from the Buddhist Canon. London: Trübner & Co. (1883). https://archive.org/details/udnavargacolle00bkah 
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  69. ^ minor buddhist texts, Serie orientale Roma
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  81. ^ Louis de La Vallée Poussin, Theodore Stcherbatsky, and Tibetan Tradition on the Place of the Absolute in Yogācāra Buddhism, 2009
  82. ^ 上で引用した論文で続けて、その偏向が指摘論証される他、『チベット・インド学集成』の諸論で繰り返されるが、日本では未だに広くは認知されていないようである。例えば代表的な仏教史平川彰『仏教通史』1977, 61頁などは、まだその偏向のまま。流石に同時代の権威 Stein 1962年著英訳: TibetanCivilization, 1972, 72頁; 和訳『チベットの文化』1993, 68頁; Tucci, 1970年著英訳: The Religions of Tibet, 1980, 22頁なども免れている。
  83. ^ アティシャ研究は『チベット・インド学集成』第一, 三巻。「ゲルク派の伝える諸資料の宗乗的な偏向などを注意深く正して, アティーシャとその(旧)カーダム派の史的な姿を明らかにしようと試みられた」と評価される(磯田 熙文「羽田野伯献先生」1988, 21頁)。一歩前進させた研究が静春樹『ガナチャクラと金剛乗』2015
  84. ^ 『東洋文庫年報』昭和三十七年度, 5頁
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参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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